第2章  季節遅れのナツ盛り


ジムの更衣室。


俺はロッカーを開けながら夢ごこちだ。


やっと菜々子とつきあえた。

10日たった今でも信じられない。


ああ! 夢のようだ。夢なら永遠に覚めないで。


菜々子を家に呼ぶ。

菜々子が家で待っている。


美味い料理。二人でする片付け。

テレビを見て、くだらないことで笑いあい、キスして、抱き合って……本当はそのまま一緒に眠りについてしまいたい。


だけどマジメな菜々子はずるずると泊まるのは嫌だと言うから、俺は、バイクでしぶしぶ送っていく。


だから一緒にビールも飲めない。


俺の気持ちだけだったら、きっともう半同棲状態になっているはずだ。


学生なんだし、このマンションだって結局、親の金で買ったものだ(投資目的らしいけど)。


菜々子の考えはいつも正しい。

優等生が抜けない菜々子にちょっと恨みがましい気持ちになる。


くやしい気持ちがわく。

もっと俺に溺れてくれ。


俺が菜々子にどうしようもなく溺れて、もうお前だけしか目に入っていないように。


だれかが言ってたな。

男はアクセル。女はブレーキ。


俺らの場合、ムカつくほどぴったりその言葉があたっている。



思いっ切り菜々子と昼間喋って、笑って、遊んで、夜は二人で酒でも飲んで、ゆっくりして、それで……朝まで彼女を抱いていたい。


一日中菜々子といたい。

俺は、ここのところ、そんなことばっかりを考えていた。


ぴかかん!! 


そうだ。旅行に行けばいいんじゃんか!!


海。やっぱり海だよな。


俺も菜々子も忙しい。


特に菜々子はなんだか知らないけど他の英文科の生徒がやっていない課題までこなして、俺の家でも俺を待っている間、勉強ばっかりしている。


テニスもしているけど、夏休みなのに、遠くに遊びに行ってもいない。


一日くらいいいよな。


俺も菜々子もオレンジをさぼって、俺はジムをさぼって二人で旅に出る。


問題は菜々子の大学だ。

二日か三日にいっぺんは、菜々子は大学に行って、レポートの指導をうけている。


さすがにそれはサボれないか。


でも、行きてー。


実家の病院が福利厚生の一環で契約しているリゾートホテルが外房にある。


けっこう穴場的なスパニッシュコロニアルってカンジのイケているホテルだ。


海に面したパティオを囲んで建物がコの字型に立てられている。

全室、オーシャンビュー。


夏も、トップシーズンはとっくに過ぎていて家族連れはいないはずだ。


クラゲが出て、泳ぐのは無理かもしれないけど、あそこなら、パティオの下につくられたプールからプライベートビーチにでられる。


砂浜を歩いたり、膝くらいまで水に入ったり海の雰囲気くらいは味わえるはずだ。


真下が海のプールでなら泳げるし。


やっぱ夏は海!! 海だよな!!

ああいうホテル、女は好きだよな。


菜々子、喜んでくれるかな。

行きたいって言ってくれるかな? 


昨日、一昨日と課題が終わらなくてうちに来ていない菜々子。


菜々子欠状態で俺は水面に顔をだしてアップアップしてる金魚みたいな惨状だ。

早く顔が見たくて、もう胸が苦しかった。


今日は来ているはずだ。

俺は、ジムで着替えるのももどかしく、メットをかぶってバイクにまたがった。



マンションに着くとエントランス開錠、エレベーター待ち、自宅の鍵を開けるという作業の多さに苛立ちながら、部屋に飛び込む。


「ただいま。菜々子ー!」

「お帰りナツ」


菜々子がローテーブルの前から立ち上がり、俺のほうに来る。


ローテーブルの上には、レポートの資料やらパソコン、筆記具が乗っている。


「お腹すいたでしょ? 今、ご飯用意するね。今日は、白身魚のムニエル、ジェノベーゼソースがけだぞ‼︎ あとご飯とコンソメスープね。サラダもあるよ」



「菜々子、またそんな凝った料理作って‼︎ 時間大事にしろって。デリバリーのピザでもいいし、コンビニ弁当だって菜々子と食うなら美味いから」


「また倒れられたらイヤだ。わたしが来た時くらいちゃんとしたもん食べてよ」


菜々子の料理は美味い。

でも正直、俺としては毎回ピザでもいいから、毎日来てほしい。


毎日会いたいんだよ。


菜々子がローテーブルの上を片付けて、料理を運んでいる間、俺はPCで、例のホテルを検索し、プリントアウトした。


料理を食べ、二人で食器を洗ってアイスコーヒーを飲んでるとき、俺は、菜々子にさっきプリントアウトしたホテルの案内を見せた。



「旅行、行かないか?」

「旅行?」


「9月だろ? もう小学校や中学は始まってて、シーズンオフに入ってるから、取れると思う。ここのホテル、うちの親父の病院が保養所として契約してるとこでさ、安く泊まれんだよ」


菜々子は目を輝かせた。


「うわあー! すごい素敵なホテルじゃない? わたし、こういうスパニッシュとか、ヨーロッパ風の建物大好き! 行きたいー!」


よかったー。


「マジ? やっぱ夏は一回は海行かないとな。俺はどうにかなるとして、菜々子、大学のほう平気か?」


「絶対どうにかする。授業のない日に1泊くらいしかできないけど。問題は課題だなー。せっかく行くんだから、ナツとずっといたいし、あー‼︎ 課題―。どうにか終わらせてから行くよ」


「マジで!? 俺手伝うから。1回くらいいいよな手伝っても。わかんない単語、調べるくらい、俺、できねぇ?」


「うーーーーーん」


なんでそこでそんな唸るかな?


「まああんまり無理だったら手伝ってもらうよ。用例とか見ながらやるから、引けばいいってもんじゃ」


「へいへい」

「あれ? ここ……」


菜々子は打ち出した案内のプリントをじっと見ている。


「どした?」


「ん? あのね。ほらここ、美崎リゾートグループってあるでしょ? 施設で一緒に育った弟みたいな子がね、ここの御曹司なんだよ。わー連絡したらタダにしてくれるかなー」


げ。男…。


「なんでそんなすげぇとこの御曹司が施設に? 美崎リゾートグループ、って全国展開してるすんげぇでかい会社じゃん。そっか長野が本拠地か。あのへんリゾート地多いもんな」


「うん。なんていうか、わたしみたいに親が生まれた時からいないっていう子は施設でもまれでね。みんななんかの事情で、親が育てられないケースがほとんどなんだ」


「へぇ」


「この子もよくわかんないけど、そういう感じみたい。愛人さんの子供だったみたいで、お母さんが一時的にうーん…。詳しいことは知らないけど。まぁそんな感じよ。養子縁組じゃなくて実子だよ」



「今でも連絡とりあったりすんの?」


「うん。認可は下りてたけど、ほとんど慈善事業みたいな施設だったの。園長先生も保母さんもすごくがんばってくれて。だから、園長先生の誕生日には今でも、みんな、集まったりするんだ」


行ってみたいな、と思った。

菜々子を中学まで育ててくれた人。

菜々子が中学まで育った場所。


「大地に連絡してみよー。もう二年くらい会ってない」


「いっ……。いいじゃん。そんなの連絡しなくったって!! 俺と菜々子と二人っきりの旅行なのに何でわざわざ。弟って、そいついくつだよ?」



「えっとー中学3年、あれ、2年前に確か、3年だったからもう高校かー。早いなー」


勝手に菜々子はなつかしがっている。

そんな奴のことはどうでもいい。


とにかく菜々子と二人の時間を邪魔されたくない!


