第2話


「返してくださーい!」


 広々とした青い空におマヌケな叫び声が吸い込まれていきます。


 くるくると中天に渦巻いた私の声はいずれ空の彼方へおわすお釈迦様、あるいはお天道様へと届くことでしょう。しかし、それでは遅すぎます。私は今、救いの糸が欲しいのです。


 さて、追いかけること早数十分。私はいまだに鳥さんから荷物を取り返すことができておりません。


 当然でありましょう。自慢の我が両脚とはいえ、お相手は人類が終ぞ得ることが敵わなかった翼を持つ鳥獣。さすがに分が悪すぎるのです。


 がむしゃらに駆け回りました。

 もはや自分がどこを走っているのかもわかりません。


 海沿いの遊歩道を駆け抜けて自然公園に突入したところまでは憶えているのですが、それ以降は鳥さんがいつ荷物を落っことさないか気が気でなく、周りを気にする余裕などありませんでした。


 いつの間にやら周囲は緑で囲まれていて、広々としたお空も徐々に狭まってきます。


 チラチラと見え隠れしていた鳥さんの影もだんだんと途切れていき......。


 そうして、青く茂った木々に遮られ、とうとう彼の姿は見えなくなりました。


「うむむ、これは困りましたね」


 わずかに乱れた息を整えながら私は困り果てました。


 これではお荷物の配達どころではありません。なにせ我が手元には配達すべき荷物がないのですから。


 今日は朝からお忙しとはいえ油断をしてしまいました。配達人としてあるまじき失態。これでは店長さんへ顔向けできません。


 ううむ、どうしよう、どうしましょう。


 いくら考えども妙案は浮かんできません。

 私はこの時ほど羽根を持って生まれなかったことを後悔したことはありません。

 

 譫言のように己への叱責を呟きながら右往左往していました。

 すると、近くの茂みから声がしたのです。


「どうやら困っているようだな、友よ」


 それは、尊大でありながらどこか愛くるしさを感じる声でした。


 まるでマスコットキャラクターが頑張って背伸びをしているような、そんな雰囲気を感じます。


「どなたですか、どちらにいらっしゃるのですか?」

「ここだ、友よ。こっちを見たまえ」


 がさり、がさり、と。

 草の根を掻き分けて、小さな影が姿を現します。


 私はそれを最初、小人、あるいはではないかと仰天しました。


 しかし、葉っぱの隙間から見えたその体躯は、ふさふさとした体毛で覆われていたのです。


 すわ、森に住まう先住民か。

 強襲を予想して僅かに身構えた私は、次の瞬間、大いに肩透かしを食らいました。


 それは犬でした。

 もふもふで、鼻の低い、皺くちゃな顔をした犬。そんな彼、あるいは彼女が、つぶらな瞳に理知的な光を灯して、さも当然のように二足歩行をしながらこちらへ歩み寄ってきたのです。


