第2話 猫手川、潮風に宇宙の真球を知る

       1


 その夜、黒猫くろねこエリーは、空をながめていた。

 無音の部屋にはとお藍色あいいろがゆらぎ、本猫ほんねこいわく、実は人間であるという天色あまいろの猫『たちばなみやび』は、スースーと、静かな寝息ねいきをたてている、深夜──

 ふと、目を覚ました猫手川ねこてがわは、

「……エリー?」

 まだ夢現ゆめうつつのままに、つぶやいた。

 ねむるときには、たしかにうでにくるまっていたエリーがいない。

 水中のような藍色の夜のなか、絹のようにつややかな被毛ひもうにつつまれたその手を窓の枠にかけて、エリーは、じっ──と、外を見つめていた。

 猫手川は、この黒猫『エリー』の『自称じしょう』飼い主である。しかし、本猫には飼われているつもりなど、さらさらないであろう。

「エリー? 眠れないのか?」

 猫手川は問いかけたが、エリーは返事をしなかった。

 夜の色彩しきさいは、黒猫であるエリーの輪郭りんかくをおぼろにかし、ただ、満月の色をした瞳だけが、闇に浮かぶ宝石のようにきらめいている。

 一瞬、エリーの横顔が、強くあおい光りに照らしだされた。

 満月の色をした双眸そうぼう閃光せんこうのようにあおく輝き、エリーはわずかに、口を開いた。

「……エリー?」

 呼びかけたが、返事はない。

 エリーは、じっ──、と、窓の向こうを見つめていた。

 猫手川はしばらくの間、そのようなエリーの姿を無言のうちに見つめていたが、やがてまた、いつの間にか眠りの世界にいざなわれた……。


 翌朝!


「海へ、いくわよ」

 と、エリーは言った。

「オレもいくにゃ」

「ボクもいく」

 長毛種ちょうもうしゅの大きな白猫『宇宙そら』と、天色の猫『橘みやび』が、それにつづいた。

「海?」

「ええ」

「なんで?」

 猫手川がたずねると、

「……言う必要があると思っているの?」

 エリーはややかに、そう言った。

 あらかじめ、答えはわかっていた。

 猫手川は冷ややかなエリーの視線をふりきり、外出の準備を終えると、ふたつのトートバッグを肩にかけた。

 猫手川は遠出とおでに際しては、いつも、マチつきの大きなトートバッグをもっていく。

 猫のキャリーバッグというわけだ。

 これまではひとつのトートバッグでこと足りていたのだが、収納猫数的に、今日はふたつのトートバッグが必要だと思い、両の肩にかけた次第であった。しかし……、

「それは、いらない」

 と、エリーは言った。

「……何で? 海となると、少し遠出になるぞ?」

「今日は、バスにも、電車にも乗らない」

 エリーは言い、そうして、一行は部屋をでた。


 猫手川の住む部屋は、小高こだかおかのうえにつ洋館の二階にある。

 洋館の一階で『小出毬コデマリ』にあった。

 この洋館の管理人である、佳人かじん、小出毬は、先ほどから床に四つんいになって、玄関ホールの家具のしたなどを、しきりにのぞいているのだった。佳人らしからぬ、あられもない姿である。

「……コデマリさん?」

「あら猫手川さん。今日は、みなさんでおでかけですか?」

「ええ、まあ……」

 と、返事が歯切れの悪いものになってしまうのは、猫手川が、その外出の理由を知らないからだった。いつものことである。

「いつも、うちの宇宙がすみません」

 小出毬は丁寧に、ぺこり、と、お辞儀じぎをした。

 この白い長毛種の猫、宇宙は小出毬の飼い猫である。

「いえいえ! いつでもおまかせください!」

 と、猫手川は、ことさらはっきりとそう告げた。

 小出毬は、猫手川の思い人でもある。

「あら、エリーちゃん、かわいいポーチね」

 と、小出毬は微笑ほほえんだ。

 エリーは小さく「にゃう」と、鳴いた。

 エリーの胸元には、見慣れぬ、風のポーチがゆれていた。

「ところで、コデマリさんは、何をしているんですか?」

 と、猫手川は、先刻せんこくからの疑問をたずねた。小出毬はいまも、あられもない恰好で、床にいつくばっているのだった。

指環ゆびわを、なくしてしまいまして……」

 と、小出毬は非道ひど落胆らくたんした様子で、うつむいた。

「朝からずっと探しているのですけど、見つからないのです。もしどこかで見かけましたら、わたしにお教えください。青くてまるい、大きな宝石のついた指環ですので、見ればすぐにわかると思いますわ」

