愛しすぎた者

@taiju0110

愛しすぎた者

潰された空き缶を見つめ私は絶望していた。

生きる意味とはなんだろう。幸せとはなんだろう。そしてまた、それらを目指す意味はなんだろう。私の存在とは?言葉という道具はそれらの哲学問答を、まるでパンドラの箱のように「災い」として放ったのではないだろうか。それでも私は、それらを求めることをやめるわけにはいかない。

 黄昏時、まるで都市の集合住宅のようにとても広い墓地が、目の前にあった。死というのは、忘却の後に始めて訪れる瞬間だと聞いたことがある。

 死とは、生と何が違うのだろう。私は昨日と今日で、何が違うのだろうか。

 

 大学卒業後、かねてから目標としていた一人暮らしを京都で始め、今年でもう七年が経過した。

神奈川県でそれまでの人生を過ごしてはいたが、源氏物語をこよなく愛し、読み続けてきた私にとって、京都に住むというのはとても憧れていた。それに加え幸い、全くもって労働を忌み嫌う私がやりたいと思える仕事につけたことも大きいだろう。

そんな中、今は独身ではあるものの、同僚や上司ともほどよい距離感で関わり、仕事も思っていたよりも楽しく、思いのほか充実した毎日を送っている。しかしふとこう思う時がある。私は死ぬために生きているのではないか?

 

 今の私の生活の中で、楽しいと思えるのは、最近できた同じ会社で4つ年下の彼女のMとの逢瀬である。今年度の新卒として入社してきた彼女の直属の上司になり、仕事の相談も交えて食事などを重ねる中で、彼女に急かされるような形で、半年ほど前からお付き合いをしている。

 「来週のデートはどこにいくの?」

同じ職場で毎日顔を合わすが、仕事以外の時間で二人きりの空間を過ごすのは、週に二日ほどだ。そして今日がその日にあたる。

 「たまには遠くにでも行ってのんびりでもしないかい?Mは研修とかであまり遠出できなかっただろうし、ドライブがてらさ」

 「それあり!途中で本屋さんでもよって、カフェで読もうよ!」

 Mは甘えるように、にっこりと微笑んだ。そして、さっそくカフェを探し始めていた。

 私も今まで大学時代、社会人になってから複数人の女性と関係を持ってきた。長ければ三年も付き合う過去もあった。そんな中でこのMに対して何故か、形容し難い軽薄さ、表面的な感情を抱き続けていた。

 今までの彼女という存在は、何か相手に対する慈しみや、無償の愛のようなものを与えずにはいられない存在だったが、Mに対して私は取り繕い、興味のない話に対しても興味があるように話し、あくまで彼女という観念的な存在を自分に据えておきたいがために付き合っているような、そんな虚しい感情を持っていた。もちろん最初の付き合いたての時は、感情が高揚し、付き合えたことに非常な満足を感じていたが、過去の恋人たちとは違い、歯車がどんどんとずれていくように、日毎に何か違和感のようなものが生じていった。

私は本当にこの女性が好きなのだろうか?少しロマンティズム的な恋愛観に思えるだろうが、私は損得勘定や見栄のための彼女という存在はあってはならないと思う。そんなことを考えながらも、しかしきっと、Mは今、そういう存在なのだろう…。

 

 それから一週間後、、車で彼女を迎えに行き、 先日の話し合いの末決まった、宇治に行くことになった。

宇治を提案したのは私だった。源氏物語の「宇治十帖」では、まさに宇治が舞台となるのだ。源氏物語ミュージアムなどの源氏物語にまつわるものや、世界遺産にも登録されている平等院などもある。当然私は京都にきた時すでに行ったことはあるが、それから月日が経っているし、久しぶりに行きたいなと感じたため提案した。

 「行ってみたい!茶そばとか有名だよね!食べに行こうよ!」

 快く誘いにのってくれてよかった。

 