むくれた俺の顔を菜々子がのぞきこむ。


「やーだ。ナツ。高校生なんかにヤキモチ妬いてるの? わたしより3つも下なんだよ?」


「3つだろうが4つだろうが男は男だ。男は全部俺のライバル! こっち来いよ菜々子! 俺にヤキモチ妬かせるとあとがこわいこと教えてやる」


ソファ側のローテーブル前に座ってる菜々子のとなりに行って、彼女の手をひき、俺の膝の上に抱えあげる。


キスしようと顔を近づけると、菜々子は自分の唇の前に両手を持っていって、それをふさいだ。


「なんだよ? 拒むのかよ?」

「か・だ・い」

「は?」


「帰るわ。旅行行くのに課題残すわけにいかないもん。今日行ったけど明日、高橋教授のとこ行って、ワケ話して、旅行ぶんの課題、早く出してもらう。それにはあれ、終わらせちゃわないと」


菜々子はレポートをしまった自分のバッグを指差した。


「え? もう帰んの?」


「うん。だって旅行行きたいもん。キスするとナツ、絶対そこで止まんないじゃない。早く帰って集中して課題する」


俺は強く唇を噛むしかない。

菜々子は俺が彼女を渇望するほど、俺を渇望してくれない。



つき合っているのに片思い。俺の想いのほうが菜々子より10倍も100倍も強い気がするのは気のせいじゃない気がする。


「ナツ?」

「キスして」


「え?」

「キスしてくんなきゃ俺、送っていかない」


ちょっとふててみる。


「ナツー」


菜々子はあぐらかいている俺の前に正座して両肩にやわらかく手を置き、首をちょっとまげて、そっと自分の唇を俺のに重ねあわせた。


それから綺麗な流線型を描く目で俺の目を見つめる。

心臓が絞り上げられ、切ない音を立てる。


好きだよ、菜々子。めちゃくちゃ好きだ。


俺の機嫌をとるためだけの柔らかいキスなのに、俺はどうしようもなく欲情する。

でもダメだ。


菜々子は俺と旅行に行くために課題を早くあげようとしている。

ここで邪魔をしてどうする。



ため息をついて、バイクのキーをテーブルからさぐり、立ち上がる。


「ねぇナツ。毎回送ってくれなくていいよ? 疲れてるでしょ?」

「いいの。ほら行くぞ」


菜々子のさらさらの髪を後ろからなで、俺は先に立って、玄関を出た。


なんで車じゃなくバイクかって、バイクだと菜々子が俺にしがみつくからだ。


俺は、完全に菜々子病だ。

苦しいよ菜々子。


菜々子の課題も無事終わり、待ちに待った旅行の日が来た。

車で菜々子んちの前まで迎えに行き、彼女の荷物をトランクにつめる。


「一泊なのに、なんでこんなに荷物多いんだろ」


「女はいろいろあるの。化粧品とか着替えも何種類か、ほら、素敵なレストランに行くかも知れないでしょ? 一張羅のサンドレス持ってきた。ナツ、ジーンズじゃないパンツ持ってきたの?」


「一応な」

「楽しみだね。お料理おいしそうだもんね」


おいおい楽しみなのはそこかよ。

俺と一日、一緒とかそういうのは楽しみじゃないのかよ。

つっこみたくもなる。


だけど菜々子とのドライブはホント楽しい。


ドライブインで食う、値段ばっか高くてちっとも美味くないラーメンでさえ極上の高級中華に味をかえる。


「うわーこんな素敵なホテル、泊まったことないよ。ナツ! ありがとう!」


菜々子はそのリゾートホテルを見ると歓声をあげた。

心から連れてきてよかったと思う。


だんだん菜々子の趣味が分かってきた。

ノスタルジックな感じのするヨーロッパ系、スペインやイギリスのコロニアルスタイルが好きなんだ。


テラコッタの床。

がっしりした黒アイアンの、それでいて優美な手すり。


うっとり建物に見とれる菜々子に俺は見とれていた。



「チェックインしたら海行こうぜ! 海! もうダメかなぁ。今日、すげぇ暑いから、プールだけでもいいよな」

「うんうん」


「菜々子の水着、楽しみー。もちビキニだろ? 露出度高い?」


「えへへ。けっこうねー。水着は胸ないほうが便利なんだよ。胸あるとエッチっぽくなっちゃうけどわたしが正統派三角ビキニ着てもちっともエッチっぽくならない」


「それは自慢なのかよ」


菜々子と俺の荷物を片手で持ち、反対の手で菜々子のくびねっこをつかまえて、俺のほうにひきよせる。


チェックインすると、まだ昼前だけど、ホテルマンが俺たちの荷物を持って、部屋へ通してくれた。


バスルームで水着に着替えて出てきた菜々子を見て、げげげげー!

とマジで思う。


水着自体はなんの変哲もないレモンイエローの三角ビキニ。

ちょっと糸にラメを使ってるのかキラキラしている。


水着を着たからってない胸がもりあがるわけじゃないけど、テニス焼けしてない真っ白い肩や胸元が惜しげもなくさらされている。


加えて手足の長いスレンダーで華奢な身体つき。


色気充分じゃん。

エッチっぽいだろ。こういうのも。


「見ないでよ。恥ずかしいなあ」


無理だろ。


「早くナツも着替えておいでよ。ビーチでお昼にしよ?」

「あ、ああ」


ビーチより部屋がよくなった、とは……言えない。

だってあの水着姿、他の男も見るんだろ?


ありゃ一瞬たりとも俺のそばから離せねぇ。


B1から直接、パティオの下のプールに出られるらしい。

出口にあった空気入れででっかい浮き輪に空気を入れる。

「わたし、先行ってパラソルとってるよ。ほらあとあそこしか空いてない」


プールを囲んで、ずらっと並ぶ木の支柱に白い帆布のパラソル。

パラソルの支柱を挟んで木製のデッキチェアーが二つ。

真ん中に小さいテーブルもついている。


くそっ。マジだ。


あれがとれるのととれないのじゃ、えらい違いだ。


「おい菜々子っ!」


菜々子は水着の上にパーカーをはおった格好のまま、そのパラソルのほうに小走りで行ってしまった。


まあこんな高級ホテルのプールで無理にナンパもないよな。


やっと空気を入れ終わった俺は、でっかい浮き輪を持って、菜々子がとっておいてくれたパラソルのほうへ歩き出そうとした。


「夏哉くん?」

「え?」


ぎゃっ。やべー!!  


親父の病院の事務の総合責任者、水野さんとその奥さんだ。


なんでここに……って。

ここで親父の病院の関係者に会っても不思議はない。


でももうシーズンオフだから休みなんてとっている奴はいないと思っていたし、だいたい会ったってお互いわからない。


なのに……。


なんで水野さんなんだよ? 


水野さんの家と俺の家は、昔っからの家族ぐるみの付き合いで水野夫妻は一ノ瀬宅でメシ食うこともよくあった。

子供はいないから夫婦で来る。


ここ1、2年は俺とは会っていなかった。


「まぁー! しばらく見ない間にすっかり男っぽくなっちゃって! 奥様や光くんは元気?」


「はい。みんな元気です」


うわー。どうすっかなーこの危機。


平静を装いながら、頭の中でぐるぐると考える。


俺の彼女連れ旅行が、親父の懇意にしている夫婦にバレたら、いくらなんでもやばい。実は男友達と来ている事になっている。


うちの母ちゃんは俺たち息子には放任なのに、女の子が絡む事に対してだけ厳格で、ヒカリが彼女との泊まりがバレた時に、めっちゃきつくたしなめられているのを見ている。


わずらわしいからもうそのあたりは全て内緒にする事にしたのだ。


母ちゃんの心配している事態はわかっている。だけど俺もヒカリも、そんな無責任な男には育っていないんだよ。


まだ学生で収入もないんだから、欲情して頭が噴火していても無防備に抱いたりしない!


