世界の果てに犬がいた
第1話
得も言われぬ雰囲気漂う出店が軒を連ねる桜坂通りを北に下り、潮騒かほる海沿いの石垣を辿るようにして歩くこと数分。
ベンチに留まり、羽を休めているカモメを戯れに眺めていると、何やら鼻腔の奥をくすぐる香りがして、私は思わずゴクリと唾を飲みました。
芳ばしい香りに魅了された私は、誘蛾灯に誘われる虫のようにふらふらと、その匂いの出どころへ向かいます。
朝陽が顔を出して久しい刻限。そろそろお昼も近いかしら。そのようなお時間ですから、私はとてもお腹が空いていたのです。
なにせ今日は朝からお仕事で、北は
あれよあれよと東奔西走。気付けば疲労困憊の極みでしたので、休憩がてら、海辺を歩いていた次第です。
しかして勘違いなきように。疲労困憊といえども、我が足取りは狂うことを知らないのです。
背筋を伸ばして胸を張り、正面を見据えて快活遊歩。さすれば疲労痛痒なんのその。如何なる悪路も踏破せしめるのです。
匂いの軌跡を辿るようにして進みつつ、私は胸に抱えた小包に傷はないかと一瞥し、新品同様の包装を見て、ホッと胸を撫でおろします。
というのも、今日の配達三件のうち、一つ目が知蛇瀑だったのです。
知に目覚めた滝が蛇のようにうねり落ちることから付いた名前ですが、ご存じの通り、その道のりが大変に険しいのです。
元々が魔法使いの修練場ということもさることながら、騒がしくなって瞑想の時間を邪魔されることを嫌った知蛇瀑が周囲の環境をガラリと一変させてしまったのです。
最初はそこそこ深い森の奥に流れるそこそこの滝だったものが、今や樹海の奥地の隠れた瀑布へと様変わり。知恵を備えた自然のなんと恐ろしきことか。
しかしそんなことで私は挫けないのです。
野を超え山超え草を掻き分け遠路遥々荷物抱えて。なんとか辿り着きました。
依頼人は朗らかな老練の魔法使いでした。
こんなところで何をしているのかと問うてみると、曰く、知蛇瀑と語らっているとか。老練の魔法使いは荷物を受け取ると、知蛇瀑に向かい合い、何やら相槌を打っている様子です。
眼前にはうねるようにして落ちる知蛇瀑。その源を暴こうと上流を仰ぎ見るも、飛散した飛沫が霧となり、その全容は計り知れません。
深い蒼を湛える滝壺に絶え間なく落ちる知蛇瀑を眺めていると、私も彼、或いは彼女と語らってみたくなりました。
なればと耳を澄ませてみますが、聞こえるのは、どうどうという力強い
しかし老練の魔法使いは依然として語らい、微笑んでいます。素性は窺い知れませんが、只者ではないのは一目でわかりました。
彼ほどの魔法使いの言ですので、正直者の私は、もうしばらく知蛇瀑へと耳を傾けることとしました。剥き出た岩肌に座り込み、明鏡止水の心持ちです。
半刻ほど経った頃でしょうか。不意に、どうどうという音の中に、別の音があることに気が付いたのです。
それは、うねるように落ちる知蛇瀑の本筋から僅かに分岐した、言うなれば、子知蛇瀑が岩肌を削る、ぢぢ、という音。それは、霧状になった知蛇瀑が滝壺に降り積もる、サー、という音。それは、知蛇瀑がうねりの中に巻き込んだ空気が
なるほど。耳を澄ませてみると、存外に知蛇瀑は雄弁だったようです。これらの色彩豊かな音々が複雑に調和、共鳴し合い、我々へと語り掛けているのです。
いうなればこれは、自然との会話という事なのでしょうか。
うむむと会話の糸口を探っていると、不意に魔法使いがこちらをちらりと一瞥するのが見えました。
柔らかく微笑んだまま、しかしてその優しい瞳の奥には、どこかこちらを試すような、挑戦的な光があることを私は見逃しませんでした。
私は世間を荒波に揉まれながら、己の直感、或いは第六感のみを信じて歩んできました。そしてそんな、私の中の私が叫ぶのです。今だ、と。
己の心に従い、残りの荷物と斜め掛けの配達カバンを放っぽり、衣類を脱ぎ去って、瞬く間にすっぽんぽんになります。そして息をつく暇もなく、私は知蛇瀑暴れる滝壺に飛び込みました。
瞳の奥に隠された、こちらを見定めるような光に対する私の答え。それは、裸の付き合い、或いは当たって砕けろでした。
無論、考えるのが面倒くさくなって、やけっぱちになったわけではございません。私は負けず嫌いですので、言外とはいえ、あのような目を向けられると、思わず立ち向かいたくなる
しかし、私は何の修練も積んでいないただの小娘。片や相手は老齢の魔法使い。勝負の行方は語るべくもありません。ですので、私に残された道はただひとつ、特攻あるのみです。
また、知蛇瀑は
着水と同時に上げるドボンッという音、耳孔を掠める水流と泡が
深く、暗く、蒼い静けさの隙間から聞こえてくる、知蛇瀑の地響きのような語り。それを聞いて、私は知蛇瀑と心が通じ合ったと強く確信しました。