───いますぐにでも、一緒になって探してあげたい!

 猫手川は思ったが、エリーの冷ややかな、それでいて異常なまでの圧力をもった視線が、それをさせない。

───できるだけ早く用事をすませて、帰ってきます!

 猫手川は、そう、心に誓った。


       2


 坂をくだる。

 猫手川の住む洋館は、小高い丘のうえにある。

 そのようなわけで、どこへいくにも、まず、くだることとなる。

 一行は、エリーを先頭に、陽気な遠足といったていで、すすむ。

 歩きつづければ、わずかに汗ばむ、そのような時期だった。

 海までのみちのりは、それほど非道く遠いというわけではない。しかし、歩くとなれば、それなりの距離がある。

「海まで歩くのか?」

 猫手川はたずねた。

 バスに乗れば、みなとの駅まで、さほど時間もかからずに着く。

 そこからは、海まで、至近の距離だった。

「歩かないわ」

 と、エリーは言った。

「じゃあ、どうやっていくんだ……?」

 天守風建造物てんしゅうふうけんぞうぶつである千華城ちはなじょうと、大学病院にはさまれた、通り二車線のせまい道を、くだる。

 坂の終わりには、川と公園があった。

 はるみ川、と呼ばれるその川にせりだす公園のポーチに、一艘いっそう、非道く時代がかった木製の船が停泊していた。

「……わたぶね?」

「そう。今日はこれで、海までいくのよ」

 エリーは、ふふん、と、鼻を鳴らした。

 とりたてて観光名所でもない、はるみ川。

 もちろん、渡し船のサービスなど、ない……。

 はずなのだが、

「いくわよ」

 と、エリーはかろやかに、船に乗りこんだ。


 わたもりの老人がかいで岸辺をつくと、船は音もなく動きだした。

 渡し船は、すべるように、水面みなもをすすんだ。

「エリーちゃん、バスが嫌いなのにゃ。だから船に乗ったのにゃ」

 と、宇宙は陽気に言った。

「……余計なことは言わないで」

「お前、そんなにバスが嫌いなのか?」

 しかし、それにはうすうす、気がついていた。

肉球にくきゅうにすごい汗かいてるもんな?」

「なっ! なぜそれをっ⁉」

「いつもバスに乗るたび、トートバッグから汗がしみだしてるから」

「なっ⁉」

「バスいいじゃにゃいかー。オレ、バス好きにゃ」

「ボクも好きだよ、バス!」

「バスバス言わないでくれるかしら! あー、忌々しい……」

 と、エリーはそっぽをむいてしまった。

 エリーはバスの騒音が苦手なのだ。あるいは、それは、聴覚の発達した猫にとっては、ごく自然なことなのかもしれない。そうでない宇宙と橘みやびが、おかしいとも言える。

 そして猫は、存外ぞんがいプライドの高い生き物である。なにがあっても、とりあえずは素知らぬ顔でやりすごそうとする。

 この尋常ならざる気品あふれる、黒猫、エリーにしても、それは例外ではない。

 エリーは、からかわれることや、自分の失態を認めることが、大きらいなのだった。

 渡し船は、川をくだっていった。

 ほおでる風がわずかに湿り気を帯び、やがて、はるみ川は海へと流れだす。

 海、といっても、リゾート地にあるような、白い砂浜や、トロピカルな珊瑚礁、等があるわけではない。

 首都しゅとに面した、わんである。

 このあたりは、埋め立て地のうえに建つ工業地帯であり、目につくものといえば、そのほとんどが、工場と、貨物船だった。

 見て楽しいものといえば、近辺に大型商業施設があるくらいのものだ。

「やっぱり工場はいいにゃー! わくわくするにゃ!」

「工場いいよね! 見学とか、楽しいよね!」

「貨物船もいいわね! 浪漫ろまんを感じるわー」

 前文修正──

 このあたりは、埋め立て地のうえに建つ工業地帯であり、目につくものといえば、そのほとんどが、わくわくするような、とりわけ見学が楽しい工場と、浪漫あふれる貨物船だった。

