第四話 共生社会と経済政策

2031年、AIは社会の至るところで不可欠な存在となりつつあった。経済分野も例外ではない。AIは人間を支える補助的なツールから、経済政策の立案と実行にまで関与するようになり、国家規模の意思決定において欠かせない存在としてその地位を確立していた。この変化は、政策の速度と精度を飛躍的に向上させたが、同時に「経済政策とは何か」という根源的な問いをも私たちに突きつけることになった。


私は、AIが経済政策の決定に深く関わるようになった現状を取材するため、内閣府の「経済戦略AI運用室」を訪れた。ここでは、AIが膨大な経済データを解析し、政策の影響をシミュレーションすることで、最も効率的な施策を提案しているという。そのAIの名は「知峰(ちほう)」。知峰は、国内外の経済指標、企業動向、消費者行動などをリアルタイムで収集し、それを基に各種政策の予測と分析を行う高度なシステムだった。


取材当日、私を出迎えたのは、知峰の開発責任者であり、経済戦略AI運用室の主任顧問でもある田中氏だった。彼は私に笑顔を見せながら、知峰がどのように経済政策の立案を支援しているのかを熱心に説明してくれた。



「知峰は、膨大な経済データを基に、国全体の経済状況をリアルタイムで解析し、次の施策がどのような影響をもたらすかを高精度にシミュレートすることができます。これにより、従来の政策決定では実現が難しかったタイムリーかつ的確な施策の実行が可能になったのです。」


田中氏は、ARグラスを通して目の前の空間ディスプレイを操作しながら、私にいくつかのシミュレーションを見せてくれた。画面上には、日本国内の経済指標の推移や産業ごとの成長予測が美しいグラフとして表示され、それらに対するAIの推奨施策がいくつも浮かび上がった。


「例えば、ここに表示されている税制改革のシミュレーションを見てください。」


田中氏は指を動かし、画面を操作すると、税制改革案がもたらす産業ごとの成長率や失業率への影響が瞬時に表示された。そこには、施策を実行した場合と、実行しなかった場合の比較グラフが並び、数年後にどのような変化が起こるのかが詳細に示されていた。さらに、各グラフには「地域別の影響」や「特定産業への波及効果」といった要素も細かく分析されており、政策の影響がどの層にどの程度及ぶかが一目で理解できるようになっていた。


「知峰は、経済成長や雇用、消費動向などの変化を数千パターンに及ぶシナリオでシミュレーションし、最も効果的な政策の組み合わせを提示します。さらに、シミュレーション結果を基に政策の『リスク』と『利益』のバランスを評価し、どの施策が社会全体にとって最も望ましいかを提案することができるのです。」


田中氏の説明は理路整然としており、知峰がいかに強力なツールであるかがよく伝わってきた。実際、シミュレーションを通して政策の結果をあらかじめ確認できることは、これまでの政策立案にはない圧倒的な利点だろう。従来の政策は、施行後にその効果や弊害を検証するしかなかったが、今や施策を実行する前にその結果をかなりの精度で予測できるようになっている。


だが、私はその精密なグラフやデータを見ながら、一つの疑問が湧き上がってきた。


「確かに、知峰が提示する施策は論理的で最適化されたものかもしれません。しかし、政策には必ず『痛み』が伴います。例えば、ある産業を優先すれば別の産業は衰退し、そこで働く人々の生活に影響を及ぼすこともある。そうした人々の感情や価値観は、どのように施策に反映されるのでしょうか?」


私の問いに、田中氏は少し微笑んでから、真剣な表情で答えた。


「おっしゃる通りです。AIであっても、すべての人の感情や価値観を正確に捉えることはできません。感情というのは非常に曖昧で、人それぞれ異なるからこそ、データだけでは完全に把握できないものです。しかし、知峰は過去のデータや社会の反応パターンを学習することで、施策のリスクを定量的に評価し、人々に与える影響をできる限り抑えるような提案を行うことが可能です。」


彼の言葉には、自信とともにAIの限界を理解しているという、慎重な姿勢が感じられた。確かに、AIが人々の感情をすべて把握することは難しいだろう。しかし、私が抱いた疑念は、それだけではなかった。


「では、たとえ施策が『最適』であったとしても、それを実際に受け入れるかどうかは別問題です。例えば、ある地域に産業構造の転換を強制する施策が提案された場合、その地域の人々は自分たちの生活が変わることに不安や抵抗を覚えるかもしれません。そのような場合、AIの提示する施策をどのように受け入れさせ、また、どう説得するのかが大きな課題になると思いますが……」


田中氏は少し考え込んだ後、静かな口調で語り始めた。


「確かに、いかに論理的な政策であっても、人々の感情や価値観を無視して押し進めることはできません。ですから、私たちは知峰が提示する施策をそのまま実行に移すのではなく、知峰を通じて施策の影響やリスクを『見える化』し、それをもとに市民との対話を深めることを重視しています。知峰が示す選択肢は、あくまで未来の一つの可能性です。最終的な決定を下すのは、やはり人間なのです。」


私は彼の説明を聞きながら、AIが提示する「最適解」の背後に潜む「痛み」を考えていた。どれだけ優れた政策であっても、その過程で利益を得る人がいれば、必ず不利益を被る人もいる。経済政策が社会全体に与える影響は、単なる数字やシミュレーション結果では測り切れないものがある。


田中氏はさらに言葉を続けた。


「私たちの役割は、知峰が提示する『最適解』と、人々が納得できる『現実的解決策』との間を調整することです。AIは冷静で合理的な判断を行いますが、政策の対象となるのは『人』です。人々が納得し、社会全体が受け入れられる形で施策を進めるためには、AIが示す選択肢を基に、いかに人々と信頼関係を築き、合意を得るかが重要です。」


彼の言葉には、AIに頼りすぎず、あくまで人間の判断を中心とした政策決定を目指す姿勢が込められていた。


***


取材を終え、私は運用室を後にしながら、AIによる経済政策の未来について改めて考えた。AIが提示する選択肢は確かに「論理的な最適解」かもしれない。しかし、その選択肢をどのように受け入れるか、あるいは受け入れないかを決めるのは人間の手に委ねられている。


経済政策においても、AIは社会を「最適化」するためのツールに過ぎない。人間社会がその最適解を受け入れるか否かを決定し、そこにどのような価値観を反映させるかは、最終的には私たち人間次第なのだ。


私はノートに、こう書き残した。


「AIは経済政策の立案を飛躍的に進化させることができる。しかし、その最適解を押し付けるだけでは、社会に摩擦と軋轢を生み出す危険がある。AIが示す選択肢をどう受け止め、どのように合意を得て社会に実装するか──それを決めるのは人間であり、その役割を放棄してはならない。経済政策とは、最適解を超えて、いかに人々の生活と価値観を調和させるかを考えることなのだ。」


2031年、経済政策の分野においても、AIと人間の共生社会が本格的に始まろうとしていた。その共生が真に「人々にとっての最適解」となるためには、AIの提示するデータだけではなく、人間の感情や価値観を尊重し、合意形成を行うプロセスが何よりも重要だと、私は強く感じたのだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る