第3章 聖マルチンの夏
もう晩秋に近いというのに、夏を感じさせるこの陽気。
まあ、おあつらえむきのヨット日和?そんでもって……。
菜々子日和。
やってきたぜ。イギリス。
もう菜々子が日本を出て2年がたつ。
今はスマホで海外とも話せるから、短い時間でもほぼ毎日連絡はとってる。
時差の関係で俺がめちゃ早起きになったけど。
でももう半年以上会っていない。
俺なりに切り詰めて、飲み会の回数減らして自炊したりもしているけど、家庭教師もがんばって何人もこなしているけど、ヨットは金がかかる。
思っていたほど菜々子に会いに行けない。
菜々子は俺と離れてまでイギリスに行ったんだから! とか言って、超勉強に励んでいる。
身体こわさなきゃ、いいけどな、と思う。
「ナツー ぼけっとしてないで機材運べ!」
「お? はいはい」
感慨にフケッちゃったな。だってイギリスだぞ。もうすぐ菜々子に会えるんだぞ?
「お前さー、どっちがメインになってんだ?」
ヨット部の先輩、平井さんが俺の後頭部をこずく。
「だってもう半年も会ってなくて……」
「やっぱ、そっちがメインか! せっかく俺らの部がでかい雑誌にちょびっと出るのに」
「わかってますって。ちゃんと仕事はこなします」
「頼むぜおい。これで、人気でたら大学の補助、多くなるかもしんねえんだぞ?」
てか……、平井さん就活しなくていいのかな?
ヨットですごい人だからそっちほうめん?
いいなー。俺も頑張らないと。
どういうことかと言うと。
日本のマイナーなヨットレースで俺と健司とナベのグループが2位で入賞した。
その時に乗ったのは俺と健司だったんだけど、それをたまたま見ていたヨット雑誌の編集部のヤツが目をつけた。
らしい。
俺と健司の美貌に。
それで、イギリスで開催されるヨットレースのスポンサーになってくれたのだ。
だけど俺らのグループはもちろん、そんな海外のでかい大会に出るほどの実力は残念ながらまだなくて……。
出るのは部長の平井さんと副部長の東さん。
だけどなんと!
スポンサーになる条件として、K大のヨット部紹介コーナーで俺と健司を撮りたいと雑誌の人はいう。
ナベ! すまない。
イギリスにはグループだから連れてきてもらってるけど、今回の写真撮影ではお前の出番はないらしい。
俺と健司はレースには出られないけど一応、セーリングをする。
そして写真を撮られる……だけだ。
でもイギリスだったのが超ラッキーだった。
タダで連れてきてもらった。
ドーバー海峡を横切るレースで、本拠地はカリスという港町だ。
菜々子のいるロンドンからそう遠くない。
遠くないけど、自由行動ができない。
菜々子に会いに行けない。
しかも菜々子は大学の試験期間だ。
こんなに近くまで来てるのに会えないってそんなのアリか?
と思っていたら、雑誌のライターの人が俺の悲劇を聞きつけ、仕事終わったあとの数時間だったら、時間をとってやると言うからもう天使に見えた。
このレースに出る現地の友達に言って車だしてやる、と申し出てくれている。
やった菜々子! 会えるぞ!!
菜々子に言ったら、夕方なら試験が受けられるから大丈夫だと返ってきた。
なるべくたくさん会いたいとかニヤけること言われ、カリスとロンドンの中間にある、リーズ城で会うことになった。
なんか、今度、菜々子は城のレポートを書くのと、ムードがあるから、俺とそこに行きたいと言う。
城かー。ホントは……実は……街がよかった。
イギリスにラブホってあんのかな?
数時間しか会えない。抱きたいよ本音は。
もう毎日菜々子の肌を思う。
触れたい。
触れたい。
触れたい。
あの柔らかさと彼女の香りに埋もれたいと思いながら……当たり前ながら……自分を慰めることもある。
21の男が好きな女と半年セックスしていないってどんなに辛いか、あいつわかってんのかな。
でも仕方ないか。
また身体の関係ばっか!