 渡し船は、さらにすすみ、眼前には巨大な、市のランドマークタワーが見えてきた。

「ここよ」

 と、エリーは言った。

 渡し船は、ランドマークタワーにある、人工的な、小さな砂浜に乗りあげた。

「とうちゃくー!」

 と、橘みやびが、元気よく飛びだした。

 エリーは真っ直ぐに、砂浜を走っていった。

 宇宙もそれにつづく。

 海のうえを、すずやかな風がすべってくる。

 小出毬に、貝殻かいがらでも拾って帰ろうか。

 猫手川は、そう思ったのだが、砂浜には、さざれた貝殻の破片はへんと、うちあげられてしなびた海藻かいそうがあるばかり。

 近景には工場の無機物が居並び、遠景には、優雅さよりは、機能主義を美とする貨物船が往来おうらいする。

 それでも海は、はかり知れない開放感をもって、そこにあった。

 波は、その身におだやかな三角形を数多あまたにうかべ、いただきにのぼり続ける太陽は、ゆらぐ水面に数多のきらめきをおとしている。

 胸をくような、れとした、よい天気の日だった。

 しばらくの間、砂浜を嗅ぎまわっていたエリーが、その動きをとめた。

「これ……、かしら?」

 と、エリーは首をかしげた。

 そこには、ビー玉くらいの大きさの、鉄のような、まるい石がおちていた。

「なんなんだ、これ?」

「とりあえず、拾いなさい」

 猫手川は、エリーの言うままに、それを拾いあげた。

「なんなんだ、これ?」

「宇宙に見せなさい」

 猫手川は、エリーの言うままに、それを宇宙に差しだした。

「なんなんだ、これ?」

「どう?」

 と、エリーは、宇宙にたずねた。

「……ちがうにゃ…」

 宇宙は、ふるふる、と、首を横にふった。

「そう……」

「…………」

「…………」

 そうして、ふたりは、いきをついた。

「だから、なんなんだよこれっ!」

 いい加減焦れた猫手川が、叫ぶようにたずねると、

隕石いんせきよ」

 と、エリーは、ぶっきらぼうに答えた。

「……い、隕石⁉」

「そうよ」

「隕石って、あの、宇宙うちゅうから降ってくる、あの、隕石か……?」

「そうよ」

「今日は、これを探しにきたのか?」

「そうよ」

「……お目当てのものを見つけたのに、なんでふたりして溜め息なんかついてるんだ?」

「……別に、なんでもないわ」

 なんでもない、と言うわりには、その表情には普段の煌めきが不足している。

 このような冴えない表情をするエリーは、あまり見たことがない。元気はつらつが猫の形態をとっているだけの、宇宙までもが、そのような表情をしているのだ。

 心配にもなる……。

「なあ、お前ら、どうしたんだ?」

「……なんでもない、と、言ったはずよ」

「でもさ──」

「ちょっと、あなた!」

「ど、どうした?」

「……帰るわよ」

 と、エリーは言った。

 宇宙は黙って、エリーの言葉にうなずいた。

 そのとき……、

「猫手川くん! ソフトクリーム食べよう!」

 あたりを走りまわっていた橘みやびが、元気に帰ってきた。

「あのタワーの売店に売ってるんだって! ねえ、買ってきてよ!」

「……ソフトクリームにゃ?」

 宇宙がぴくりと、耳をたてた。

 そのトパーズ色の双眸に、わずかな煌めきがもどってくる。

「……よし、買ってこよう」

 と、猫手川は言った。

「いいから、もう帰るわよ」

