第4話 獲物
「いまさら良い子ぶっても無駄だ。私を泊めたのだって、こうして欲しいからだろ」
朽木の口調が突然荒くなり、春香の手をつかんで力尽くで抱き寄せた。
なんだか面白い展開になってきた。
刺激的でいい。俺の股間が熱くなる。
まさにこういう見せ場を盗み見するため、長い時間、狭苦しい場所で、かくれんぼしていたんだからな。
俺の脈拍が増加する。息子が期待で立ち上がる。
ヘンタイ夫婦でもいい。夫婦なんて自分たちのやり方で愛し合えばいい。
俺は春香がもうひとつの紅い唇で男を〝食う〟ところを覗き見して嫉妬に燃える。
これはふたりの愛を盛り上げるための前戯だ。
隙間風が激しく吹き込み、堂内の空気を揺さぶる。香の匂いが今更のように際立った。
「やめとくれやす」
春香は整った眉根を神経質にひそめながら顔をそむけ、たおやかに身をよじる。
輪袈裟がしなり墨染めの道服の裾が震える。
そそられる光景じゃねえか。俺は息が荒くなるのを感じた。
「ふふ。私はね。朽木なんて名前じゃないんだ。写真家の名を拝借して名刺を作っただけなんだ。本名は、鈴木太郎だ。信じる信じないは、きみの自由だけどね。ふふ」
朽木はとんだ〝食わせもの〟だった。
「写真は趣味なんだ。真実に近い嘘のほうがバレ難くていいからね。人形に関する知識も予習した上で乗り込んで来たってわけだ」
紳士然とした鈴木の顔が、酷薄さを纏いながら薄気味悪く歪む。
不吉な予感が、暗い井戸の奥底から生じる気泡のように浮き上がった。髪の毛の根っこの部分が時ならぬ緊張でぐぐっと締まる。
「きみでちょうど十一人目だ。私はね。周到に計画し十二分に準備するんだ。〝やる〟のは旅先。万が一発見されても行きずりの犯行と思われるようにしてるんだ」
『やる』という意味は『レイプする』ではなく、もっと危険な行為だ。
俺の心臓が、電極を刺して通電された蛙の脚のようにびくりと跳ねた。
「私はさっき、『きみの愛は要らない』って言っただろ。私は、〝人形〟の気持ちなんて、どうでもいいからなんだ」
鈴木にとって春香は、慰みものにしたあげく壊してしまう人形なのだ。
俺の頬から血の気が引くのをはっきりと自覚した。
すぐにも飛びだして助けるべきだろうか。だが……。
レイプ目的ならすぐに春香を殺さないはずだ。俺はもう少しだけ様子をみることにした。
「春香くん。きみだって、腐ってウジの湧いた汚らしい死体で発見されるなんて嫌だろ。ちゃんと発見できないように処理してあげるからね。安心したまえ」
鈴木は春香との距離を縮めるでもなく、楽しげに無機質な台詞を吐き出す。
夜は長い。時間はたっぷりある。行動に移る前に獲物を言葉で恐怖させるつもりなのだ。
「私は医者なんだ。それも外科のね。死体をばらすなんぞ、簡単なことだ」
鈴木の顔には、『人間の体を切り刻むために外科医になった』と書かれている。
「商売道具のメスなんかで切り刻んでは犯人特定に繋がりかねないからね。手近にある台所の包丁とか、裁ち鋏とかカッターで解体作業をするんだ。人間の身体を知っていれば上手くばらせるんだよ。ふふ。血液だって心臓が停止しているからね。首を切断したって流れ出る血液の量は知れている。派手に噴き出すわけじゃない」
鈴木はとんだサイコ野郎だった。春香は恐慌で口もきけぬのか押し黙ったまま動かない。俺の手の平に汗が滲む。
春香と朽木の距離はまだ四、五メートルも離れている。危うくなればすぐに飛びだし、二人の間に割って入ろう。俺は身構え、拳を握りしめた。
「皮膚や筋肉を切るのは果物ナイフでだって可能だ。素人は、まず手足の骨に難儀する。ノコギリなんぞを持ち出して頑張ってみたりする。けど関節部分の靱帯ならカッターナイフでも切断できる。一番太い背骨という段になってノコギリの登場というわけだね」
朽木の鞄には小型のノコギリが入っているのだろうか。いやいやノコギリも足がつかないように現地調達なのだろう。
朽木の慎重さと大胆さに、俺は背中から冷水を浴びせられたような悪寒を感じた。
「俺は慈悲深いんだ。生きたまま、きみを切り刻んだりするわけじゃない。死体を処理するために解体するだけだ。その頃には、きみの魂は身体を離れて空中を彷徨ってるって具合だ」
鈴木は外陣を歩き回り、得意げに語り続ける。
「私はね。K大の医学部にストレートで受かり、主席で卒業した超エリートだ。今はまだ勤務医だが、近い将来、父が経営する病院を継ぐことになっている。天は私に二物も三物も、いやそれ以上の〝ギフト〟を与えてくれた。だが私は……」
鈴木は、何故か突然、苦しげな表情で唇を歪めた。
「生きた女とはセックスできないんだ。いくら好きな女でもダメなんだ。動きを止めた、人形になった女でないと抱けないんだ」
鈴木は端正な顔をさらに醜く歪めた。
鈴木は、死姦が狙いのヘンタイだった。
レイプより殺害が先だ。
猶予はない。
俺は、隠れた場所から飛びだそうと、右足を一歩踏み出した。若い頃、喧嘩でならした俺だ。今でも腕には自信がある。〝武器〟になりそうな物だって、手近にいくらでもある。
だが……。
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