 街は紅色に染まり、秋晴れが気持ちよかった。車で流しているビートルズの曲に合わせて、Mは横で鼻歌を歌っていた。しかし私は、そんな彼女を尻目に死を考えていた。

 無事に宇治についてから、まずは紫式部の像も建つ、宇治川へと向かって歩いた。

 「うち、こっちきてからあんまり観光とかしていないだよね、仁はどうなの?もう七年目だし、色々生き尽くしちゃった感じ?」

 「そうだね、源氏物語とか平安時代の文化が好きで京都きたようなものだし、有名どころはほとんど見尽くしたかな。」

 「なんかすごい高尚な理由だね。私なんか友達が京都で就職するとかっていう、もはや遊び感覚で就職したし、住んでるんだけど」

 「まぁなんでもいいんじゃない?結局それのおかげで俺ら付き合えたわけだし、色んなとこ連れてってあげるよ」

 「うん!ありがと!そういえばさ~…」

 そんな他愛のない会話が終始続いた。私は関係値にもよるが、基本他人と会話する時は一人称に「俺」を使う。そういえば昔の恋人たちには「私」って言ってたのになぁ…。

 

 「ねぇねぇ、今月の予定ってどんな感じ?友達との予定とか調整したくて」

 「予定か。どうしたの?今まで聞かれたことなかったと思うけど。」

 「特に深い意味はないよ。だんだん仕事にも慣れてきたし、プライベートをもっと充実させようと思って、今度友達と旅行行くんだ」

 理由がなんであろうと特段断る意味もなく、ざっと今月の予定を伝えた。

 「おっけい!なら次のデートは○月○ね!」

 

もうこの時から、いやもっと前から始まっていたのだ。しかしどうして私が気づくことができただろう。こんなありふれた営みの中に。

 私は愛を欲していた。孤独が怖かった。Mが彼女になるまでの数ヶ月、彼女もおらず同僚とのくだらない仕事や飲み会、毎日家路を辿る時に深い深いため息を何度もつく、そんな日常を惰性で生きていた。しかし今とその過去とどちらが幸せだろうか?今のこの、何かに縋って生きているような現実と。

 

それから私たちは宇治川に着き、川辺に腰を下ろし、道中に買った抹茶のソフトクリームを頬張った。ソフトクリームは日光で少し溶け出していた。まるで恋愛には絶対の固定されたものはなく、何かの拍子に愛がバターのように溶け流れ出てしまうことを示すように…。そして、抹茶の苦味と少しの甘さが口の中に広がる。それはまるで私のがんじがらめの不確かな苦悩のようだった。

 話し合った結果、まずは、平等院から見ていくことにした。

 「おっきいね!うち修学旅行で行ったの北海道だったからきたことないんだよね。さすがは世界遺産だね」

 「改めてみるとやっぱり、うっとりするものがあるよね。建てられたのが十一世紀くらいだと思うから、ちょうど平安時代だよね。藤原頼道って人が建てたらしいよ」

 「そうなんだ~!写真撮っとこ!」

とても綺麗で優美だった。敷地内には藤棚があるが、今の季節だと咲いていないのだろう。純粋に楽しむ一方で、終始私は相手をいかに楽しませるか…と考えていた。

 

 その後は、宇治川周辺を散策することになった。天候にも恵まれ、宇治神社などで参拝などをした。に宇治橋を通るとき、Mは「ちょっと待ってー!」といい、写真を撮り始めた。

 「やっぱ京都っていいね~。好きだなぁこういうの。」

 そう言うMの横で私は考えていた。ここは、浮舟が入水した場所。恋愛に苛まれ、どうしようもなくなって、それから解放されることを祈って、飛んだのだろう。きっと、涙を流しながら。私の今のこの現実も、浮舟のように…と思っていたところに、Mが

 「よし!本屋さん寄って、カフェ行こう!行きたい場所あるんだ!」

 

 カフェはレトロな雰囲気で、心地よいクラシックが流れていた。サイフォンでコーヒーを作っているところも好みだった。そしてそこから発せられるコーヒー特有のその匂いは私に、なぜか勇気を与えた。

 「今日はこの後どうする?」

コーヒーカップを片手に、何気なく聞いてみた。

 「んー。まぁ楽しかったけど、疲れたし今日も帰るかな!」

 「明日も休みなんだし、今日はうち泊まってけば?なんか映画でも見ようよ」

 「実はさぁ、今日夜友達に飲みに行こって誘われててさ、」

 「そっかそっか、わかったよ。気をつけて行ってきなね。」

 「ごめんねぇ」

 