 エリーはかたくなに、帰りたがった。

「せっかくこうして、海まできたんだ。ソフトクリームくらい食べてもいいだろ?」

「そうだよ! エリちゃんもソフトクリーム食べよう!」

「そうだにゃ! ソフトクリーム食べようにゃ!」

「でも……」

「じゃあ、買ってくるぞ」

「やったー!」

「お前たちは、さんにんでひとつでいいな?」

 猫手川がそう言うと、

「やだよ!」

「やだにゃ!」

 と、すぐさま非難の声がわきあがり、

「ひとりにつき、ひとつのソフトクリームを所望しょもうするわ」

 エリーは当たり前のように、そう言った。


 太陽は天頂てんちょうへといたり、じっとしていても汗ばむほどの陽気となった。

「うまー!」

 橘みやびは、満面の笑みを浮かべた。

 一行は、砂浜を一望する木陰こかげで、ソフトクリームを食べている。

 エリーは先ほどから少し離れたところで、物憂気ものうげにソフトクリームを食していた。

 きぬのようにつややかな黒髪を海風にゆらし、その肩を、わずかにおとして。

 猫手川には、そのように感じられたのだった。

 上機嫌になった宇宙に、猫手川はそっとたずねた。

「これって、一体、なんだったんだ?」

 猫手川の手には、いまだ、隕石がにぎられている。

「エリーちゃんは、オレのために、隕石を探してくれたのにゃ」

 と、口のまわりをクリームでべたべたにした、宇宙は言った。

「……どういうことだ?」

 猫手川は、その口元をふいてやりながら、宇宙にたずねた。

「コデマリの指環の石をなくしてしまったのを、エリーちゃんに相談したのにゃ。そうしたら今日の朝、エリーちゃんがきて、それを見つけたって言ったのにゃ」

「コデマリさんの指環?」

「そうにゃ──」


       3


 数日前の、ある日のこと。

 宇宙は、青くてまるい宝石のついた、指環を見つけた。それは、日々の家捜やさがしの成果が実った瞬間だった。


『これはいいものを見つけたと、思ったにゃ』


 まずは、指先で転がして遊んでいた。

 人であれば、気の遠くなるほどの時間、転がしたあと、今度は、サッカーボールの要領で、リフティングをしてみた。しかし、転がして遊ぶほどは面白くはなかったという。


『こいつは、そろそろ潮時しおどきにゃと思って、机においたにゃ』


 すると青い石が、ころり、と、はずれた。


『それはそのまま、外に転がっていったにゃ』


 宇宙は、その青い石を追って外にでた。


『車にはねられたにゃ』


 車にはねられた石は、ぽーんと、宙に舞った。


『カラスがキャッチしたにゃ』


 カラスは光りものに目がない。

 目の前にあらわれたそれを、すぐさまくわえると、そのまま、どこかに飛んでいった。


『オレは、そのカラスを、おっかけたのにゃ』


 宇宙が鳥たちの協力を得てカラスをつかまえたのは、海沿いに建つ、製鉄所の上空だったという。


『石はそのまま、溶鉱炉ようこうろにおっこちたのにゃ』


 そうして、見るも美しい青い石は、な、えたぎる液体となった。

 そういうことであった。


「…………」

───そんなことってあるんだぁー⁉

「まあるい、きれいな、青い石だったにゃ……」

 そうつぶやくと、宇宙は耳をふせて、また、おちこんでしまった。

 猫手川は、宇宙の頭をやさしくなでながら、昨日の夜の、蒼く輝いたエリーの横顔を思いだしていた。

