満月が仄かにささやく

一葉 小沙雨

満月が仄かにささやく

 月が綺麗ですね、と一言でも、あなたに言えたらどんなに良かっただろう。

「……あらまぁ、立派なお月さまだこと」

 夜空に浮かぶ月を見上げ、私は一人、嫌みったらしく呟いた。

 まだまだ夏の名残を感じさせる風が髪を撫でる。

 その生ぬるさが残業上がりの私の身には大層鬱陶しかった。

「月が綺麗だからって、何だってのよ」

 私は頭上で輝き続ける円形に向かって吐き捨てるように呟いて、それから目をそらした。

 中秋の名月だか十五夜だか、正直私にはどうでも良かった。

 月なんかを愛でるよりも、それに便乗したお月見グルメ商戦に乗っかる方が、余程性に合っている。

 夜道に落ちていた私の影が急にぼやけた。ようやく月が雲に隠れたらしい。

(今のうちに、早く家に帰ろう)

 私は逃げるようにして歩く足を速めた。

 べつに、月は私なんかを追いかけてきているわけでも、見張っているわけでも、ないのだけれど。

 とにかく私はお月さまなんて、見ていたくない。


――……「ねぇ、『月が綺麗ですね』……って、一度は言ってみたくない?」


 かつての、あなたの発した声が私の耳の奥でまた再生された。

 その夜も立派な月がのぼった十五夜だった。

 あなたは少し照れくさそうにしていて、その台詞の前半だけで早とちりした私の様子を上目遣いで窺っていた。

 そのちょっとだけ悪戯っぽくした目の仕草と、それで誤魔化しきれなかったらしい期待を含んだ瞳の揺らぎすら、いまだに私の網膜が鮮明に記憶していて。

 そんなあなたにすっかり見惚れた私はすっかり黙り込んでしまって、自分の意気地のなさを存分に発揮したのをよくよく覚えている。

 夜道を歩く私の影がまた濃くなった。また月明かりが復活してしまったのだ。

 私の足はいつの間にか早足から駆け足に変わっていた。

 次に月が出た夜には、きっとその台詞を言おうと思っていたのだ。

 つきがきれいですね。つきがきれいだね。きれいなつきだね。


 あなたをあいしています。


 何でも、どれでも良かった。

 何でも良いから、絶対言おうと思っていたのだ。

 逃げるような駆け足で帰宅して、私は玄関でそのままへたり込んだ。

 でも言えなかった。それはできなかった。言われることすらなかった。

 あなたは次の月夜が来る前に、私の世界からすっかりいなくなってしまったから。

 カーテンの隙間から月明かりが漏れている。

 あのときと変わらないその淡いだけの光りが、うずくまったままの私へと、甘くつめたく、仄かに囁いてくる。


 ……ねぇ、月が綺麗ですねって。



 私に言ってよ。



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満月が仄かにささやく 一葉 小沙雨 @kosameichiyou

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