第5話  サイコの独壇場

 前に踏み出した右足がすくんで、それ以上半歩も出ない。左足は床に根付いてしまっている。全身が金縛りにあったように動けない。


 いったいどうなっちまったんだ。


 心臓ばかりが大きくのたうつ。割れそうだ。

 時間がない。まだ三十分くらいかかるはずなのに。


 いつもの悠長なパターンではない。滝のような汗が俺の顔の輪郭をなぞって流れ落ちる。


「私は小さい頃、うちの病院の看護師に〝悪戯〟をされた。それ以来、動く女は恐ろしくて、今でもセックスが出来ないんだよ。完全無欠なこの私がだよ。低級なトラウマに惑わされる情けなさが、きみにわかるか。はははは」


 鈴木はカラスが啼くような甲高い乾いた声で笑った。


「大型の冷蔵庫を見たときは焦ったよ。で、きみ一人だと確認できたときは『私のために大型の冷蔵庫が用意されていた』と神の采配に感謝したよ。君を動かない人形にしてから何度も楽しめる。常温だと死体の腐敗が早くて厄介だからね」


 鈴木の独壇場は続いた。


 まだ悠長に演説している。

 だが、いつ春香に牙をむいて襲いかかるかわからない。


 なのに俺は動けない。


「春香。早く逃げろ」

 俺は声を絞り出した。

 だが、声は俺の耳にさえ聞こえなかった。

 雷鳴にかき消されたのではない。

 叫んでも声が出ない。


 俺は混乱した。


「きみは『檀家もいなきゃ、業者も来ない』と言ったね。私は邪魔されずに春香人形を堪能できるってわけだ」

 鈴木が春香のほうに一歩、歩み出した。ゆっくりと春香に向かう。


 何故、動けないんだ。俺は悔しさに歯噛みした。


 鈴木に超能力があって、俺の動きを封じているのか。


 虚構の世界のような現実が俺を震えさせる。


 硬直していた場面が突如動き出した。

 映画の撮影で、カチンコが鳴らされカメラがまわり始めたかのようだ。耳をつんざく怪鳥のような叫びが、春香の悲鳴だか鈴木の雄叫びだか分からなかった。

 春香が顔をこわばらせ壁伝いに逃げる。


 もっと速く。速く逃げろ。俺は心で叫ぶしかない。


 死の追いかけっこが始まった。


 純白のかぶり物が、春香の動きに連れてなびく。

 黒い衣の袖が裾が舞う。

 乱れる裾から覗く白い足袋に青白く細い足首。

 色とりどりに織られた金襴の輪袈裟が奇妙な動きで弾む。

 黒々と大きな影が怪物のように炎に揺れる。


 これは夢なんだ。悪夢だ。


 息をのむ光景が、スローモーション映像のように、次から次へと俺の目に飛び込む。


 地鳴りのように雷鳴が轟く。

 蔀が、開き戸が、びりびりと振動する。

 護摩壇の上に並べられた閼伽、塗香、華鬘の六器が内陣の畳に転がる。

 春香が、金剛盤に載せてあった真鍮の法具、金剛杵を、鈴木めがけ力一杯投げつけた。

 だが鈴木には届かない。内陣の床に音を立てて虚しく飛び跳ねた。

 俺の心臓は喉元を突き破りそうだ。


 春香はとうとう壁際に追い詰められた。


 狩人は獲物を追い込むのが上手かった。


 鈴木は悪魔か悪霊なのか。

 こんなときに、仏の加護がないなんて。膝頭が震える。


 春香の恐怖が俺の恐怖になる。鋼の蔦になり俺の身体を絡め取る。舌がこわばる。全身が引きつるように痙攣し始める。歯ががちがちとぶつかりあう。


「きみは、私のために人形になってくれ」


 顔の筋肉を引きつらせた鈴木が、春香の身体を壁に押しつける。

 首に手をかける。

 春香の首を締め上げる。すぐにも春香の首の骨が折れてしまう。


 何かが狂っている。


 俺の周りの全てが意地悪く狂いだしたのか。怒りと恐怖で震えが止まらない。だが体は石になったように半歩も前に進まない。


 一秒ごとに俺の命が摩耗する。


 春香がいなくなった世界が、どんなに恐ろしいものか。


 この世は一切の色彩を無くし、地獄の最下層にある無間地獄と化すだろう。春香をなくすことだけに俺は恐怖した。


 体中の血が逆流する。

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