自分の子育ての腕をみくびるな、と言いたい。

話が面倒になるから言わないけど。



「まあまあ、最近ご無沙汰してしまって。この間もね、奥様にぜひ、お夕食にって言われたのよ? 今、日程調整してるところなの。それにしても、ホントにイケメンさんになっちゃって。今年から大学ですって? 一人暮らしなさってるんですってね? どうお? 不便なことなぁい? お母様のありがたみがよーくわかるんじゃなぁーい? ヒカリ君も来年は大学生でしょ……うんぬんかんぬんうんぬんかんぬん」


と、しかもう俺には聞こえてなくて。


昔っから機関銃トークおばさんなんだよこの人。


菜々子をチラッとみるとデッキチェアの上で、プールサイドでホテルマンに渡されたバスタオル膝にのせて、所在なさげにこっちを見ている。


「あのっ」


「はあい」


「今日は、これからどうされるんですか? 俺、友達と来てなければ、いろいろご一緒したいんですけど、残念です」


「あらーご一緒したかったわー。こちらこそ残念。わたしたちこれからチェックアウトなのよ」

                

はー…。

マジ助かったー!


俺は、プールエリアから追い出すようにエレベーターホールまで水野夫妻を送り、にこやかに手をふった。



急いで菜々子のいるパラソルに向かうと、男が一人、菜々子のとなりのチェアに腰掛け、彼女のほうを向いて喋っている。


彼女の肩を小突いたりしている。

しかも菜々子がなんの警戒心もない表情で笑っている。


一瞬で身体中の血液が沸騰する。

俺は、プールサイドを走った。


「なんだよ。お前」


男のほうにまっすぐ視線をむける。

なんだこいつ。やけに幼い? まだ高校生か? 


ガタイはでかいのに、顔にはまだ充分子供の面影が残っていた。


「ナツ。違うよ。ほら、前に話したでしょ? 施設で一緒だった大地だよ。今日、開校記念日で学校休みだから、みんなで、遊びに来たんだって」


菜々子はプールの対岸の一角を指差した。


そこには男女で7、8人の群れが、パラソル3つを独占して騒いでいた。


「菜々子、知らせたのかよ? 偶然?」

「偶然だよ」


「ここまでくんなら、知らせてくれればいいじゃんよ。菜々子。こいつが新しい彼氏?」


「そう。一之瀬夏哉くん。大学が一緒なんだ」


にっこり手を出して握手をもとめるほど俺もオトナにはなれない。


だってこいつ、あきらかに、俺に敵意をむき出しにしている。

俺を見る目にめちゃ棘がある。


「タカ兄だからあきらめたのによ?」


なんだこいつ。


3つも下の高校生のくせに俺に対抗しようっていうのかよ?


チェアから立ち上がりながら、そいつはほざいた。


「菜々子、そいつと別れたら、すぐ俺んとここいよ。こんなすげぇホテル使い放題。将来、結婚でもすりゃ、左団扇で暮らせるぜ?」


俺は、そいつの後ろ姿に言葉をはいた。


「親の持ち物で女を釣るしか芸がねぇのかよ? 俺は絶対菜々子と別れねぇぞ」

「ナツ!!」


菜々子が俺の手に触れ、下からひっぱる。


「ごめんね。いつもはあんな子じゃないんだけど……。高志になついてたからな。わたしと高志が別れたのがショックだったのかな」


「もうっ。お前はどこまで鈍いんだよっ」


菜々子の頭をちょんっとこづく。

菜々子のことがあいつも好きなんじゃんか。


きっと、菜々子が高志先輩を見ている間、ずっとあいつは菜々子を見ていた。

詰まることのない3つの歳の差をうらみながら。


俺はため息をつく。

もう、どこへいってもライバルだらけだ。


「べつに鈍くないもん」


大げさに口を尖らせて、今俺がこづいたこめかみをおさえて俺を見上げる菜々子。


かわいいな。

もうどうしようもなく彼女がかわいい。


うんといちゃいちゃして見せつけて、俺たちの間に割り込むことなんか不可能だと知らしめてやる。


「菜々子、プール行こうぜ」

「うん」


でっかい浮き輪に二人で入ったり、浮き輪をベッド代わりにしてカタチのいい脚をそろえて突き出す菜々子をぐるぐるまわしたりして遊ぶ。


菜々子の楽しそうな嬌声と満面の笑みが、心に沁みる。

単純だな、これだけでものすごく幸せだ。


ひょうたん型のプールの上にはつり橋が掛かっていたり、岩山を模した壁から滝が流れていて、そこを通る人の頭上を濡らす演出がされている。


滝の向こうは洞窟になっていて、その中は陸にあがるとバーだ。

夜はライトアップした水面がさぞかし綺麗だろうな。


今夜、食事のあと、ここに菜々子を連れてこよう。


シーズンオフのプールはそんなに込み合っていない。


いるのは大人か大学生。

あとは目障りな高校が休みとかいうあの団体だ。


小さい水着で、ほとんど裸同然の菜々子をみんなが見ているような気がする。

見せたくないと、それだけはどうしても思ってしまう。


俺は、プールから上がると同時に菜々子にパーカーを渡す。


「まだいいよ。身体、濡れてるもん。それにちょっと焼いて、このテニス焼けの短パンのあととか、腕のTシャツのあととか取りたいんだけど」


「だめ」

「なんで?」

「なんでも!」


「なにさ。わたしの水着が楽しみとかなんとか言っちゃってたくせに。そんなにこれ変かな? 似合わない?」


菜々子は自分の全身を、腰をねじってみまわす。


「綺麗すぎてもったいねーんだよ………」


俺は小さい声で呟く。

恥ずかしくてそんなこと言えるかい。


「何? なんて言ったの?」


「ほらほらパーカー着てメシ食いにいくぞ」

「はーい」

「あれ? ナツ、背中、血が出てるよ。どうしたの?」


「あー、さっき滝んとこの岩山でぶつけたかも。たいしたことねーよ」

「ちょっと待って。バンソコ、バンソコ」


菜々子はサイフの中から絆創膏を取り出して、俺の背中に貼った。



こんなものまで女はいつも持って歩いているのか。


かなり遅い昼飯になった。

俺はアロハシャツをはおり、スマホとサイフだけを持って歩き出し、数歩行ったところで菜々子の方を振り返る。


「菜々子、大丈夫か?」

「うん」


彼女は低いヒールのついたシャレたビーチサンダルを履いてきていて、それを履きなおし、俺に追いつこうと早足になりかけ……急に停止した。


「夏哉くーーーん」


ああん? なんだ? 俺のこと? 



げげげげ!!