「ふむ、何か困っているなら力になろう」


 理性的な彼の様子に私は警戒心の一切を捨て去りました。

 どうやらとても協力的な犬さんのようです。


「それはそれは、ご丁寧にありがとうございます。大変に助かるのですが、まずはお名前を窺ってもよろしいでしょうか」

「む、確かに、まずは名乗るべきであったな」


 うむうむ、と。

 まっことその通りぜよ、とでも言いたげな大仰な仕草が彼の愛嬌を引き立たせます。

 犬さんはおほんとひとつ咳払いをして名乗りを上げました。


「我が名はまめ次郎。見ての通り君たち人間の永遠の友である犬であり、そしてパグ界随一の美パグでもある」


 以後、お見知りおきを。

 そう言って、もう一度お辞儀をする犬さん改めまめ次郎さんを眺めながら、なんて礼儀正しい犬さんなんだろう、と私は思ったのでした。











 犬は不滅である。


 これは犬にとって周知の事実であり、そして覆らない普遍の真理だ。


 犬は太古より人類の最優の友であり、そして最高の友であった。そしてこれから先もそうあり続けるであろう。


 犬には使命がある。

 それは永遠の友であり、最高の友である人間の守護をすることだ。


 この世界は危険に満ち溢れている。高度に発達した人間社会はドロドロとした悪意に満ち溢れ、それが膿となっていたるところにべっとりと張り付いているのだ。


 それは人間にとって害悪だ。放置すれば瘴気を漂わせ、挙句の果てには悪意の獣と化して人間に牙を剥く。


 だが人間は愚かにもそれに気が付かない。

 ゆえに、犬は人間に変わって、そんな害悪から友を守ることに決めた。


 もちろん犬の使命はそれに限らない。


 犬はかわいい。


 それも変わりようのない事実だ。


 犬はそのかわいさをもって、人間たちを癒すことに喜びを感じるのだ。ワンと吠えると人間はうふふと笑う。犬にとってはその人間の笑みこそ愛おしいとも知らずに。


 犬には休みがない。

 現世に生まれ出でるとそのときより戦いは始まる。


 友に牙を剥く不届き者へと咆哮し、そして傷付く友に寄り添いワンと励ます。


 散歩の最中だって休むことはできない。絶えず辺りを見回して友を守り、そしてご近所さんへ愛嬌を振りまくのも忘れない。ご近所さんだって友であるからだ。そしてなにより、永遠の友である主人のご近所付き合いを円滑にするためだ。友のためなら犬は努力は惜しまない。


 真夜中。丑三つ時も過ぎた刻限。

 そんな時間に虚空に向かってワンワンと高々に吠え荒ぶ犬を見たことがあるだろう。


 あれはただ寝惚けて吠えているのではない。あれこそまさに、人間に仇なす害悪から主人の身を守ろうと奮闘している姿なのだ。


 人間は愚かだ。

 忙しなく使命をまっとうする犬を揶揄することもある。

 老いてボケたのだと言うものもいる。


 だが犬はそれを許す。

 なぜならそれは、友に危険が生じていない証拠だからだ。


 人間が笑いかけてくれる。犬は友が幸せならそれで幸せなのだ。


 だが、そんな犬にも寿命はある。


 犬も生き物だ。

 若き体で生まれ出で、そして老いて死んでいく。


 しかし、犬にとって死とは離別を意味しない。

 犬は現世でその寿命をまっとうすると、一度その肉体を離れ、幽世から永遠の友を守る戦いへと身を投じる。


 すなわち、死とは新たなる戦いへの出発であり、使命をまっとうするため、友を守るための素晴らしき門出なのである。


 人間諸君。

 犬の親愛なる友よ。

 願わくば、犬に別れを告げるときは、笑顔で送ってほしく思う。

 それこそが犬のためである。


 またね、と。

 今までありがとう、と。

 わしゃわしゃと頭を撫でてくれればなおよしである。

 それだけで、犬は最高の幸せを胸に旅立つことができる。


 それでも、人間は悲しみのあまり涙を流すことがあるという。


 愚かである。

 だが、愛おしくもある。

 そうして、犬は言うだろう。


 犬は表裏一体の世界で、常に友とともにある、と。


 彼らは常々そう考えているのだ。











「つまるところ、犬である私もそう考えているというわけだ」


 そう言って、まめ次郎さんが語った内容は、この世界の知られざる秘密でありました。


「なるほど、ではまめ次郎さんは今まさに大切な使命の真っ最中なわけですね」

「いや、私は幽世に向かう途中であるのだが、生前に友と虹のたもとで待ち合わせの約束をしていてな。しばらくはそこでほかの犬と話し込んでいたが、今はそれぞれ好き勝手している」

「では少しの暇をいただいた形なのですね」

「そういうことになるな」


 うむうむ、と可愛らしいお顔で姿勢正しく佇むまめ次郎さん。


 その姿が、私の目には仏さまが遣わした救いの使徒に映りました。


 犬と言えば古来より人とともにあったベストパートナー。彼らとなら人は強大な悪い鬼だって成敗できてしまうのです。


 事態は一刻を争います。

 逸る気持ちを抑え、私が早速ワケを話すと、彼は親身に聞いてくださいました。


「うむ、話を聞くに、それはきっとの仕業であろう」

「ケナシケアリ......?」

「説明は面倒なので省くが、そういう名の鳥がいるのだ。奴らは普段、茸山に生息しているのだが、時折人里に下りてきて特に意味もなく悪さをする」

「なるほど、少し素行の悪い鳥さんなわけですね」


 どうやら私の悪行に腹を立てていたようではないご様子。

 私はまめ次郎さんにばれないようにほっと胸を撫でおろしました。


「やつらの行先なら心当たりがある。これも何かの縁だ、そこまで案内しよう」

「ほんとですか!」


 やはり神の遣いか。

 感激した私はまめ次郎さんの小さな腕を取って固い握手を交わしました。


「まめ次郎さん、ありがとうございます!とても助かります!」

「なに、友が困っているのだ。ここで助けずなにが友か。大船に乗ったつもりで私に着いてくるがいい」


 そう言って、お尻をふりふりしながら歩くまめ次郎さんの背を追って、私たちは森の奥へ進んでいくのでした。

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