とか思われるのもヤだし。
実際時間も場所もないし。
知らないイギリス人にいきなりラブホに連れて行け、とも言えないしなー。
だいたいそんな英語は俺はつかえない。
ラブホがあるなら英語でなんていうんだ?
ラブッホッ~テ~ルとかいうのかな?
ダメだ俺、邪念だらけだ。
会えるだけでもラッキーなんだぞ。
もうすぐ金もたまる。
そうしたら、今度はむちゃくちゃ抱きにいくぞー。
あー変態かな俺。
ヨットレースも終わり、俺と健司のセーリングと写真も無事終わり、やっと数時間の休息。
俺は菜々子に電話をして、待ち合わせ時間を決めた。
菜々子は電車でくる。
ロンドンのビクトリア駅から1時間ちょい、それからリーズ城行きのバスに乗り換えて15分らしい。
初対面イギリス人、リチャードさんにリーズ城着のバス停まで送ってもらった俺は、そわそわと菜々子の乗ったバスが着くのをまっていた。
やっと来たらしい。
あれ……だよな?
こっちに向かってくるバスが、俺の待つバス停で止まった。
シーズンはずれの平日、少ない観光客の中、一番前の席に座っていた菜々子はドアが開くと同時に飛び出してきた。
「ナツっ!!」
バスを降りた菜々子は小走りで俺に近づく。
洒落た赤のチェックのブラウスに正統派膝丈スカート。
ヒールのついたサンダル。
こっちに来てから、菜々子は日本にいる時とぜんぜん違う格好をしてる。
伸ばした髪にゆるいウェーブをかけている。
パーマじゃない。
巻いたんだな。
試験で忙しいはずなのに。
俺に会うために試験勉強の合間をぬってあんなことやってんのか。
「会いたかったー」
満面の笑みで俺を見つめ、俺の腕に触れる。
胸にズキュンと甘い痛みが走り、俺の身体は勝手に動く。
「俺だって……」
菜々子を引き寄せ抱きしめる。
俺だって、じゃない。
俺のほうが、だ。
きっと実際は。
「ナナナナナツっ。……ここ、人いるよ。みんな見てるよ」
ほらな。やっぱり俺のほうが……。だ。
菜々子の言葉を無視し、俺は彼女に口づけた。
可愛いよ菜々子。もうどうしようもなく可愛い。
誰が見てたっていいじゃんかっ。
「もうナツってばふざけないのっ」
俺の腕を振りほどいて菜々子が怒り口調でむくれる。
「ふざけてねーよ」
バカ菜々子。
半年も俺に我慢させてんだぞ。
少しは男の生理を理解しろっ。
俺はちょっとふてる。
いやかなりふてる。
「ごめんー。わたしだってすごく会いたかったよー」
俺の機嫌をとるように、腕を抱きしめるみたい強くからめてくる。
進歩……なんだよな。
この身体を密着させるような腕の組み方。
1回目につき合ったときも、2回目につき合った最初の頃も、菜々子はこんな腕の組み方をしなかった。
身体を離し、手首だけを俺の腕にひっかけるような、おどおどした腕の組み方だった。
初めの頃、菜々子は俺に振られるとばかり思っていたらしい。
俺の本当の気持ちが分からなくて、それがあの腕の組み方にあらわれていたんだと思う。
なら今のこの腕の組み方は合格だな。
俺の気持ちが本物だと分かってくれたんだよな。
「菜々子」
俺は菜々子の髪をなでた。
頬をなでた。
もう触りたくて触りたくてたまらない。
俺に残された時間は4時間。
4時間たったら、またさっきのイギリス人、リチャードさんが迎えに来る。
「ナ、ナツ。と、とりあえず入ろうか? きっとお城素敵だと思うよ。イギリスで一番綺麗なお城だって言われてるんだって」
「わかったよ」
マジで城が好きだな。
俺と城とどっちがいいんだよっ、ってこの発想が全く小学生だよな。
俺はもう城なんてどうでもいいんだけど、この盛りのついたサル状態は自分でもみっともないと思う。
せっかくの機会なんだから、俺も菜々子の好きな城をちゃんと見とかねぇとな。
俺たちは手をつないで入場料を払い、敷地内に入る。
広い。城、どこだ?