なんだろう。この虚無感は。私はただ、愛を行いたいだけなんだ。なのに、なんだろうこの感覚は。私は、ただ信じたいし、清らかでいたい、相手を受け入れたいだけなんだ。

帰りの車の窓ガラスに映るM。前方から流れてくる車のライトたちによって浮かび上がるその顔は、もう私の知らないMだった。信号機が赤に止まって時、私にこう問いかけていたように思う。

 「君は何を手に入れたんだろう?」

 

いつも思い出す。私は幼少期の記憶を。

 「お前なんか生まれてこなきゃよかった」

こう母から言われた時、私は齢八才だった。

 「お前のせいで家族はみんな不幸だ」

私はなぜ生まれてきたのだろうかと思う。私の家庭は片親で、消えた父はギャンブルに女遊び、暴力を繰り返し、逃げ出すような形で母は私を連れて神奈川県の海沿いに引っ越したと聞いた。母も一杯一杯なんだったと思う。しかし、小学生という精神が未熟で、子供において生きる上で絶対的な親にそんな言葉を何度も言われたら、果たしてどうなるだろう?

 誰かに愛されたかったのだ。だから一人で生きる寂しさに疲れて、彼女を作るということを繰り返している。いや、してしまっているのだ。私は誰も信用することはできない。期待もできない。本当は、信用も期待もしたい。だけど、私のこの性質は私を虚無の蟻地獄へ導き続ける。

 

 「回避性のパーソナリティ障害かもしれませんね。この症状は誰かに否定されたり、見下されたりするのを極度におそれ、それらが予見される環境を回避する傾向が見られます。失敗することや深い人間関係を結ぶことを避け、結果的に孤立に陥ってしまう、そんな症状です。あなたのお話を聞いていると、その傾向があるように受け取りました。

 人格形成期、特に幼少期や学生時代などに何かトラウマになるようなことはありましたか?」

丸く肥えて、薄い縁の眼鏡をしたその医師は、とても親身になって話を聞いてくれた。

 「実は、中学生の時に自分の顔がとても醜く感じるようになって、学校へ行くときはいつも鏡を持って数分ごとに確認したり、そして絶望して結局学校へ行けず回れ右して帰ってしまったり。そのまま引きこもるようになって、多分それっきり家族を含め、他人と関わること、誰かに見られる可能性がある状況が怖くなって、今のような性格になったのかなと自分では思ってまして」

 「ほう、その時は今回と同じように精神科に行ったりは?」

 「行きました。親は仕事でいなかったでしたし、一人で、、」

 「何か診断されたものはありますか?」

 「身体醜形障害と言われました。当時は中学生でどういうものなのかわからなかったのですが、聞いた話によると、顔を気にするということで日常生活への支障、鏡などを執拗に眺めたりする反復行動とか、あとは周囲の認識との乖離などが症状としてあるらしく、それを診断されて以降、薬を投与してもらってから数年くらいで今のように、少しマシになって、容姿がとても気になるということは無くなりました。」

 「なるほど。確かに直接的に今のような性質に関係するかはわかりませんが、何かしら関係するでしょうね。例えば、その身体醜形障害がきっかけで自分を卑下する癖がついてしまったり、、要因は様々なのです。」

 「あとは幼いことDVや暴言などを日常的に親から受けていたのもあるかなと自分では思っていて。褒められてことも一度もありませんし、何か少しのミスをした時とかは、鬼のように怒られて、締め出されたことも1度2度ではありません。」

 

 そうしてやっと私は自分がなぜ他者との関わりを上手くできず、辛い思いをしているのかがわかったのだった。しかし、きっとそれはどうしようもなかったのだと思う。

今の仕事は基本ほぼリモートでの就業だから直接人と対面することを避けられている。たまにではあるが、同僚やMなど、私とよく画面上で話していた人間などはメガネなどで顔を隠してなら、対面で会ったりすることができるようにはなっていた。

その夜は一晩中、絶望していた。

 

 翌日、仕事に行っても全く精が入らなかった。珍しく強制出社の命令が降りのも災いした。イヤホンをし、マスクをし、メガネをかけ、なんとか地獄の出社日を乗り越えた。そして私はそのまま「アンナ・カレーニナ」を読みながら、自宅の最寄駅から少し離れた駅で降車した。赤く錆びついた階段を、同じように濁った赤茶色の手すりに縋りながら、不規則な金属音とともにのぼった。その先にある苔のような深い緑色のドアをノックする。

