犬になっても貴女の側に

しばぴよ君

もう一度

 気が付けば、犬になっていた。

 犬と言っても、大型犬ではない。

 所謂、豆柴と呼ばれる犬種の姿をしている。

 

 いや、意味がわからないと思うだろうが、現実としてそれが起きている。

 異常なくらい匂いに敏感な鼻が人間時代との違いを明確に教えてくれ、もふもふの毛皮が寒空の下でも体温の低下を防いでくれている。

 何よりも、視線を落とした先に見える肉球。


 我輩は、紛うことなく犬である。


 取り敢えず、冷静に記憶を遡ってみようか。


――――――――――


 俺の名前は、犬飼 柴英いぬかい しえい

 24歳で社会人2年目にして新婚1年目の生活を2LDKの賃貸マンションで送っていたはずだ。


 妻の名前は、犬飼 小豆いぬかい あずき

 1つ年上の25歳で、大学時代の先輩だった。

 大学1年生のときに一緒の講義を受けており、たまたま隣の席に座ったのをきっかけに顔を合わせたら会話をする仲となり、次第に男女のお付き合いへと発展した。


 綺麗な黒髪ロングが良く似合っており、やや垂れ気味の大きな瞳は柔らかな性格をそのまま示していると言っても過言ではない。

 キメ細やかな白い肌にスッと通った美しい鼻、やや小さめの口元も愛嬌があり、周囲からも非常に羨まれるほどの可愛い妻だった。


 そんな幸せ絶頂な俺が、なぜ犬に……?

 もう少し深く思い出す必要がありそうだ。


 人間時代の最後の記憶を懸命に思い出そうとすると、全身にひどい痛みが走っていたことが脳裏に甦る。


 周りに見える景色は、真っ赤な炎と道路に作られる赤い染み。

 視界の端には自分の愛車と知らない車が共に横転している様子。

 どうやら横転した車から離れるため、這って運転席から抜け出したときの光景のようだ。

 その後、轟音が鳴る。


 人間時代の最後の記憶はそこで終わっている。

 どうも交通事故に遭い、その衝撃で車が燃えてエンジンに引火し、爆発したのだろう。


 つまり、状況を整理すると俺こと犬飼 柴英は交通事故で命を落とし、犬……豆柴に生まれ変わったようだ。


 いや、何で?


 確かに昔から、自分が165cmの低身長であったことに加えて名前に『犬』と『柴』が入るとこから『豆柴くん』とは呼ばれていた。

 

 でも、本当に豆柴にするかね?神様よ。


――――――――――


 記憶の遡りを済ませた俺は、辺りを見回しながら現状の把握を開始する。

 

 気が付けば犬になっていた、なんて言ってはいるが、今の俺が1歳半程度の年齢だということは分かっている。

 何で分かってるかって?自分が今入っているダンボールに書いてあるからさ。

「生後1年半の豆柴です。オスです。誰か拾ってください」ってね。

 

 いや、捨てられてるんかい。


 どうも、捨てられた衝撃と防衛本能で人間の頃の記憶が一気に甦ったみたいだ。

 少し記憶を遡れば、犬として生を受けた1年半の記憶もちゃんとある。

 人としての尊厳に関わってしまうから、この記憶を深くは聞かないで欲しいが……。


 今いる場所は、ベタに川沿いの高架下スペース。

 俺を捨てた元飼い主様は、雨に打たれないようにの最低限な配慮はしてくれたようだ。

 そんなことを思いながら辺りを見回し続けると、ふと違和感を覚える。

 

 この辺りの景色は薄っすらだが見覚えがあるぞ?


 記憶が正しければ、この辺は新婚生活を営んでいた賃貸マンションと近い場所な気がする。

 あまり来たことのない場所だが、人間時代に夫婦の散歩で一度だけ訪れた記憶と現在の景色が合致した。


 そこでふと天啓が降りる。


 生前の心残りと言えば、どう考えても妻の存在だ。

 新婚ホヤホヤの中、交通事故で突然の別れとなってしまったことが本当に申し訳ない。

 幸せにすると誓った人に、むしろ失意を抱かせたであろうことに激しい後悔の念が押し寄せる。


 一目で良い。

 今も元気に過ごしてくれているかを確認したい。

 欲を言うなら、突然の別れとなってしまったことを一言でも良いから謝りたい。

 この体は人語を発せないようなので難しいかもしれないが、それでも伝えに行きたい。

 願わくば、もう一度だけ貴女の側で同じ時を過ごせたら。


 そう思ったら、自然と足がダンボールの外に出て、大地を踏みしめる。


 あれからどれだけの月日が経っているかはわからない。

 同じ場所に住んでいる保証もない。


 それでも、もう一度。


 俺は記憶にある方角へ足を向けて、あの頃とは違う四足で歩きだした。

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