視線を声の方に向けると、プールサイドへの入り口のところで、今度はきちんとワンピースを着込んだ水野のおばさんがバカでかい声で、大きく手を振り回している。


勘弁してくれー。


俺はふりむかずに菜々子に声をかける。


「菜々子、ちょっと悪い。待ってて」


それだけいうと、急いで水野のおばさんのところにとんで行った。


もう何だよ。次から次へと……。


「なんスか? 水野さん」


「あのね、ここの最上階にある中華、とっても美味しいの。今、わたしたち頂いてきたんだけどね? 特にフカヒレの姿煮がもう絶品でね? たしか夏哉くんフカヒレ大好きだったわよね?」


そんなものは高くて、スポンサーの父ちゃんがいる時じゃないと食べられねぇよ。


「わざわざありがとうございました。気に留めておきます。俺の小遣いじゃ無理だと思いますが、今度家族で来た時にでも」


「今、ごちそうするわ。席、押さえてあるの」


「は?」

「だから今」


「あ、だけど俺、友達と来てますし、それに水着じゃ」

「それ、あんまり水着に見えないわ。お友達も一緒にどうぞ?」



じょっ! 冗談じゃねぇ。

菜々子を連れて来たらまずいじゃんか。


「いっぱいいるんスよ」


俺は、あの開校記念日軍団を指差した。身体はもう充分でかい。

遠目には大学生に見えないこともない。


「あんなに大勢でフカヒレなんて申し訳ないすから。みんなめっちゃ食い盛りで、しかも遠慮するやつらじゃないんで。俺たち、ビーチのレストランで充分ですから」


さすがにあの人数にフカヒレは強引おばさんも引いたらしい。

助かったか?


「じゃ、夏哉くんだけでも。ね? 30分だけでいいわ。せっかくここであったのに、何もしないでお帰しするなんて、一之瀬さんに悪くって」


もうー! 

それが本音なんだよな。

大人の事情で俺の大事な時間を奪うな。


だけどここで押し問答をしているほうが時間の無駄に思えてきた。

絶対にこのおばさんはひかない。席まで、取ってあるんだ。


「じゃ、お言葉に甘えて本当に30分だけ」


俺は入り口付近にあったタオルコーナーでタオルをとって、水着をごしごしふいた。


たしかに俺の水着は膝上のカーゴ型。

色もしぶいベージュで撥水加工の布って感じだ。


部屋までもどって着替えている時間はない。

上に着ていたアロハシャツをきっちり中にいれると、ものすごくおかしな格好になった。


でももうそんなことに構っていられる場合じゃない。

とにかくフカヒレを食って、一秒でも早く菜々子のところにもどらなきゃ。


「じゃ行きましょうか」


俺が先にたってエレベーターまで歩くという妙な形で、このお誘いをうけた。


「あら? お友達には何にも言わなくていいの?」


「今、連絡します。30分以内でもどるからそこにいろよって」


ここでも俺は、さりげなく、いやおもむろに30分を強調した。


菜々子にラインを打つ。


『ごめん。親父の知り合いに会っちゃってさ。どうしても離してくれない。そこで待ってて。必ず30分でもどる。絶対、パーカーぬぐなよ。男に声かけられても無視しろ』


『了解』


菜々子から短いラインがすぐ届く。


でも。

さすがにグルメな水野のおばさんご推薦のフカヒレだけはある。


すんげぇ美味い。


俺はメシと一緒にフカヒレをかき込むようにして口に入れた。


ああ、菜々子にも食わせてやりたい。


今日の夜、どこかちょっとはシャレたところでメシ食うつもりだけど、いくらなんでも最上階のここは無理だ。


夜はもっと高いだろうから。


そう思うと自分だけがフカヒレを食っているのが、ものすごく申し訳なく思えてくる。


あー、これをタッパーにでもつめて、菜々子に持っていってやれないかなー。

と俺はバカなことばかりを考えてた。





「ホントにすごく美味しかったです。いままで食べた中で最高って感じです。両親にも水野さんに高級中華をご馳走になったこと、よく伝えておきます。ありがとうございました」


水野さんもこれでホントに納得してくれたみたいで、マジで助かった。


俺はホテルのゲートで水野夫婦のアウディが発進するのを胸をなでおろす気持ちで見送った。


菜々子。菜々子。菜々子。

早く菜々子のところに戻りたい。



俺はアロハシャツを水着から引っ張り出しながら、エレベーターの場所まで走り、B1のボタンをがんがん押した。


プールサイドに出てみると、俺らのパラソルの下に菜々子がいない。


なんだ? トイレとか行ったのか?





次の瞬間、俺の全身が泡だった。








ぐったりした菜々子を、男がプールの中から横抱きに抱えあげて、膝を落とした監視員の奴に渡している。


え? 

頭が真っ白になって、脚が動かない。

動かなかったのは一瞬だ。


俺は、夢中でそこに、対岸のその場所に走った。


こんなに走っているのに、まるでスローモーションのように感じるのはなぜなんだ。


監視員の男が菜々子を横向きにし、彼女にまたがった。

腹のあたりを押して、口を開かせているようだった。


「どけよっ。菜々子。菜々子。菜々子っ」


俺は、監視員の肩に手をかけ、無理に菜々子からひきはがした。


菜々子は口から水をごぼごぼ吐き出し、うっすらと目を開けた。


「ナツ……」


「菜々子……よかっ……」


涙がこみ上げるのを、後ろを向いてこらえた。

ゆっくり起き上がった菜々子が口を開く。


「あんまり暑いから泳いでたの。足、つっちゃって……。すごい水のんじゃって。大地が気がついて、助けてくれたの」


そこで俺は振り返った。

さっきの、菜々子を抱えてあげて監視員の男に渡していたのはあいつだったのだ。


監視員の行動も的確な処置だったんだろう。

気道の確保や水を吐かせること。


ああしてくれなかったら、菜々子は水を吐かなかったかもしれない。


理屈では納得がいくものの、他の男に抱え上げられる菜々子、監視員に馬乗りになられている菜々子の姿が、フラッシュバックして脳裏によみがえり、残像となって俺をせめる。


「あ、ありがとうございました。本当にすいません。さっき。俺、考えなしに突き飛ばしたりして」


俺は監視員の男に礼を言い、深く頭を下げて謝った。


「大地くん。ありがとうな」

「自分の女の面倒くらい自分でみろよ」


返す言葉がない。


「やめてよ。大地。ナツはどうしても抜けられない用事ができちゃったんだよ。ナツ、もういいの? お父さんのお友達」


「ああ」


黙って先にたって歩く俺に、菜々子は小さく謝った。


「ごめん、ナツ」

「菜々子のせいじゃない。俺がお前のそば、離れたから。俺こそ菜々子が大変な時に側にいてやれなくて……ごめん」


俺がいれば菜々子があんな事態になる事はなかった。


「でも……」

「部屋、行くぞ」

「え?」


デッキチェアの上の荷物をまとめると俺は、ホテルの入り口に向かう。

頭が濁っている。いつまでも菜々子が他の男に馬乗りになられている絵が脳裏から去ってくれない。


「だ、大丈夫だよ。ナツ。わたしもうぜんぜん平気だから、ご飯たべたら、下のプライベートビーチも行こうよ。貝殻ひろったり……」


「ほら、パーカー着ろって」


菜々子のところにもどって、彼女のパーカーを着やすいように広げる。


「うん」


マジでぞっとする。考えると震えがくる。

あのまま菜々子が目を開けなかったら、水を吐かなかったら。

死………。


うわっ。最悪な思考。



俺は強く頭を振る。

あの監視員にはいくら感謝してもしたりないくらいなんだ。


その一方で……。


頭がどうにかなっている方の俺は、あそこで菜々子が目を開かなかったら、あの監視員に人口呼吸されていたはずだ……なんて考えてしまう。


マウストゥーマウス法。

水飲んでいるってわかっていなければ、そっちを先にする判断だってあったはずだ。


菜々子の唇に誰かが触れる。

考えただけで気が変になりそうだ。


菜々子の手をきつく握り、俺は彼女をひっぱるようにして部屋にもどった。


部屋に入ってようやく彼女の手を離す。


「ナツ? どうしたの? なんでそんなこわい顔してるの?」

「菜々子」

「な……に?」


「お前は誰のもんだよ?」

「え?」


急かさないように、と思うのに、感情の制御ができない。


優しくするんだ! 菜々子は溺れたばっかりなんだぞ!