「城、見えないな?」
「かなり歩くみたい」
「ふうん」
しばらく二人で近況を報告しながら歩いていたら、ようやく遠巻きに城の外観が見えてきた。
「痛っ」
菜々子が小さくうめく。
「どうした?」
「足…が、靴擦れ……みたい」
「ちょっと休もう。どれ? 見せてみろよ?」
季節はずれで休日でもないから、城の庭にはほとんど人がいない。
大きなイチイの木の下へ行って、菜々子を座らせる。
「あーあー、赤くなってんじゃん? 今日は絆創膏もってねぇの?」
「あるけど」
「もう、なんでこんなヒールのあるサンダルはいてくんだよ。ここの城、歩くってわかってたんだろ?」
「そんなの。なんでだかわかんないの?」
俺は2年前の夏に行った旅行をふと思い出した。
俺が菜々子の格好を褒めてくれない、と泣き出した菜々子。
「可愛いよ菜々子。今日の服も靴も可愛い。でも菜々子が一番可愛い」
「えへ。ありがとう」
こういう時のホントにうれしそうなたまらない笑顔。
心臓が音をたてて小さく縮む。
触れられたらいいのに。めちゃくちゃになるほど触りたい。
俺たちはでかい木に寄りかかり、湖の向こうに見える綺麗な城を見た。
「写真とかとんなくていいのか?」
「撮る撮る」
菜々子が座って足をなげだし、鞄から望遠の効くデジカメを取り出している。
「ほら絆創膏かせよ」
「はい」
デジカメと反対の手で素直に俺に絆創膏を渡した。
俺は菜々子のサンダルを脱がせるとかかとを持って、絆創膏が貼りやすい角度に足を移動した。
カシャ。
シャッター音が聞こえる。
城の写真撮ってんだな。
絆創膏を貼る。
カシャカシャカシャカシャ。
シャッターが連写で押されている。
と同時に菜々子の身体がだんだん横に傾いていって、枯葉を敷き詰めた絨毯のような地面にドタッと倒れる。
「何やってんだお前?」
「だってナツ、あんまり真剣な顔してるんだもん。面白くって」
「お前。城撮ってたんじゃないのかよ?」
「お城よりこっちが魅力だった」
「ちょっと貸せ」
俺は菜々子からデジカメを奪い取った。
ひとつひとつチェックしていくと、全部俺。
かかとを持ち上げているところから、絆創膏を貼っている場面が連写で撮られている。
俺の顔がだんだん下からのアングルに変わっていっている。
菜々子が俺を写すために身体を傾けたんだ。
それで倒れながら撮ったんだな。
「なんだこれ? もうっ! こんなの消すぞ」
「やだナツ、消しちゃ」
枯葉の上に寝っころがったまま、菜々子が泣きそうな目で俺を見ている。
理性崩壊まで1㎝。
俺はそれをごまかすように言った。
「菜々子のパンツ見えたぞ、さっき足、動かす時」
「いいよ。ナツなら見ても」
理性崩壊完了。
俺は菜々子に覆いかぶさる。
木陰。人が超まばらな広い庭。
柔らかい枯葉の匂いのする地面の上、俺は菜々子の両脇に肘をついて自分の体重を支え、唇を合わせる。
菜々子に振り払われるのが恐くて、無茶だけはするまいと自分にブレーキをかける。
人がいないせいなのか、さっきみたいに、菜々子は抵抗することはなかった。
優しく、ついばむようなキスをする。
菜々子はこういうキスを喜ぶから。
唇が離れた瞬間、くすっと笑う菜々子。
「ナツのキス、気持ちいい……」
半分目を閉じたような状態の菜々子。
すごくリラックスしているのはなんでだ?
