第3話  秋雷

「何もおへんけど」

 庫裏に戻っていた春香が、ゆるゆるとした動作で夕食を運んできた。鰺の干物だろうか。焼き魚の美味そうな匂いが漂ってくる。俺は腹が鳴らないかと急に心配になった。


「生きるていうことは命を頂くことどす」

 御仏に仕える尼なだけに、十八番である抹香臭い説教が始まった。

「植物にかて命はおます。人間は殺生せずに一日として生きることはできまへん。そやからこそ、無駄のあらへんよう有難くぜ~んぶ頂くことにしてますのんえ」


「食べものを粗末にしない、まさに仏教精神の実践ですな」

 朽木は前髪を掻き上げた。


「お釈迦はんの時代は、行く先々で布施してもろた食べ物を、ぜんぶ感謝しながら頂くことがええとされてました。そやからお釈迦はんは後の世みたいに『四つ足を食べたらアカン』とか贅沢は言わはらへんかったんどす。何でも余さず有難く頂くのが当たり前どす」


春香と朽木は打ち解けた様子で酒を酌み交わす。とりとめのない芸術談義や、たわいのない世間話。まるで旧知の仲のように話がはずんだ。


 刻ばかりがたっていく。俺が扉の陰に潜んでから、どのくらい時間がたっただろう。足腰が痛くなったが、ここは辛抱のしどころだ。


 春香は、連子窓の隙間からわずかに見える夜空を見上げた。今宵の月は丸いのだろうか。


「生人形を制作されるようになられたきっかけを、ゆっくりお聞かせ願いたいのですが」

 朽木のさりげない問いかけが、俺の心に釘となって突き刺さった。


「湿っぽい話になりますさかい勘弁どすえ」

 春香は杯に残った酒を静かに飲み干した。春香も俺と同じ気持ちなのだろう。


「私は決して興味本位でお聞きしているのではありません。作品に籠められた背景を知ってこそ、真の写真が撮れると思うのです」

 真摯な口調とともに、朽木が身を乗り出した。


「もう十八年も前のことどす」頬をほんのりと染めた春香が、遠い目をした。

「熊本の浄国寺はんで、谷汲はんそっくりなひとに偶然出会うたんどす。東京の下町で代々続いた人形師の跡取り息子はんどした。谷汲はんに魅せられて浄国寺はんに何度も通うてはる、っちゅうことどした」


夜が深くなるにつれ風が出始めたらしい。蔀戸が音を立てだした。


「熊本で別れた後、あのひとは、うちのアトリエ兼自宅に、突然、訪ねて来はりました」

春香の声は悲しい色を帯びていたが、後悔の色合いはなかった。


「旅先での出会いは輝いて見えるものどす。そやから長う続かへんと分かってました。うちは三十で、あのひとはまだ二十どしたしな」 


 俺は春香の内助のお陰で、谷汲観音像を作るための試行錯誤を続けることができた。作っては壊し、また作って壊すことが続いた。


「寝食も忘れて取り憑かれたはりました。うちは気付きました。完成したら踏ん切りをつけて東京へ帰らはるんやな、て」

 墨染めの衣についた塵を、春香は細い指で払った。


「では完成した人形はいま何処にあるのですか」


「いえ、あのひとは完成直前に、交通事故で亡くならはりましてん」


 哀調を帯びた春香の声は、俺を異境の地にぽんと放り出した。


なんで俺が事故死したことになるんだ。こうしてぴんぴんしてるのに。俺は吹き出しそうになるのを懸命に堪えた。


「お二人の愛は綺麗なまま終わってしまったのですね」

 朽木の声に感慨が宿る。


 外は雨も降り出したようだ。風だけでなく雨までが蔀戸を叩き、連子窓から風が吹き込む。春香は連子窓の内側の板戸を閉めた。


「うちは谷汲はんを完成させたげたいと思いました。実家が山科の寺やった縁で、無住のこの寺に晋山したんどす。静かにこの地で朽ち果てようと髪かて下ろしたんどす」

「なるほど」

 いかにも納得がいったというふうに、朽木は大きく息を吐いた。


「けど簡単なことやおへんどした。同じ人形いうても、生人形は球体関節人形とは全然作り方が違います。粘土やのうて桐の木から作られてます。それに喜三郎はんの人形作りの細かい技法は伝わってまへんのえ」


喜三郎は人形の皮膚の色艶にこだわった。胡粉と膠の配合具合に秘密があり、口に含んで薄く吹き付けながら時間をかけて仕上げたという。


「現代の生人形師とも言えるあのひとでさえ、何年も苦労してはりました。うちは、いつか満足のいくもんが作れるようになったら、あのひとにそっくりな谷汲はんを作るつもりどす」

 春香の語尾は、すぐ傍にいても聞き取れぬほど沈んでいった。


 雨の匂いが本堂の中にも侵入する。


「先生は、十四体もの素晴らしい観音像を完成させられたのですから、そろそろ谷汲観音像の制作に取りかかられてもよいのではないですか」

「まだまだ自信がない、ちゅうのもありますけど、谷汲はんを完成させてしもたら、あのひとへの愛も完結して、思い出は薄れる一方のような気がして怖いんどす」


春香はすがるような瞳で、本尊の千手観音が置かれた須弥壇を見上げた。視線を戻す際、ちらりと俺と目があった。


「谷汲はんは、やっぱり三十三体の三十三番目に作りたいと思てます。それまでに、うちの命のほうが尽きるかも知れまへんけどな」

 雨に打たれてしなだれた萩の花のように、春香は笑った。


 風と雨が強まり、野の草を吹き分ける野分の様相になった。遠くに雷鳴も聞こえる。野分というより秋雷というべきだろうか。


「春香さん……」

 朽木が春香の脇ににじり寄りそっと肩を抱いた。

「この世にもはや存在しないひとは、思い出の中で限りなく美しく浄化されているものです。誰だって敵わない。だから、そのひとの代わりに私を愛して欲しいとは申しません。私のこの愛をただ受け取って頂きたいのです」


「あきまへんえ。うちは御仏にお仕えさせてもろてる尼どすえ」

 春香はぴしゃりと拒否した。


 その調子だ。抵抗は強いほうが相手は燃える。

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