と冷静な方の俺が自分を悟す。


たけり狂った俺の胸にも少しは冷静なほうの俺の言葉が届くのか。


菜々子の手をゆるくひっぱり抱きしめる。

最初は優しく。


でも……。彼女の香りが鼻腔に満ちるにしたがって、感情のたががはずれていくのが自分でわかる。


やばい。やばいやばいやばい。


「ナツ、ナツどうしたの?」


抱きしめる腕の力が強くなっていく。菜々子が戸惑ったように俺を抱き止めその両手を俺の背中にまわす。


止められない。壊れる。

これ以上、彼女をしめつければ、細い菜々子は折れてしまう。


俺はだまって菜々子を抱えあげた。

そしてベッドにはこんだ。


「水着だよ? べたべたになっちゃうよ」

「じゃあ脱げばいいよな?」


「えっ……」


半ば強引に菜々子のパーカーを脱がし、彼女の背中に片手を回し、ひねるようにして水着の止め具をはずした。


水着の上を剥ぎ取る。


菜々子はあとずさりし、恥ずかしがって、シーツで胸を隠した。


「ナツ……どうし―」

「ヤるんだよ。拒むなよ」


そのいつもとはまるで違う誘い文句に、菜々子は、なぜなのかまでは検討がついていないにしても、事態が深刻で、真剣で、俺が何かに追い詰められていると悟ったようだった。


唇を真一文字に結び、強い意志の宿る澄んだ瞳で俺をまっすぐに見つめる。


「証明しろよ。俺を好きだって」

「それが……証明になるんだね? わたしはナツが好きだよ。すごく」


菜々子は片手のシーツで胸を隠したまま、近づいてきて俺の肩に反対の手を乗せる。

そして俺の唇に、かすかに首を曲げて自分の唇を優しく押しつける。


俺はそんな菜々子をゆっくりと押し倒す。


菜々子に俺を求める言葉を強要した。


何度も。何度も。何度も。


「お前の好きな男は誰だ?」


「お前は誰のもんだよ? この手は? この綺麗な顔は? 肩は? 腕は? 胸は?」


「ナツだよ。わたしは全部ナツのもの。わたしはナツが大好き」


強い光を宿した真摯な澄んだ瞳が俺をまっすぐに見上げる。


「もう一度言ってくれよ」


自分でもぞっとするほど優しく菜々子の頬をなでる。


そのしぐさとは逆に、俺の声は、どこまでも低く、かすれていった。

それでも菜々子はまるで怯むことなく、俺の目を真正面から見つめて答えた。


「何度でも言うよ。わたしは全部ナツのものだよ」


大地に触られたと思う箇所。

あの監視員に触られたと思う場所に何度も何度も口づける。


そう、俺のもんだ。

全部、全部、全部俺のもんだ。

誰にも触らせない。


誰にもあんな裸に近いかっこうの菜々子を見せない。


俺の、俺だけの女だ。

俺だけの、他の何とも引き換えにできない大事な宝なんだよ。


愛おしさに狂わされる。


欲ではなく、菜々子の俺への恋心、その証欲しさの暴走を自分で制御する事ができない。

好きなのだ、どうしようもなく。


俺は夢中で菜々子を抱き、そして、弾けた。




気がつくと、放心状態の菜々子が胸の上でシーツを握りしめ、うつろな目で俺を見ていた。


いや、俺じゃない。くうを見ていた。

俺……菜々子に何をした? 


まさか乱暴な抱き方をした? 

それはないと……それだけはないと断言できる。

大切すぎてそんな事ができるわけはない。


でも、でもきっと菜々子の気持ちは今、100%俺に向かっていたわけじゃない。

いつも、情事の開始はふざけあい、じゃれあいながら笑顔でお互いを抱く。確認なんか取らなくたって、互いに気持ちが通じ合っている。


なのに、今はどうだ。なんで俺はわざわざ確認を取った?


「菜々子、菜々子っ」


彼女の肩をゆする。


「ナツ……」


菜々子は薄いシーツを胸に、ゆっくりと起き上がった。


「もう! 昼間っから激しいなぁ。わたしお昼も食べてないんだよ? ナツは?」


「俺は……さっきの夫婦にごちそうになって……」


「じゃ、わたし、下のカフェで軽くなにか食べてくる。ケーキとか晩御飯にひびかないもの」


菜々子はシーツで身体をぐるぐるまきに覆ったまま、クローゼットに掛かっていたドレスをひとつとって、バスルームに消えていった。


最低だ。

何をやってるんだ俺は!! 


菜々子を助けてくれた男たちに嫉妬して、それを彼女にぶつけるなんて。


どうかしてる。正気の沙汰じゃねぇ。

俺は身体を二つ折りにして、マクラで自分の足を何度も殴った。


いつもは流れの中で、切れ目から歯で食いちぎってベッドの下に落とす避妊具の外袋が、ぐじゃぐしゃによじれた状態で布団の上に載っている。


どれだけ焦燥に駆られていたんだ、俺は。


菜々子。俺、お前のことが好きすぎる。

お前は俺を狂わせるよ……。

こんな俺は俺でも知らない。


バスルームから出てきた菜々子は、肩紐の、胸が深くあいた膝より少し短い丈のキャミドレスを着ていた。

黒の地に大胆なうずまきの模様。


はじめて見るドレス、というより、菜々子のここまでフォーマルに近いワンピース姿自体、眼にするのがはじめてだった。


シャワーを浴びて、髪もかわかし、化粧もしたみたいだ。


恐ろしく。

綺麗だった。


無言で、落ちている自分の水着を片付けると俺に声をかけた。


「ちょっと行ってくるね」

「俺もいくよ」


「すぐ帰ってくるよ。あ、スマホで連絡とろう。ナツ、車の運転で疲れてるでしょ? ちょっと寝たら?」


「俺、行ったらダメなの?」



「……ごめん。少しだけ一人にさせて」

「………」

「また夕方からたくさん遊ぼう? 海岸にも出たいな」


菜々子は出て行ってしまった。


ベッドにドターンと仰向けでひっくりかえる。

俺は唇をかみ締めて、咽元からせりあがってくる液体を飲み下した。


居酒屋の前で突然言われた『さよなら』。

俺のトラウマ。


なんで俺はこんなに………。学習能力が低すぎるんだよ!

またあんなことを突然告げられたらと思うと、本当に息の根が止まりそうだよ。


30分たった。1時間たった。

菜々子は帰ってこない。


どこにいるんだよ、菜々子。

俺の顔なんかもう見たくないのかよ。


菜々子のわだかまりが消えるまで、ちゃんと真摯に謝ろう。

何度でも真剣に謝ろう。


カーテンを開けて、窓からビーチを見下ろす。

しばらくそのおだやかな風景を見ていて………。


「え?」


菜々子がサンダルを脱いで、波打ち際を歩いている。

時々、しゃがみこんでは、何かを拾っているようだ。


そうか。

さっき、貝拾ったり………って言ってたもんな。女はああいうことするのが好きなのか?