これから襲うんだぞ。俺。
「もっと気持ちいいことしてやるよ」
わざと低い声で菜々子の耳元でささやいたのに、返ってきた言葉は。
「えーっ」
くすくす笑いながらの菜々子の返事はどこか間が抜けている、というかズレている……。
でももうとまんねぇ。
菜々子の首筋にキスする。
菜々子の首筋に優しく刺激を与えると、彼女は俺の髪に両手を回してきた。
「ホントだぁー、ナツの髪、柔らかい。気持ちいい」
その気持ちいいじゃねぇよっ。
こいつホントにわかってんのかなぁ。
わかってないならわからせて……って、え?
「うーん……ナツぅー……」
菜々子は寝始めている……。
あー。落ちる。
なんで半年会っていない俺ともつれあっていて寝れるかなあ。
横向きに俺の腕を抱えたまま、菜々子はゆっくりと眠りに落ちていく。
そのとき、俺の足が、菜々子のトート型の鞄に触れて、倒れた。
中身が散らばる。
全部、勉強道具だった。
そうか。
こいつ試験中なんだ。
ホントは俺と会っている場合なんかじゃないんだ。
昨日も俺と会うためにほとんど寝ていないんだ。
それで、電車の中でもずっと勉強をしていたんだ。
「菜々子……」
そんなに無理をしてでも俺に会いに来てくれたのか……。
菜々子の髪をなでる。
俺は起き上がってイチイの木にもたれ、菜々子が眠りやすいように膝枕をしてやる。
「ナツ……」
寝言で俺の名前を呼びながら、俺の腹に顔を埋めるようにしてくっついてくる。
うおー!!
それは勘弁してくれー。
完全セックスモードに入っていた俺に、その体勢はキツい。
おぼれた子供がやっと岸にあがったときさながらの、深呼吸を何度もして気持ちを落ち着かせる。
も、もう大丈夫。
俺は安心しきって眠る菜々子の頬に触れた。
ごめんな。
俺、また自分の気持ちばっかで暴走してお前に無茶させるとこだった。
ゆっくり眠れよ菜々子。
帰ったらまた勉強だろ?
今、こいつに必要なのは俺とヤることじゃない。
睡眠だ。
それから俺は上着を脱いで、菜々子にかぶせ、空気が入らないように彼女の身体を包んだ。
今日は昼間、夏がもどってきたような暑さだった。
でもやっぱり秋だな。
昼間はかすかに夏の名残のある空気も、もう冷え冷えしてきている。
落ち着いて考えてみれば、菜々子がこんな戸外、しかもかなりまばらとはいえ遠巻きに人が通る場所で、セックスしようなんて、そんなことを思えるわけはないんだ。
もう場所も時間も関係なく、ただ彼女しか見えない自分が情けない。
イギリスで、一人、無我夢中で頑張っているんだよな、菜々子。
俺の側でこうやって安心して眠れるなら、ゆっくり眠れよ菜々子。
俺は、健やかな寝顔、ほんのかすかに口を開いて、幸せそうに眠る菜々子の表情をずっと眺めていた。
この数時間が終わったら、また東京とロンドン。
またこいつのいない毎日。
早く留学が終わって日本に帰って来いよ。
そうしたら、もう有無なんか言わせない。
一緒に暮らそう。
「菜々子、菜々子ッ。もう俺、行かなきゃ。迎えが来るから起きろ」
3時間菜々子を寝かせたあと、彼女の肩を優しくさする。
「え?」
わけがわからないというような顔で菜々子が起き上がった。
「え? わたし寝てたの? ナツ、今、迎えって言わなかった?」
「ああ、もう俺の迎えのリチャードさんが来る」
「え?」
「だから。もう時間なんだって」
「わたし何時間寝てたの?」
「3時間」
「……3……? ナツ……なんで起こしてくれなかったの?」
