雲ヶ畑情歌・谷汲観音の辿る夢
出水千春
第1話 訪問者
京都賀茂川の源流、北山杉の林ばかりが続く雲ヶ畑。
点在するちっぽけな集落を過ぎ、草深い山道をさらに辿れば岩屋山観音寺に辿り着く。
「お、東京からの客人が来たらしいな」
庫裏の玄関先に提げられたけん稚を打つ音が、本堂にいる俺の耳に届いた。
「いま、参りますよってに」
春香の、はんなりとしつつも凛とした声が応じる。
「昨日、お電話させていただいた朽木涼です。本日は、一写真家として、春香尼先生の生人形を、是非とも撮影させて戴きたく……」
声から察するに三十前後らしい。口調も真っ当で、お上品だ。果たしてどんな男なのか。容姿をあれこれ想像しながら、俺はじっと耳を澄ませた。
さっそく境内を案内し始めたらしい。声がほんの少し近くなった。
「身過ぎの球体関節人形は、完成したら棚に並べてるんどすが、生人形のほうは工房には置いてまへんのえ」
「では三十三変化身の観音像は……」
「観音はんやさかい、本堂に安置してお祭りしてるんどすえ」
萩の咲き乱れる庭の飛び石伝いに、真っ直ぐ本堂に向かってくる気配がする。
「こうして見ると、結構、境内は広いのですね。おや。庫裏の奥に大きな冷蔵庫が見えますが。お弟子さんたちが寝泊まりされておられるのですか」
朽木は興奮気味なのか饒舌だった。どうやら軽薄で詰まらぬ男らしい。
「いやあ。お弟子はんやなんて、滅相もありまへんえ。辺鄙な山の中どすさかい、買い物も一仕事どす。冷凍庫に食べ物を仰山、買い置きしてるだけどすえ」
春香が間延びした言い回しで、ゆったりと答える。
「人形を扱う業者さんが出入りされるでしょうし、檀家さんだって訪ねて来られるでしょうから、何かと買い置きは必要でしょうな」
「いえいえ。うちの寺には檀家はんはおへん。業者はんかて、うちが連絡したときだけしか来はりまへん。いっつも静かなもんどすえ」
革靴と草履。足音がさらに近付く。
「珍しい草花が植わっていますね。山草は控え目で可憐で趣があって、私も好きです」
「その昔、薬王菩薩はんがこの岩屋山に降臨しはって、衆生の病苦を救うために薬草を植えはったんどす。紫雲みたいに薬草の花が咲いたんで、この地に雲ヶ畑ちゅう名ぁがつけられたそうどす。その頃の名残どすやろか。いまだに薬草が自生してるんどす」
朽木がぎしぎしと音を立てながら本堂の階段を上る。春香の足音は軽やかなので、朽木の足音にかき消されて聞こえない。
本堂の扉が開かれた。堂内に射込まれた僅かな光が、闇に慣れた俺の目には眩しい。春香は吊り下げられた金の灯籠に灯を灯すと、木肌のささくれた観音開きの扉を徐に閉めた。連子窓から差し込む日差しはあえかで、灯籠の灯りだけが無明の闇を照らす法灯だ。
「まさに仏の世界ですね」朽木の甘いテノールが、静まった堂内に反響する。
本堂は仏国土を再現し、御仏の住まいであることを示す外陣幡や天蓋幡、宝幢や天幢が掲げられ、蓮の花などの彩色常花で荘厳されている。だが年月の積み重ねで暗くくすみ、堂内の闇と同化していた。
俺のところから、朽木の姿はまだよく見えない。何とか見えないかと頭を傾け覗った。
「あらためて自己紹介させていただきます」朽木が名刺を渡す気配がした。
「え。T美大の芸術学部写真学科の准教授はんどすか。偉おすなあ」
春香の声音に尊敬の色が宿る。
「先生が『人形達の声』展に出品なさった〝白衣観音像〟に惹かれましてね。どうしてもカメラに収めたくなりました」朽木は熱っぽく語り始めた。
「先生の生人形は世界に誇りうる芸術作品です。人形の身体の中に魂が宿っています」
「いえいえ。そないな大層なもんやおへんえ。十五年前から生人形を手がけるようになったんどすが、まだまだ修行の身どす」
身体の一部しか見えなかった朽木の立ち位置が少しずれた。朽木は、上品なスーツに身を固めた涼しい目元の男だった。地位と若さと美貌と、しかもどうやら財力も持ち合わせているらしい。いかにも春香好みの男だった。俺の心に嫉妬が芽吹く。
閉ざされた闇の中、春香の腕にかけた念珠が法灯に煌めいた。
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