もうたまらずに、俺は、シャワーを浴びて着替えた。


菜々子のリゾートな正装にあわせて、白の粗い麻のシャツにコットンパンツ。

海に出るから足元だけは本皮のサンダルだ。


ドレスが濡れないように、後ろ側をくるっとお尻をつつむようにして膝に挟んでしゃがむ菜々子の前に、裸足で立った。


逆光でまぶしいのか、手を額の上にかざして俺を見あげる。


「ナツ」

「おせーよ。心配するだろ?」


「ごめん。夢中んなっちゃって」


菜々子は膝に抱えていた小さいかごのバッグを落とさないように、立ち上がった。


なぜか菜々子の手には、貝殻じゃなくて木切れがいくつか握られてた。



「ナツ、かっこいい。そういうのも似合うね」


かっこいい? 

まだ俺のことを、そんな風に思ってくれるのか?


「なんだそれ?」


「流木。ほら、あそこの岬にせり出した大きい木があるでしょ? だからこのへんの海岸には流木が流れてくるんだって。でもいいカタチがない」


俺は菜々子の指差すほうを見なかった。自分で聞いたくせに、正確には見る余裕がなかった。


「菜々子」

「ん?」

「さっき、ごめん。もう……俺のこと、怖いか?」


「怖くないよ。ちょっとびっくりしたけど」

「もう二度と、絶対に、あんな乱暴な抱き方しない。約束する」


「乱暴なんて事なかったけど……いつもの状態でもなかったよね。なんかわたしに怒ってたんでしょ? 勝手に泳いで溺れたりしたから? どんくさいよね」


「ちがうよ」


なんで菜々子がそんな悲しそうな表情をするんだ。

もっと俺に怒れよ。

怒るのはお前だろ?


ヤるとか汚い言葉で威嚇してあんな、心からの100%の同意がない状態……。


もっともっと怒ってくれよ。

そうすれば謝れるのに。

もっともっともっと謝れるのに。


なんで自分に非があると菜々子はいつも思うんだろう。


もう。

こんな思いをするくらいなら、させるくらいなら、毎回聞こう。

聞いて100%納得の笑顔が返ってくるのを待とう。


抱きしめていいか? 

キスしてもいいか? 

抱いてもいいか?


大切にしたい。大切にしたいんだよ。

実際、他の何物にも変えられないくらい大切なんだよ。

大切すぎるんだよ。


心の底からそう思っているのに、その気持ちが強くなればなるだけ、俺は醜くなっていく。嫉妬深くなっていく。


嫉妬で自分が自分じゃなくなるようだよ。


こんな汚ない俺の内側を、無菌の純粋培養シャーレの中で育ったような心を持っている菜々子には見せられない。


釣り合って、いないんだ……。


「ダメだこれ。なかなかないなぁー」


菜々子は持っていた流木を全部、海水の上に手放した。


バッグの中からハンドタオルを出すと手を拭いて、俺の腕に手を絡めた。


「ナツ、行こうか?」


まるで一回目につき合い始めた頃のような、控えめな腕組みだった。


「こっちのほうがいいんだけど、ヤか?」


俺は腕を引き抜き、菜々子の手をやんわりと握った。


「えへ。わたしも実はこっちのほうが好き」


神様。

俺、もっともっと精進します。

だから、だからどうか俺から、もう二度とこの手だけは奪わないでください。


この手を失うくらいなら、他のものは何を手放してもいいと思うくらい、俺にとってこの子は大切な子なんだよ。

宝なんだよ。



好きすぎて、大切すぎて、俺はおかしくなっていた……。




「菜々子、フカヒレ好きか?」


「フカヒレ? スープ? うん。大好きだよ。大大だーい好き!」

「スープじゃなくて姿煮」


「そんなの食べたことないよ。スープだってごっそりフカヒレ入ってるわけじゃないしさぁ。おぼっちゃまナツとは違うの」


「おぼっちゃまは言うな! 昼にあの夫婦に無理につれてかれて食ったフカヒレ、すんごい美味かったんだよ。スープ好きなら菜々子にも食わしてやりたいって思う。夜、そこの中華にしないか?」


もう金なんてどうにかなる。


あとでまとめて絶対に払わされることにはなるだろうけど、親父の口座からここのホテル代は落ちるんだ。


っていうか、ここは俺が出したい。


「どこにあるの?」

「最上階」

「えー? どんだけ高いのよ?」


「わかんねぇ。昼は水野さんが払ったから。でもいいじゃん。こうやって菜々子と旅行に来てるんだし。いっつも菜々子、俺に美味いメシ作ってくれるじゃん。だからたまには俺がご馳走したいの」


「無理しないでよ。ナツ。学生が食べるもんじゃないよフカヒレの姿煮なんて。それにナツ、外デートの時はいつも払ってくれてるじゃない。しかも昼も夜も一緒になっちゃうよ?」


「そう。そんでもいいくらい美味かった」



フロントから予約をすると、わりとあっさり窓際の席が取れて、夕飯までは菜々子と下のショッピングモールを散策したりしてすごした。


最上階から見る夜景も圧巻だった。

漁り火が浮く夜の海。


都会とは違う美しさ。

菜々子が好きな海。


俺も海が好きだ。

将来、どこか海の近くで菜々子と暮らしたいな。


好きな女と暮らすのが夢だなんて、昔の俺じゃ考えられない。


正面に座ってフカヒレの姿煮を物珍しげに口に運ぶ菜々子がかわいい。

ふわっと、俺の大好きな笑顔になる。


髪を後ろによけると、いつものターコイズとは違う、透明なピアスがチカリと光った。


「いつもとピアス、ちがうじゃん? それ、ダイヤ?」

「うん。両親の大学進学祝い」

「似合ってる」


菜々子は一瞬、びっくりしたような顔になって、それから、フカヒレを食った時より、さらに嬉しそうな顔で笑った。


「ありがとう」


さすがにここで酒を頼むほど、俺は無謀じゃない。

フカヒレと、あとは適当にエビチリとか春巻くらいで、ごまかす。


腹が減ったら、下にコンビニもあるしな。

とにかく菜々子にフカヒレを食べさせるのが目的だったから。


「ほら、もっと食えよ菜々子」


菜々子の皿にフカヒレやエビチリを乗っける。


「ナツは? あんまり食べてないじゃない?」


「俺は昼、食ったじゃん。この後、あの、プールんとこにあった洞窟のバーに酒飲みに行こうな? あっちのほうが雰囲気あるし、ちょっとここは酒、高すぎ」


「わー! あそこ行きたいと思ってた」


俺のこと、許してくれたのかな? わだかまりは残っていないのかな?

気になるよ、菜々子。


食事が終わると、俺たちは手をつないで、地下の洞窟のバーに向かった。


「菜々子、冷房効きすぎで寒くないかそのドレス? 肩とか胸とかむき出しじゃん」


俺がさっき激情のままにつけたらしいあざが、上から見るとかろうじて見える。


まあ他の奴には見えないと思うけど。


綺麗すぎる菜々子。

可愛すぎる菜々子。

他の奴にお前の肌を見せたくない。


「羽織るもん、持ってねーの?」

「あるけど……。着たほうがいいかな?」


「鳥肌たってんじゃん 着ろよ」

「………うん」



さすがシーズンオフだ。


こんな洒落たバーでも、どうにか空いている席はあるもんだ。


俺はクラフトの黒ビール。

菜々子はウォッカベースの甘いカクテルを頼んでいた。


たわいもないことを喋りながらも、菜々子の酒を飲むペースが速い。いつもよりずっと速い。


今日は帰らなくていいからか。

俺がいるから、安心しているとか? 