「菜々子の寝顔が面白かったから」
「………」
「よだれたらしてた」
菜々子が唇を引き結び、めずらしく怒った顔になる。
それが可愛くてもうちょっと意地悪したくなる。
「歯軋りもしてた」
「………」
「寝言でナツとヤりたい――」
「ばかっ」
菜々子はバックの中のノートを俺に投げつけた。
「ナツのバカバカバカバカー」
今度はペンケース。俺に当たって中身が散らばる。
「なんで3時間も寝かしとくの? なんで起こしてくんないのよ? 会えるの、わたしがどんなに楽しみにしてたか!! それをわたしの寝顔が面白いとかよだれとか歯軋りとかっ」
今度はトートバックを俺に投げつけた。
「ばかやめろよ。嘘だよ。よだれも歯軋りも」
「ナツはもうわたしのことなんてどうでもいいの? ナツにとってはぜんぜんどうでもよくて、ヨットレースの合間にちょこっと昔のオンナにあいに来ただけなのっ?」
また泣くー。
菜々子の涙腺は怒ると開くように設定されている。
「なんだよ。昔のオンナって。今のオンナだろ? 俺だって会いたくて会いたくてしかたなかったよ」
菜々子の腕をひきよせ抱きしめようとしたら……かわしやがった。
泣き顔を見られたくないせいか、顔を片手の甲で押さえたまま、後ずさる。
俺から距離をとる。
「会いたかったら、楽しみだったら、3時間も寝かしておくわけないよ! ナツに話したいことがいっぱいあったのに。手ぇつないだり、抱きしめてもらったり、いっぱい……半年ぶん……。なのに面白そうによだれとか寝言とか――」
「菜々子っ」
さとすように彼女の名前を呼んで、手をひこうとした。
「ナツのばかぁぁぁぁーーー」
菜々子は荷物全部、放り投げたまま走り出した。
バカはどっちだ。
俺に足で勝てるかよ。
なんなく捕まえて向きを変え俺の腕の中にきつく収める。
「捕まえた」
「嫌だ。はなしてよ」
「はなさねーよ」
もっと強く抱きしめる。
怒ってるから? 震えている。
「かわいい……」
「……」
「もうたまんねーよ。このまま日本に連れてかえりたい……」
「じゃあ、なんで3時間も寝せておくのよ」
俺の胸板に強く顔を押し付けられ、くぐもった声で菜々子が非難の声をあげる。
「お前、昨日、寝てねーんだろ?」
「……」
「お前のことだからめちゃくちゃ勉強してんだろ? 睡眠不足なんだよ。俺の側でゆっくり眠れるなら、寝かせてやりたかったんだよ」
「そんなの……。自分勝手だよ。わたしは寝るより、いろんなことを話したり……こうやってずっとナツと……」
「ホントに俺、自分勝手か?」
「そうだよ」
「じゃあさ」
俺は菜々子の両肩に手を乗せ、諭すように目を合わせた。
「もし立場が逆だったら? 俺がヨットレースで疲れてて、合間に大学の勉強もしてて、昨日徹夜だってお前が知ってたら。んで、俺が寝ちゃったら、お前起こすか?」
「起こす!」
「嘘つけ」
俺は菜々子の目を見据えた。
「……」
「起こすか?」
「……」
「俺の気持ち、少しはわかっただろ? 昔のオンナとかバカなこと二度と言うなよ。菜々子は昔じゃなくて、今のオンナ。未来もずっと俺のオンナ」
「ナツ……」
「ほら、こっちこいよ。ケンカなんかしてる時間ねぇ」
いやらしい俺は、ちゃっかりこういう時間も計算に入れて菜々子を起こしている。
ホントは自分勝手だ。
あたりはすっかり暗くなってる。
俺はさらに暗い大きな木の陰に菜々子を誘う。
ゆっくりその木に菜々子の身体をもたせかけてのしかかるように、覆う。
