〈三跳〉


カエルさんは空き缶をレジ袋にしまうと再びこくこくと首を揺らしていたが、やがてバスはパーキングエリアに入った。ぼんやりとしたオレンジ色のライトが眠たそうに点灯し、溶けた声のアナウンスが流れる。


何人かの乗客が外の新鮮な空気を取り込むために重たい瞼を持ち上げてバスを降りた。カエルさんもゆっくりとそれに続いた。トイレにでも行くのだろう。ビールを飲んでいたのだから当然だ。ビールを飲み、気持ちよく眠り、排泄する。生物としての基本的で普遍的なルーティーン。なぜこれから一般社会に混ざろうとしている私が、そのルーティーンを捨てたのだろう。社会は複雑なんだなと思った。複雑に絡まり、真っ直ぐな道なんてもうどこにもない。遠回りしか残っていないから、結局はそれが一番の近道になる。


新鮮な空気を摂取したくて私もバスを降りた。休憩が必要だった。バスにも私にも。街から遠く離れたこのパーキングエリアでは、本物の星達が嬉しそうに震えていた。


カエルさんはタバコを吸っていた。カエルさんからタバコの臭いはしなかったから意外だった。私はカエルさんが満足気に、そして勿体なさげに吐く煙の中に昔を見る。大学に入ってから、私は2人の男の子と寝た。ふたりともタバコを吸っていた。1人は赤マルで、もう1人はPeaceを。赤マルは他の女の子と寝てることがわかって別れた。Peaceはとても親切な人だったけど、何となく、未来が想像できなかった。恋はした。でも愛情が湧かなかった。大学生はこぞってタバコを吸う。何故だろう。簡単だ、マージナルマンなんだ。大人の権利を手に入れた子供。大人になりたくて、その権利も手に入れて、子供の脳で考える。そしてタバコを吹かす、酒を煽る、セックスする。自分を主張する、我々は大人なのだと。ここに存在しているのだと。でもそれは間違っていないと思った。ルソーもそうだったのだろうか。あるいはカエルさんも。


就職活動では、誰もが殺した個性で作った無個性を一丁前にぶら下げている。間違っていない。境界人が進化するために必要な儀式なのだと思う。大人に見られたくて、色々と武装して、大人になるために、それを削ぎ落とす。結果的に、私達は最初より削れた状態で大人になるのだと、そう思った。でも、それなら今の私は大人なのだろうか。違う、まだ削らないといけない。酒とか友達とか男とか、そういうのじゃない。私は現在進行形で、武装ではなく皮膚を、肉を、心の臓を削っている最中なのだと感じた。体が更に強ばった。怖い。正しく削れるのだろうか。体が石のようにガチガチに固まりかけた時、タバコを吸い終えたカエルさんがこちらに向かって歩いてきた。


ぺたぺたと音を立てて歩くカエルさんは私の横を通り過ぎ、奥の自販機で飲み物を2つ買い、1つを私にくれた。ココアだった。暖かくて、傷によく染みた。カエルさんは何も語らなかった。語れなかっただけかもしれないけれど、今の私にはそれで良かった。カエルさんが、これから私が削る皮膚や肉の部分を埋めてくれているような気がした。カエルさんに慰められる日が来るとは思わなかったから、なんだかおかしくなって笑った。こんな経験は滅多にない。そうか、削られて、形がなくなっても、傷が残っても、経験とか、記憶とかは歳を重ねるごとに増えるんだ。今までの自分が無くなるわけじゃない。そう思うと、今の私を少しだけ好きになることができた。無意味に思える最近の私も、過去の私からしたら必死に生きた結果で、未来の私からしたら大事な記憶のひとつなのだ。


私は大きく息を吸う。深く、大きく、背伸びをしながら。休憩時間はそろそろ終わり。私はバスに乗り込む。カエルさんも乗り込む。ぺたぺたと。


バスはのっそりとその身を起こし、溶けたアナウンスを合図に再び夜を這う。睡眠は相変わらず私とは寝てくれないけど、前のような体の強ばりはもうなかった。肩の力が抜けて、今までの反動で体に上手く力が入らなかった。全ての身体器官が重かった。けれど、肩をガチガチに張り、全身をショーウィンドウのマネキンのように固めていた時に比べれば随分と心地が良かった。

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