───なるほどね…。

 エリーはきっと、あの蒼い光りを見て、それが指環の石の代用品になると、そう思ったのだろう。

 しかしその蒼は、砕け散った流星の、プラズマの光り。

 いま猫手川の手のなかにあるこの隕石は、鉄のように煌めく、まるい石だった。

───これはこれで、きれいだけどな……。

「その石は、青い宝石だったんだよな?」

「そうだにゃ」

「透き徹っていたか?」

「それはもう、透き徹っていたにゃ」

「なあ、エリー?」

 猫手川は、エリーに声をかけた。

「そのポーチのなかにあるもの、見せてくれないか?」

「……なんでよ?」

「いいから」

「…………」

 エリーは、渋々しぶしぶ、といった体で、がまぐち風のポーチを開いた。

 なかには、猫手川の予想通り、小出毬の指環が入っていた。

 おそらくは白金プラチナであろう、その指環には、四つの爪のような台座がある。

「けっこうな大きさだな」

 その台座から想像するに、それは、なかなかの大きさをした石だった。ビー玉くらいの大きさはあるだろう。

「青い宝石か……」

 と、猫手川は、つぶやいた。

 質のよさそうな白金が、上品に煌めいていた。

 この指環に合いそうな、透き徹る青い宝石といえば、サファイアくらいしか思いつかない。

 ビー玉ほどの大きさのサファイアとなれば、おいそれと手に入るものではないだろう。

 小出毬が、必死になって探していた理由も、非道くおちこんでいた理由も、よくわかる。

 猫手川は、彼らが今日、ここへきた目的がようやく理解できた。

───さて、どうしたものか……。

 あたまをかかえて、うずくまりたくなるほどの難問に思えるが、その実、猫手川の脳裏にはその解法かいほうが、確信をもってうかんでいる。

───素直に、あやまるしかないな。

 と、猫手川は結論づけた。

 猫手川が確信しているのは、きっと小出毬は、宇宙を許すであろう、ということだった。

 猫手川のる小出毬とは、そのような女性であった。優しさと愛情が服を着て、洋館の管理人をしている。近くて、遠い、美しき人。彼女は失ったサファイアのことをなげくだろうが、同時に、宇宙の正直さを尊ぶであろう。

 そうして、小出毬の納得する、サファイアの代わりとなるものをあつらえるしかない。

───そのために、僕はなんでもしよう。

 こうしてエリーが宇宙のためにほねを折って、海までやってきたように。 

 猫手川は、愛情のこもった双眸でエリーを見つめた。

 上質な絹より遥かに美しい黒色が、太陽の光りをたっぷりとふくんで、きらきらと煌めいていた。

 わずかなうれいをびて、ソフトクリームを食べるエリーは、素晴らしくかわいい。

 けれども、蒼い閃光を見て、それを青い隕石だと思ってしまうエリーは、もっともっと、ちょっと、とんでもなくかわいいと思った。

「……ちょっと、あなた?」

 と、エリーは言った。

「ん、どうしたエリー?」

「なによ、そのしたり顔は?」

「し、したり顔⁉」

「ええ。すべて知ってます的な、その顔。やめてくれないかしら」

「そんな顔してない!」

「してるわよ。しょうがないから言っておくけど、わたしはただ、隕石をとりにきただけなんだから。おろかな憶測で、勝手にわたしの行動を結論づけないでくれるかしら? 反吐へどがでるわ」