 「おつかれ~って、何その格好、普段はメガネかけてるの?」

 「いや、会社に行くときはいつもこうなんだ。やっぱり、怖くて」

 

 最近では、週に4日ほど、この女の家に泊まっている。数週間前にインストールしなおしたマッチングアプリで彼女とは出会った。二歳年上で、舞台で女優をしているらしい。さすが女優なだけあって身なりもいい。胸の辺りまで伸びた黒い髪の毛からは、フローラル系の香りがした。この女優は独身で、浮気がバレて彼氏と別れたことをきっかけにはじめたらしい。

 

 「ふーん。かっこいいのに。どう?なんか食べてきた?」

 「ううん、お腹すいた、なんか作ってよ」

 「何がいいの」

 「んー、なんでもいいよ。君が作ったものなら」

とにかく腹が減っていた。それはこの空虚な現実からくるものなのか、それはわからなかったが、今すぐに温かい誰かの手料理が食べたかった。

 「今日は何してたの?」

 「散々だよ。社内ミーティングに取引先との対面での商談とか。残業もしたし、何してんだろうって感じ。」

 「サラリーマンって大変そうだね」

 眉毛を片方上げながら言ったそれには、なにか皮肉を感じたので、無視しといた。所詮、君はご飯を作ってくれて、あらゆる欲を満たす手段でしかない。分け合えない傷みを、どうして励まし合えると思っているのだろうか、私は。 そんな私を嘲笑するように、外では虫の鳴く音が響いていた。

「なんで女優目指そうと思ったんだっけ?」

 「これしかないから。なんか大学卒業する時になって、就活とか…色々あると思うんだけど、ずっと舞台とか見に行ってて、もうこれしかないなって思ったの。全然下に見てるとか否定したいとかじゃないんだけど、企業で働いたりして、何になるんだろうって。だ

ったら後先考えず、短く太く行きようって思って、自分のやりたいことだけでなんとか今も生きてるって感じ。」

 「そういうところ好きだよ」

 「あなたは逆になんでサラリーマンとして働いてるの?」

 「俺は、君のように強くないんだろうね。俺も似たように大学卒業する時に色々考えてたわけだけど、漠然とやりたいことめちゃめちゃあってさ。ライターに俳優に、モデルに作家にって具合に。でも結局今は当たり障りのない、誰でもできて毎月決まったお金が手に入るような仕事についちゃった感じかな。なんでか知らないけど、結局不安とかに負けて、安全策を取ってしまったのよ。だから、そういう覚悟を決めて、自分に正直で、自由に生きる君がとても羨ましいよ。俺はまるで自分を殺すために働いてるようなものだよ」

 「まだ遅くはないと思うけど、、」

 「どうだろうね。」

 

そうだ。こういう人間と時間を過ごすことは楽しい。しっかりと自分の人生に向き合い、正直である人間を私は純粋に尊敬し、それを応援したくなる。しかしそのような感情、きっと自分がそうではなく、心の底ではそうなりたいと願うためだろう。

私は私を不可能にしてしまっている。何かを表現したい、そんな思いで描いていた夢だったが、結局、誰かの利益のために誰にでもできる仕事をこなす毎日が続く。金か夢かわからない世界だと思う。意気地無しの私には、とても行きずらい。そして今日もこの女を自分への失望や絶望、社会に対する憎悪のままに、溺れていく。

 

 結局、Mとはあの日の五日後に別れることになった。安くて汚い居酒屋でウィスキーのソーダ割を飲みながら、同僚の一人に悲しい演技と共にそれを嘆いてみた。

 「まあ実際会社でも、愛想振り撒いてたし、たくさん男はいるだろうし、お前みたいな真面目な奴とは合ってなかったんじゃないか」

 「そういう君はどうなの。最近全然そういう話聞かないけど。」

 この男は会社の同期で、入社してからすぐに仲良くなった。似た者同士で、どうしようもないやつだが、それ故に腹を割って話せる唯一の友人だ。

 「オレは、最近マッチングアプリやってるわ。ああいうのって色々あるけど、遊び目的とかじゃない真剣なやつもあってさ、それで未来のお嫁さんを探し八割遊び二割くらい」

 「で、いい人はいた?」

 「んー、難しいな。顔可愛いって思った子は全然返事ないし、なんか微妙って人からは連絡くるしって感じで、うまくはいってないな。渋いなー。収入もいいわけじゃないし。

 いいじゃん、お前顔いいんだし、やってみれば。意外と掘り出し物あるかもよ」

 「うーん、いいよ、俺はそういうの」

 「まぁお前は運命を信じてるもんな!」

 「なんか馬鹿にしてるよなそれ」

陽気なやつだ。アプリで結婚相手?と思ってしまった私は確かに運命を信じているのだろう。しかし結局は俗にまみれ、あの女優と会っているように、私も暇さえあれば相手を探していた。