老齢の魔法使いの期待には応えられたであろうと思えましたが、しかして一つ誤算がありました。私は浮上しようと足で思い切り水を蹴って、盛大に足をつってしまったのです。
衝動的に飛び出して準備運動を怠ったツケでありましょう。
身動きの取れない水の中。辺りには掴めるようなものはなく、哀れにももがくしかない私は、徐々に仄暗い滝壺の底に沈んでいきました。
万事休す。
朧げな走馬灯が駆け巡りだした頃、何かが私の腰に巻き着きました。すわタコの化生か。などと考える暇もなく、私は勢いよく滝壺から放り出されたのでした。
岩肌に投げ出される肢体。
幸い痛みはなかったのですが、混濁する意識の中、それも突然の出来事でしたので、私はそれらの仔細を把握することはできていませんでした。
「ほらの、だから言うたじゃろ」
しゃがれた声で、魔法使いが知蛇瀑に語り掛けるのが聞こえます。
努めてそちらに目を向けると、そこにはさきほど配達した、伸縮自在の魔法のロープを握り締めた魔法使いがいたずら小僧のような笑みを浮かべていました。
「今から来る
知蛇瀑は、まるで信じられないものを見たかのように、そのうねる身体を一層しならせるのでした。
そこで私は己の思い違いを悟りました。
生まれたままの
そんなことを愚かにも訳知り顔で考えておりましたが、事実は小説よりも奇なりと言いましょうか。難しいことなど何もなかったのです。
この魔法使いはその言の葉を以て、なんとも普通に知田瀑との対話を成していたのでした。
◇
まいどありぃ!という店主さんの威勢の良い掛け声を背に、私は遊歩道沿いの焼き鳥屋さんを後にします。
結局、腹ペコの虫に勝てなかった私は屋台で焼き鳥を買った次第です。店主さんより頂いた白い紙包みには、今か今かと食べられるのを期待して熱を放っている焼き鳥たちがいます。
もはや涎が留まるところを知りません。
迸る食欲を抑えながら手頃なベンチに座ると、小脇に抱えていた子包みを傍に置き、早速お楽しみタイムと相成ります。
包みから抜き取りたるは一本の竹串、そしてそれに貫かれたジューシーなお肉たち。お天道様に照らされて、たっぷりと塗り込まれたタレにてらてらと存在を主張します。焼き鳥のなんと芳しいことか。炭火で焼いた鳥皮から香る匂いもまた、私の食欲を掻き立てます。
さて、私は焼き鳥を十本買いました。常人であれば一本一本を懇切丁寧に愛でながら食すのでしょうけれど、今の私は食に飢えた餓狼、あるいはバーサーカーでございます。
バーサーカーがお行儀など解すでしょうか。
答えは否であります。
バーサーカーにお行儀など必要ありません。求められるのはただ愚直なまでの本能。ただそれのみ。
すなわち、五指それぞれの間に一本ずつ串を挟み、両手合わせて計八本を鷲掴み。
これこそまさにお行儀の悪さの極致、これこそがバーサーカースタイルなのです。お母様にばれたら折檻では済まされません。その姿はさながら現代によみがえったウルヴァリン、あるいはおバカな食いしん坊と称されることでしょう。
これによって焼き鳥を食すスピードは何倍にも跳ね上がります。
いざ、参らん。
そんな掛け声とともに頬張った焼き鳥は、まさに砂漠にぶちまけた打ち水のように味蕾のひとつひとつに染み渡ります。
噛めば噛むごとに肉汁が溢れ出して、その度に身体は身震いし、脳細胞のすべてが肉汁で溢れてしまったのではないかと錯覚してしまう始末。
勤労の末、疲れた体にエネルギー補給をするこの瞬間。
嗚呼、これこそが至福でありましょう。
そんなことを考えつつ、私はふやふやの幸せ顔で焼き鳥を頬張りながら、近寄ってきた鳩に食レポをしておりました。
しかし、これこそが間違いなのでありましょう。
焼き鳥の食レポを同族である鳩にするなど言語道断。人道にも
それ故に天罰、否、鳥罰が下りました。
「ピィーッ!」
なんて、甲高い鳴き声とともに突如飛来した大きな鳥が、傍に置いていた子包みを搔っ攫っていったのです。
「なんとッ!そこは焼き鳥を持って行くところでは!?」
思わずそんなことを口走りましたが、事態は一刻を争います。
私は残りの焼き鳥を急いで平らげ、すぐに鳥さんを追いかけます。
焼き鳥を狙わなかったのには理由があるはずです。
きっと鳥のさんはわかっていたのでしょう。私が焼き鳥よりも子包みを持って行かれると大変に困るということに。
不覚でありました。
鳩のことを軽んじたつもりはありませんが、結果的に私の行いは鳥さんを侮蔑するに等しいものだったのです。
今後一切、鳥の方々には鶏料理の食レポはしない。
私はそう固く誓って、空高く舞い上がった鳥さんと子包みを追うのでした。
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