「…………」

───負け惜しみだろっ‼

「エリーちゃん、負け惜しみだにゃ」

「ちがうもんっ‼」

「じゃあさ、せっかく海にきたんだし、もっと遊んでいこう!」

 なんの脈絡みゃくらくもなく、橘みやびは元気よく言った。


 ひとしきり遊んだ。

「あー、のどかわいた。猫手川くん、なんか飲み物、買って!」

「……お前ら、食うか、飲むか、遊ぶかしかないのか?」

「あなただってそうじゃない」

「のどかわいたにゃ~」

「ラムネ~。おいしいラムネはいらんかね~」

「あっ、ラムネ屋さんだっ!」

「ラムネ飲みたいにゃ!」

「キンキンに冷えた、アンティーク硝子瓶ガラスびんのラムネだよ~」  

「…………」

───まあ、僕ものどが渇いてるし、いいか。

「毎度っ!」

「うまー!」

 一行は、砂浜を一望する木陰こかげで、ラムネを飲んだ。

 波はここちのよいリズムで、寄せては帰し、あとには洗われるような波の音が、身体と融け逢うように残っている。

 じっとりと汗ばんだ身体に、冷たいラムネがしみわたった。

 硝子瓶のうちがわで、ビー玉が、軽やかな音をたてた。

「このビー玉って、どうやってなかに入れてるんだろう」

 猫手川は、昔からの疑問を舌に乗せた。

「このビー玉がどうしてもほしくてさ、色々ためしたけど、結局とれなかったな……」

 瓶を割ることはしなかった。それを壊してまで、手に入れようとは思わなかったのだ。

「でも、こうして見ると、やっぱりほしくなるな」

 太陽にかした硝子瓶のなかで、ビー玉は煌々きらきらと、七つの色を満たしてゆれていた。

 エリーは黙って、猫手川を見つめている。

「割っちゃおうか?」

 と、橘みやびが言った。

「……だめだろ。ほら──」

 猫手川の視線の先で、ラムネ屋さんが目をギラつかせている。

「ラムネ屋さん、オレたちを見張っているにゃ?」

「瓶は返せって、言ってたからな」

 わずかにかかとを浮かせ、いつ何時なんどきでも駆けつける準備を整えているラムネ屋さん。

「な?」

「う、うん……」

「ほしいの?」

 と、エリーは言った。

「ほしいけど、瓶を壊してまではな……」

「そう……」

 結局、ビー玉はあきらめて、ラムネ屋さんに瓶を返した。


       4


 帰りも、渡し船に乗った。

 当初の目的はどこへやら。結局、海へと遊びにいったという、そんな一日だった。

 小高い丘のうえに、猫手川の住む洋館はある。

 玄関ホールにつくと「はい」と、エリーがなにかを差しだした。

「……ビー玉?」

 それは、青く透き徹るビー玉だった。

「そうよ」

 と、エリーはそっけなく言った。

「お前、あの瓶、壊したのか⁉」

「ちがうわよ」

「じゃあ、どうやって⁉」

「お願いしたのよ」

「……ラムネ屋さんに?」

 あれほど厳重に瓶の行方ゆくえを見張っていたラムネ屋さんが、瓶を壊させてくれるとは到底思えなかった。

「ちがうわよ」

 エリーは冷ややかに、

「ビー玉によ」

 と、言った。

「…………」

───はぁ?

「ビー玉に、でてきなさいと、お願いしただけよ」

 エリーは言い、猫手川に青く透き徹るビー玉を渡した。

「ちょ、ちょっと待ってくれ! それってどういうことなんだ⁉」

「あー、あきれた。ものがなにでできてるかも、知らないなんて……」

「え?」

「この世のものは、全部、同じものでできてるんだから、お話するくらい当たり前じゃない」

 人の目線よりもはるかに低い位置から、猫手川を見下すエリーは、そう言った。

「その手があったにゃー!」

 と、宇宙は非道く、くやしがり、

「いいなー! 猫手川くんいいなー! …………いいなあぁーー!」

 と、橘みやびは非道く、うらやましがった。

「おかえりなさい。みなさん、玄関先でどうしたんですか──」

 騒々そうぞうしい一行を出迎えた小出毬は……、

「ああっ!」

 突然、悲鳴のような声をあげた。

「それ……」

 猫手川を指さす小出毬の手が、わずかに震えていた。

「それ? このビー玉がなにか?」

「わたしのA玉っ‼」

「え、え、エー、玉……?」

「ありがとうございます、猫手川さんっ‼」

 猫手川は、予期せぬ熱い抱擁ほうようをうけた。


 白金の台座に、ラムネのビー玉が鎮座している。

 小出毬はいとおしそうに、自分の指にもどってきた指環を見つめていた。

 猫手川はエリーを見た。

 エリーは、こくり、と、うなずいた。

 そうして、ふいっと顔をそむけると、どこかへいってしまった。

「A玉と言うんです」

 と、小出毬は言った。

「A級の『A』なんです。ラムネの栓に使われるものは、それほど精巧につくられたものなのですよ」

 審査をパスした、真球しんきゅうにより近いものを『A』、それ以外の不完全なものを『B』と言った。

 ビー玉には、そのような語源もあるらしい。

「それにこれは、いまではほとんど見られなくなった、オールガラス製のラムネ瓶に使われていた、かなり古いA玉なんです。手に入れようと思っても、なかなか手に入らない逸品です」

「…………」

───ラムネ屋さんグッジョブ!