 しかし振り返ってみれば私の恋愛は偶然としての運命とは程遠かった。大学生の頃からマッチングアプリは使っていたが、その中で出会った女性の中には、本当に愛していた人もいたのだ。

それはちょうど二十歳の時だった。まだ子供であると同時に、大人になった時期でもあった。

初めて会った時から、私はこの子に何か精神的なつながりを感じるのがわかった。その時は、付き合うことになったのも、もはや必然のことだったように思えた。当時、荒んでいた私を今の今まで生かしているのは、あの子の存在以外にないだろう。

 「ずっと一緒にいようね!」

そう言われた時、私も心の底から共感し、願った。そうなるべきだとも思っていた。しかしそれは、ただの希望的観測のようなものだった。

私はあの子だけは生きている限り忘れることはないだろうと思う。少し高く子供っぽい声。肩にかかるくらいの髪。いつも楽しそうに笑っていたその顔。私を心から受け入れてくれ、そしてまた私も彼女を信じ、期待し、受け入れていた。そんな関係だった。あの子の話すどんなことにでも心奪われた。私の全てだった。

 「…わかってもらえないかもしれないけど、もうこれ以上は一緒にいれないかな」

 こう言われるまで、二人の生活は夢を育んでいた。育んでいると思っていた。何かが、了解不可能な何かが、この夢を引き裂いてしまうまで。

 理由は教えてもらえなかった。よく覚えている、そう言われた日のことを。銀杏の下で落ち葉を見つめながら、途方に暮れていたあの日のことを。その時初めて、悲しみに満ちた報われない愛を知ったのだ。

 それ以来、その子と同じ感情を抱ける女性とは出会っていない。

 

 結局、普段使っているのとは別の、真面目に相手を探せると同僚が言っていたアプリをはじめた。しかし本気で相手を探そうとすればするほどに、女性たちが映るその画面は、家電屋によくあるカタログのように思えてしまった。

いい人…いい人…。誰が自分にとっていい人なのだろう? 懐疑的になりながらも、一縷の光に縋るように、私は探し続けた。

 その女性は、二八歳で、病院の事務をしているらしい。趣味は読書や映画などインドアなものが多く、自分との親和性も高いだろうと判断した。顔も可愛いと感じたが、あってみないとわからない。平凡で当たり障りのないメッセージをいくらかした後に、、次のの土曜日にディナーをすることになった。

 「また次もよかったら、どこか行きましょ!」

 あいにく空は雨模様だったが、会話も弾み、デートのような何かは、卒なくこなすことができたと思う。

 しかし、私は帰りの道すがら思う。これは虚構だ。こんなのは全部。この出会いもまた私を救うことはないと、わかっていた。人間はいつも孤独である。誰かのための誰かという仮の姿をし、孤独という恐怖から逃れようとする。誰かに愛されたいために誰かを愛す。

 二階建てのカフェの窓側の席から、タバコを燻らせながら、通りを歩く人びとを見つめていた。僅かな希望と、そして絶望を抱きながら歩く、疲れ果てたのサラリーマン達。彼らも、そして僕もなぜ、生きているのだろう?

