第2話 ひとがた
「お一人でお寂しくないのですか」
朽木の問いに春香は曖昧に首を振った。
確かに俺は正式な亭主じゃない。戸籍どころか住民票だって東京の家に残したままだ。
「一人暮らしとは違いますえ。この子ぉたちがいたはりますし」
春香は燭台を手に取り火をつけた。ほんの少しだけ闇が割れる。
「生人形は、幕末から明治にかけて見世物興行でえろう人気どしたが、今ではすっかり廃れてしもて……」
春香が朽木を内陣へ案内し、俺の視野から二人の姿が消えた。
内陣には、白衣観音、楊柳観音など、十四体の観音像が安置されている。
「頭の天辺から足の爪先まで、写実そのもので人間そっくりですね。布でできた本物の衣装を着させられているところが、普通の仏像との大きな違いですかな」
人形を目の当たりにした朽木の上擦った声に、誇りを感じるとともに少しばかり苛立ちを覚えた。
俺は、敬愛する松本喜三郎の生人形の系譜を、現代に蘇らせたいと思っている。
だが、生人形を世に知らしめたいと、美術館に出品したのは間違いだったかも知れない。生人形に魅せられた奴らが、次々寺に押しかけるようになるのではないか、という危惧が頭をよぎった。俺は春香と二人きりで静かに暮らしたい。
「やはり観音像だけあって、あるべき場所の光の中が一層輝いていますね」
朽木の声に熱がこもる。
「人形を〝ひとがた〟と読めば恐ろしいです。先生の生人形は、息吹が感じられるのに死んでいる怖い人形です。あ、それはもちろん良い意味ですよ」
「うちは死を閉じ込めているのかも知れまへんなあ。死ぬことのない永遠に生き続ける人形を作ってるのどすから」
話が弾む。美大出の芸術家同士、気が合うのだろう。俺はどうせヤンキー上がりの体育会系な人形職人だ。抽象的で優雅な会話なんてできない。俺のこめかみがぴりぴりし始める。
俺は二人の人形談義に割って入りたい衝動をなんとか宥め、我慢することにした。この気持ちを抑えた先に〝お楽しみ〟があるはずだから仕方がない。
「人形は勝手に生まれるんどす。元からそこにある人形を〝掘り出してあげる〟っちゅう感じどす。自分で生まれ、命が勝手に宿る。そないな手伝いをしてるのやと思うてます」
朽木の心に確信を植え付けようと、春香は熱っぽく話す。もとは俺の受け売りなのに、まるで持論のように、得々と語るところが笑えた。
――人形は作っているうちに別の生き物になる。人形を作る人間が、『人形に魂を入れる』とか、『人形に自分の思いをこめる』など、おこがましい――と、俺は信じている。
ようやく二人が外陣に戻って来た。金襴でできた和幡の影が、春香の持つ蝋燭の火に、波間に漂うクラゲのように頼りなげに揺れる。
「先生と生人形の出会いは、いつですか」
夕暮れがいよいよ近くなったが、朽木は急いで撮影に取りかかる風もなかった。
「子供の頃、喜三郎はんの作らはった谷汲観音像の写真を見たのどすが……」
春香は朽木に座布団を勧め、自らも腰を落ち着けた。
「綺麗やのに不気味なほど妖しゅうて怖おした。男のようで女のようで……。気品の中に卑しさがあって、全部が矛盾した人形や、て思いました」
用意していた急須にポットの湯を注ぎ、優雅な手つきで朽木に茶を勧める。
「喜三郎の作品で、今に伝わっている作品は、二千のうち、たったの十体ですよね」
朽木は、手にした湯飲み茶碗を静かに見詰めながら、
「見せ物興行の小屋で展示される、下世話な代物扱いだったから殆ど残されていないのが残念で仕方がないです」
一息ついて、勿体ぶった手つきで口をつけた。
「うちは時代を逆行してるのどす。球体関節人形に一生を懸けよて思てたのに、今は喜三郎はんの谷汲はんを現代にそのまま再現したいと願てるのどす」
春香は声に力を籠める。
「観音経には、観音菩薩はんが、三十三の変化身になってこの世に現れはるとされてますんえ。変化身には、如来、菩薩、諸天、人間、夜叉などさまざまなお姿があるのどす。うちは、いつか、三十三体全部作るつもりどす」
法灯の揺らめきで、春香と朽木の顔の陰影が濃く薄く変化し続ける。
「今晩は泊まらはって、明日ゆっくり写真を撮らはったらええのんと違いますか」
春香の誘い水に、朽木の瞳が輝く。
どうやらいつものシナリオ通りに展開しそうだ。
朽木と春香の距離が縮まるのを、俺は期待を籠めて観察し続けることにした。
この場に存在しない人間として……。
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