片手で菜々子の肩を木に押さえつけ、もう一方の手で、彼女の顎を挟み、顔の位置を調整する。
唇を重ねる。
ねじ込むように強く押し付ける。
もう優しいキスなんかしてる時間ねぇぞ。
むさぼるように菜々子の唇を味わう。
息が苦しくなったのか、菜々子がそっと顔をそむける。
「菜々子……?」
「久しぶりで……恥ずかしい……よ」
「もうお前の羞恥心に付き合ってる時間ねえの。次はちゃんと口あけろ」
そっとそうささやくと、俺はまた彼女の唇を奪う。
舌を入れ、菜々子の口の中をくまなく探る。
かすかにミントの香りがした。
ほらちゃんとお前だってこういうキス、予測してたんじゃん。
かわいい菜々子。
俺だけの菜々子。
早く、俺の腕の中にもどって来いよ。
「時間切れ」
唇を離すと俺はそういった。
菜々子が泣いていた。
「何泣いてんだよ」
「離れたくないよ」
「もうちょっとだよ。日本に帰ってきたら毎日こんなもんじゃすまねーぞ。腰、たたなくしてやる」
「またそういうエッチなこと言うー」
「お前見てるとエッチなことばっか考えちゃうの! 俺がどんだけ我慢してると思ってんだよ」
「……わたしも……我慢してるもん」
「え……」
菜々子も俺に抱かれたいと思うのか?
「俺に、抱かれたい?」
菜々子はそそくさとバックの散らばった場所までもどって、片付け始めた。
しゃがんで落ちているノートや鉛筆を拾い集めて鞄に入れる菜々子に、そっと耳打ちした。
「なあ俺に抱かれたいの?」
菜々子はかすかにうなずいた。
後ろから見ると髪の間から見る耳が真っ赤だった。
虐めたくなるな。
「1ヶ月たったら、金貯まる。ホテル気に入ったとことっとけよ。観光なし。こもるからな。覚悟しとけ」
「ばか……そういうんじゃ」
反論する声は小さい。
時間ぎれもむなしく、結局近くまでしかこなかったリーズ城は湖面に映り、ものすごく綺麗だった。(リーズ城の感想おしまい)
手をつないで、出口に向かう。
「昼間、秋なのにむちゃ暑かったな。でもさすがにもう寒い」
菜々子の肩を抱き寄せた。
「ナツがイギリスに来たからだ」
「は?」
「今日は聖マルチンの夏。秋でもこうやって異常に暑くなる日があるの。そういう日を聖マルチンの夏って言うんだって」
「ふうん」
「わたしにとって、ナツが近くにいるといつでも季節は夏なの。イギリスにはナツがいない。今日は、神様がわたしにくれた聖マルチンの夏」
「じゃ、俺にとっては神様がくれた聖マルチンの春だな」
「え?」
「菜々子が近くにいると、俺の季節はいつも春だから。菜の花のさいてる春」
15分もおくれてバス停についた俺たちを運転手もといヨットマンのリチャードさんは優しく迎えてくれた。
俺と菜々子を乗せる。
菜々子をロンドン行きの電車が出るバーステッド駅まで送ってくれる。
「アナタタチィ、ヤッタデショ?」
「はぁ?」
いきなりリチャードさんがそう言った。
そのあと英語でべらっべら喋ってる。なんだぁ?
「菜々子、なんて言ってんだ?」
「ミスターケンジとミスターナベがそう聞けって言ったんだって!! あいかわらず素敵なお友達をお持ちですこと!」
菜々子はバーステッド駅で降りていった。
俺の常春。
あいつにとって俺も常夏でいられるように。
また会う日まで、がんばろうな。菜々子。
聖マルチンの夏 Fin.
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