 私の人生はその繰り返しだった。

 街灯に小さな虫達が懸命に飛び回っていた。暗い暗い、吸い殻の落ちている道を、亜愛を探して彷徨うように、あの女優の家に連絡もせずに向かった。

 「ごめん、どうにもこうにもやりきれなく、きちゃった。今から大丈夫?」

「それは、うん…。なんか疲れた顔してるね。まぁ上がりなよ、ゆっくり話しよ」

そのまま足を引き摺るように廊下を歩き、ソファへと腰を下ろした。

 「なんかなぁ、ずっと同じことの繰り返しというか、私が多分あらゆるものに対して、どんな意味があるのかみたいなことを考えてしまっていて、何もかもが打算的で、何も楽しくないんだよな。生きる意味なんだろうとか考えてるし」

 「意味の病ってやつだよね。難しいよね、客観的に見たら固有の人間の存在とか、いろんな行動とか全くの無意味だもんね。それをわかってても、どうしても主観では何かを探し続けてしまうものよね。」

 「そのあたり、君はあんまり考えてなさそうだね」

 「というか、探し続けることより、今ある何かを、例えば貴方のこととか。大事にするようにしてるだけだよ。」

 

 その言葉は、今の私には苦しかった。テレビを消し、明かりを一つの豆電球だけにし、離れないでと願うように、力無く手を伸ばし、女優の髪を撫でた。

 愛とはなんだろうか。ただただお互い都合よく、承認欲求や性欲などの自分可愛さに、全て収束してしまうものなのだろうか。私はそんなものを許したくない。相手に慈しみを持ち、自己を抑え、相手を受容する。それを双方向に努めるのが愛ではないのだろうか。私は、いつまでも見つからない、不可能な愛という観念を追いかけていくだろう。しかし、それはもうやめるべきなのだ。

 

 

 ある山を目指して、電車に揺られていた。早朝に家をでて、あくせくと歩くサラリーマン達に、たまに肩をぶつけながら、その電車に乗り込んだ。この時にすでに、運命は決まっていたのだろう。私が今、希望を探して、彷徨っていることに誰が気づくことができるのであろうか。昨日の夜別れたあの女優も、まさか想像もしないだろう。

いつからだろう。これらの不確かで答えのない観念達に取り憑かれたのは。

 ある人は「あいつ気でも違ったんじゃないですかね」ある人は「そんなふうには見えませんでした」そうだろう。君達に何故私を理解できるのだろうか。

 私は当然、君達を理解できない。何を考えて生きている?君達は本当に同じ世界にいるのかい?もしかしたら、この世界は仮想現実で、私だけしか生きておらず、他の人間のような何かは、ただの幻想で虚構なのかもしれない。

「こうあるべき」「レールから外れたら取り返しがつかない」「みんな同じように」「みんなに迷惑をかけるな」

 確かに、一定の場合では有効だと思う。しかし、人間の生き方は決まっていないではないか。それらの言葉からどうして実存的本質を追求できようか?私が私であるために、他者に迎合し、他のものと同じラベルを付けられなければならない理由はあるだろうか。私ではないのだ。私ではない何かが、社会と私との調和を乱していってしまったのだ。

 準備をし、貯めてあった薬を何度も何度も飲み干した。疲れてしまったのだ。あの時に見たサラリーマン達のように、希望と絶望を祈って、私はそのまま目を閉じ、この世を後にした。

 

 …目が覚めた時、私は雲ひとつない空の下で仰向けになって横たわっていた。地面からはガーベラや青色の薔薇、カーネーションなどの様々な花が咲いており、海に囲まれていたパノラマ世界が広がっていた。まるで何かの目的のために作られた世界のようだった。

 「起きた?」

実体のない何かが私に語りかけてきていた。

 「ここは死後の世界。あなた、とても苦しんできたようね」

 その声は、とても滑らかで清らかで、透き通っていた。

 「あなたには、忘却が与えられたのよ。この世界では、決して苦しむことはないの」

私は何がなんだかわからなかった。自殺したことだけは覚えている。だけどどうやって?なぜ?頭の中の記憶と呼べるものはそれしかなかった。私は私が誰であるかもわからなかった。

 「愛を求めた者。それがあなたのここでの名前。ちなみに私の名前は愛しすぎた者。この世界には私たちしかいない。私がここへきた時、この世界には何もなかったの。花も、木も、青い海も、まっさらな空も。この世界では、あなたはただ愛されるの。私からも、そして自然からも。私は逆に愛するだけなの。」

 何を言っているのかわからなかった。愛を求めた者?それが私の名前だと言った。

 「この世界で、私とあなたは存在して行くの。何も怖いものもないし、終わりも来ないの。」

 その実体のない何かが、私の頬に触れるのを感じた。そして、何故だかはわからないが、私の瞳からは涙が、窓ガラスに雨が滴るように、溢れたはじめた。

 「ねぇ、心から愛し愛されたことってあるかしら?」

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