 幼いころ、瓶からとりだしたそのA玉は、小出毬の宝物だった。

 それをある時、小出毬の祖母が、指環に仕立ててくれたのだそうだ。

 宇宙のいたずらが引きおこした騒動も、真球のA玉のように、すべてがまるくおさまったようだ。

 しかし、猫手川には、どうしても気になることがあった。

「コデマリさん、どうやってA玉をとったんですか? やっぱり、瓶を壊しました?」

「えっ? そんな、瓶を壊したりなんかしませんよ!」

「じゃあ、どうやって?」

 と、猫手川がたずねると、

「いえ、普通に……。A玉にお願いしましたけど?」

 と、小出毬は、おだやかに微笑んだ。


 上機嫌に、軽やかに、舞う、シェフ小出毬。

 今日の料理は、いつにも増して、抜群においしかった。

 食後のコーヒーまでもが小出毬の上機嫌にあおられて、その馥郁ふくいくたる香りは小高い丘のうえにある洋館に、いつまでも、いつまでも、ちょっとよくわからないくらい、ながく、かぐわしく香っていた。

 そのような至福の時をすごして、部屋へと帰ってきた猫手川。

 エリーはすでに、ベッドのうえで、まるくなっていた。

 猫手川は、エリーにお礼を述べた。

 隕石のことは空振りだったかもしれないが、結局のところ、小出毬のA玉を手にいれたのはエリーに他ならず、それを小出毬にゆずることを許してくれたのも、やはり、エリーなのだった。

 ちなみに、持ち帰った隕石は、窓辺におかれた金魚鉢きんぎょばちのなかにいれてある。宇宙いわく、ながい間、宇宙線うちゅうせんにさらされていたので、その方がいいとのことだ。

 発光するように透き徹る水草みずくさの間で、隕石は時折、ゆらいでいるように見えた。

 猫手川のお礼の言葉に、エリーの耳が、ぴくり、と、反応した。

 しかし、エリーは、その絹のように艶やかな背中をこちらに向けたまま、返事をしなかった。

 そう、

 エリーは、プライドの高い猫だ……。


 ある日の深夜。

 エリーは窓辺に立っていた。

 あの日以来、エリーは、夜空を見ることが多くなった。

 この夜もまた、エリーは、じっ──と、窓の外を見つめている。

 一瞬、エリーの横顔が、強い緑色の光りに照らしだされた。

 エリーは、すぐさま猫手川の枕元まくらもとに飛び乗ると、その頬をひっぱたいた。

「痛っ⁉」

「いくわよ!」

 と、エリーは言った。

「……どこへ?」

 まだ夢現つのまま、頬をさする猫手川は、そうたずねた。

「あの距離、あの角度、あの光り方……、それに、わたしの野性のかんをはたらかせて計算するに──」

 エリーはぶつぶつとつぶやき、

「アルストツカよっ!」

 と、熱っぽく言った。

「どこだよっ⁉ いいから早よ寝ろ!」

「あら、あなたは知らなかったのかしら? 世界を股にかける隕石ハンターとは、わたしのことよ! あなたはいまだに、勘違かんちがいをしているようだけど、あの時だって、わたしは隕石をとりにいっただけなのよ! コデマリの指環なんて知らないわ! さあ、さっさと準備なさい。今回は長旅になるわよ! まったく、隕石ハンターなんて、因果いんがな商売だわ──」

「…………」

───時として、自らを納得させることは、人を説得するよりも遥かにむずかしい……。

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