バーに遅くまでいて、菜々子は何杯もいろいろなカクテル(しかも強いのばっかり)を頼み、店を出る頃にはすっかりちどり足になっていた。




「バカナツっ!!」

「は?」


洞窟バーから出る細い通路でいきなり菜々子が叫んだ。


「ナツのばかっ!! もう嫌いっ!! 大ッ嫌い」

「え?」


血の気がひく。そうだ!! 酒! 

菜々子は酒を飲むと本音が出るんだ。


「俺が……嫌い………?」


心臓に、大砲の弾があたったような衝撃を受ける。


それが瞬く間に強烈な痛みにかわる。


別れられる!! 


やっぱり、あんな抱き方をした俺のことを許せないのか。


「嫌い嫌い嫌い!!」


菜々子の目に涙が光る。


「いやだ………」


呟きに近い俺の声が、耳鳴りのように感じる。

泣いている菜々子を見ながら、俺は泣くのを必死にこらえていたように思う。


「ごめん菜々子。誓うよ。もうしない。絶対しないあんな抱き方。いや、もうお前が嫌だって言うなら抱かないから。二度と抱かない。でも別れねーぞ。俺、ぜってぇ別れねーからな!!」



「別れない? 何いってんの? もうわたしに飽きはじめてるのはナツでしょ? わたし、すっごい楽しみにしてたんだよ? この旅行。水着も、このドレスも、靴も、ビーチサンダルまで全部そろえて、ナツに綺麗だって喜んでもらいたかったのに!!」


「は?」


「ナツ。わたしが水着でいるとパーカー着ろ着ろって。このドレスだってすごい奮発したのに、寒いけど、ナツに綺麗だって思ってほしかったのに。上着着ろって」


「菜々子」


「そりゃ、勝手に溺れたのは悪いけど、身体の心配もしてくれないで、いきなりあんな……。もう、ナツにとって、わたしは……」


「菜々子………」

「わたしは………終わりなんでしょう?」


そこまで吐き出すと、菜々子はその場にしゃがみこんだ。

俺も菜々子の正面にしゃがみこむ。


「……覚悟はしてたよ。してたけど……」


小さい声で菜々子がうめくように言葉を吐いた。


「終わりなんてそんなバカなことあるわけねーだろっ!!」


「ナツが今までつき合ってきた子と違うもん。お嬢様でもないし、着飾ったってたかがしれてるし、水着も似合わないし。インポートのドレスなんて胸があいちゃってかぱかぱしてるもん。フカヒレだって食べたことな――」


「黙れよ」


俺は菜々子の両肩を捕まえてその唇を俺のでふさいだ。


ゆっくり唇を離すと、至近距離で菜々子と目が合う。


咽からしぼりだすような声がもれる。


「お前に俺の気持ちがわかんのかよ。俺の頭んなかがどんなにお前でいっぱいか。水着もドレスも綺麗すぎるんだよ。他の男がじろじろお前を見るのが嫌なんだよ」


「………嘘つき。ぜんぜん褒めてくれない」


「そんなの!! 褒めなくたってわかるだろ? お前ほど綺麗で可愛くていい女なんてどこにもいねーよ!!」


「嘘つきナツ………」


菜々子の声がさらに小さくなる。


「そんな当たり前のこと……男が言うかよわざわざ……」

「当たり前じゃない………」


「俺にとっては当たり前なんだよ」

「………」


菜々子は横すわりに床に座って、ぐらぐらしていた頭を俺の膝の上にのせた。

その両肩を抱くように支える。


「お前を乱暴に抱いたのは………」

「………」


これだけは言いたくないのに。


軽蔑されたくないのに。

でも言わなきゃ菜々子が離れていってしまうかもしれない。


「…嫉妬だよ。お前に触った男にめちゃくちゃ嫉妬して、もうわけがわかんなかった。お前を助けてくれた奴らなのに!! お前の命の恩人なのに。俺、ホント、どうかしてんだよ。お前のこと、好きすぎて、ホントにどうかなっちゃってんだよ」


「………」

「菜々子………?」


菜々子は俺の膝に頭を乗っけて、寝息を立てていた。


はーっ。


ため息がもれる。

俺がこんだけ苦しい思いをしているのに、言いたいことを言ったら寝るのかよ。


「もう! またこのパターンだよ」


俺は菜々子を背負おうとした。


「やだ」

「え?」


目を閉じたままの菜々子が呟く。


「せっかくドレスなんだよ? お姫様だっこがいい」

「はいはい」


俺は菜々子を横抱きのお姫様だっこってやつで抱き上げた。


部屋までこれで行くよ。

恥ずかしくないよ。

お前がこれがいいっていうなら、いくらでもこれで歩く。


かわいいと、ちゃんと伝えて欲しかったんなら、俺はどんなに照れていても口にするのが恥ずかしくても、それを伝えなくちゃダメだったんだ。


菜々子が綺麗なら綺麗なほど、可愛ければ可愛いほど、直視ができなくなって、いつもの軽い調子の″かわいい″が口から出てこなくなる。


いくら俺にとって当たり前でも、当たり前だろ? わかるだろ? じゃダメなんだ。


「なぁ菜々子。酒飲んでない時でも、今みたいにちゃんと言えよ。溜め込まないでくれよ。それができないんなら、いっつも酒飲んでろ」


「………アル中?」


俺の首に手をまわしたまま、目を閉じてる菜々子が、小さな声でささやく。


「そう。言いたいこと、言えないんならアル中でいろ!」


「それでも………ナツはわたしが好き?」


「好きだよ。大好きの百乗だよ。当たり前だろ?」

「そっか………」


菜々子を抱えながら、この時間でもちらほら人のいるロビーを横切る。

みんながじろじろと見ている。


俺は、なぜだか誇らしい気持ちでいっぱいだった。

これが俺の彼女だぞ。


こんなに安心して俺に抱かれてるんだぞ。

こんなこと、こいつ、俺にしかしねーんだぞ。


菜々子を横抱きにしたままどうにか部屋の鍵を開け、中に入ると丁寧に彼女をベッドに横たえる。


皺になりそうなシルクのドレスだけ、横ジッパーを開けてぬきとる。

それをハンガーにかけ、バスローブを取ってきて着せる。


涙の乾かない幼い、あどけない寝顔。


眠っている菜々子はいくつも若く感じ、見ようによってはまだ中学生だと言っても通りそうだ。



「………愛してる………」




起きているときじゃ絶対に恥ずかしくて言えないようなセリフが、口をついて自然に転がり出た。


そんな自分に仰天だよ。

菜々子といると知らない自分がどんどん俺の中から生まれ、その度に果てしなく戸惑っている。


俺も備え付けのバスローブに着替え、菜々子のとなりに滑り込んだ。

後ろから抱え込むように菜々子を抱く。


「ナツ………」

「ん?」


起きてるのかな? 寝言かな?


「好きなの。一生懸命………」

「一生懸命はやめる約束だぞ。俺の前でいい子でいるなよ」


「いい子じゃないじゃん。ここまで運ばせて」

「そういう菜々子が嬉しいんだよ。俺は」

「へんなの………」


そこで菜々子の言葉は途切れ、規則正しい寝息が聞こえてきた。

菜々子の指が俺の肌の上を時々すべる。


そのしぐさは、まるで俺の腕のありかを確かめているようだ。

菜々子を抱く俺の手首までなぞると安心したように彼女の指は流れおちる。


俺は菜々子を起こさない程度に抱きしめ、そのぬくもりを包みこむ。


こうして酔った菜々子を抱きしめているだけのほうが、昼間、がむしゃらに彼女を抱いたときよりも、ずっとずっと満ち足りていた。


それでも、やっぱり俺は眠れない。


菜々子が俺の腕の中にいるというこの奇跡が消えるのが怖くて、たぶん…朝方近くまで彼女の髪の香りの中で息をひそめていた。







次の朝、起きると、菜々子はもういなかった。



サイドテーブルに置手紙が乗っている。


すぐ帰ります。起きたら、電話して。


菜々子



まだ七時……。

え? まだ俺に怒ってる?


そのとき、ドアチャイムがなった。


「なっ、菜々子?」


俺はとびつくようにしてドアを開けた。



「菜々子じゃなくて悪うござんした!」


菜々子の施設での弟だったという大地だった。


高校の制服らしいワイシャツとチェックのズボンという格好の大地は、勝手に入ってきて、ぜんぜん使っていないほうのベッドに腰掛けた。



「夕べはずいぶんお楽しみじゃん? わざわざツインなんかとることねーじゃん。こっちのベッド、使わないんなら」


「昨日の夜は菜々子が酔いつぶれてヤってねぇよ。てかお前、なんで俺らの部屋番号知ってんだよ?」


「プールサイドのテーブルの上に鍵、乗ってたろ? 部屋番号見ちゃったんだよ」


ったく……。



今どき、カードキーじゃないところまで、徹底してクラシックなんだよこのホテルは。


「なんだよ? なんか話か?」

「まあな。座れよ」


「俺らの部屋だよっ」

「俺んちのホテルだよ」


「俺んち、じゃなくて俺の親の、だろ。今はお客様のお部屋だよ」

「はいはい。お兄様」


気持ち悪い奴だな。

昨日はあんなに威嚇してきたのに。


「……俺、菜々子が初恋だったと思う」


おもむろに大地が語り出した。


「施設にさ、菜々子、赤ちゃんのときからいたんだよな。中学で養子縁組が決まるまで。そういうケースってめずらしくてさ。小学校の高学年くらいから、もう、菜々子、施設のスタッフみたくなっちゃっててさ。すげえ、園長先生にも保母さんにも、頼りにされてた。人手がなかったからさ。掃除、洗濯から買出し、赤ちゃんのおむつがえ、なんでもやってたよ。年末の大掃除は窓拭きとかもな」


「………」


「三つも上だったけど、俺、そんな菜々子のこと、たぶん、マジメにすんごい好きだった」


「………」


「だけど、菜々子はタカ兄が好きで、タカ兄はタカ兄で菜々子のこと妹としか思ってないように、見えた」



「ああ……そのへんは聞いた」


「俺、もうここに来てたから知らねーけど、一瞬つきあって、すぐタカ兄は菜々子の友達とつき合いはじめたんだろ?」


「ああ」


「だから、ここで菜々子にあったとき、女友達と来てんのかと思った。そしたら彼氏だって」

「そっか」


「でも、その人、すごーくかっこよくてモテるの、とか言うからよー、てっきりノロケてんのかと思った。そしたら、だからわたしはすぐ振られちゃうと思う。内緒ねって」


「………ばっか」


俺は唇を噛んだ。


「なんでそんな奴とつき合うんだよ、って聞いたら、とっても好きなんだって」


胸が……甘くて鋭利な刃物で刺されているような、菜々子と知り合ってから覚えさせられた独特の疼き方をする。


「俺、あんたのことすげーひでぇ奴だと思ってた。そんでずっと、あんたらのこと見てた。でも、違うよな? ベタぼれしてんの、あんたも同じだろ?」


「あんたあんた言うなよ。小僧。夏哉って名前があんだよ」


「夏哉……さん、ナツって菜々子が呼んでたよな。菜々子のこと、夏哉さんすごく大事に扱ってた。ほら滝のとこで菜々子の乗った浮き輪であいつの足が岩山んとこかすりそうになった時、夏哉さん、自分の身体で止めたじゃん。背中、切れたろ?」



「ああ、あれな。別にたいして切れてねーよ。でもあれ、あの岩なおしたほうがいいな。見た目ほどごつごつしてないけど、一箇所とがってる」


「親父に言っとく。でも今はその話はおいといて……とっさにああいう行動とれねーよな。どうでもいい女じゃ。菜々子が溺れた時なんて顔が蒼白だったもん」


「ありがとな。ホントありがとな、あん時」


大地はふっと窓のほうを見た。


「菜々子、いまごろ、流木拾ってんじゃん?」

「流木?」


「そう、うちの高校で流行ってんだよ。このへん、流木が多いからさ、自分のイニシャルの流木見つけたら、願い事を紙に書いて、流木と一緒に焼くの。願いがかなうんだってよ。そういう話って女、好きじゃん。俺、教えたんだ。最初にここで菜々子に会った時。朝、流れ着いてること、多いぞって」


「ああ、だから菜々子、昨日も……」


「俺がいうギリでもないと思うだろうけど、菜々子のこと大事にしてやってくれよ。まともに遊んだこともないような小学生時代送ってるんだよ」


「………」


「自分が親から捨てられたからなのか、すごい捨てられるのを怖がってる。だから昔っからいい子。園長先生にも保母さんにも好かれたくて、愛されたくて、きっと引き取られた先でも。タカ兄には捨てられてるし……あんた、じゃなくて夏哉さんにも、たぶん捨てられると思い込んでる。でも好きだから、その日をひきのばそうと一生懸命なんだよ」



「……ばか菜々子」

「だよな」


大地は立ち上がった。


「俺、もう高校行かなきゃ。お邪魔。菜々子のこと、ホントよろしくな。うんと甘やかして、愛されてるって自覚させてやってくれよ」


「……わかった」


大地は出て行った。



菜々子。菜々子。菜々子。

ばかな菜々子。


俺がお前のことを捨てられるわけがないだろう?

俺のほうがよっぽど怖いよ。

俺の気持ちが強すぎて、バランスを崩してお前に捨てられるのが。


俺の知っている菜々子はたぶん、まだほんの一部なんだ。


俺が何不自由なく野球やサッカーをして遊んでる頃、菜々子は掃除や洗濯をやっていたのか。


あの細い指でぞうきんをしぼって、窓拭き……。

もう涙が出そうだよ。ホントに。

幸せにしたい。


俺が、俺だけの手で、お前を世界一幸せにしたいよ。もう菜々子の泣き顔は金輪際見たくない。


俺は自分に誓わなくちゃならない。

どんな嫉妬もこらえてみせる。


絶対にもう、嫉妬からあんなふうに菜々子を乱暴に扱うなんてことはしない。



俺は菜々子に電話をせず、下のロビーに降りていった。

菜々子…。



ロビーの椅子のはじのほうで、昨日とは違う、膝丈よりちょっと短いノースリーブのひらひらした服に折り曲げて足首を出したジーンズという格好で、彼女は下を向いて、一心に何かやっている。


よく見ると、木切れをカッターナイフで削っているようだった。

俺はしばらくその姿を遠巻きに見ていた。


「菜々子」


菜々子は動きを止めて、顔を上げた。


「ナツ、おはよう。電話してくれればいいのに」

「探したかった」


「何言ってんのよ」

「何それ?」


「ん? なんかね、この辺の流木でイニシャルに似たのを見つけたら、紙に願い事を書いて、一緒に焼くんだって。そうすると願いがかなうらしい」


「見つけたのか?」

「うん。ほら」


そう言って菜々子は手のひらにのりそうな、Nのカタチの流木を俺に見せた。


「でもほら、ここ、でっぱっちゃって。これがなければ完璧Nなのに。だからそこのショップでカッターナイフ買って、けずってた」


「菜々子、ここ血が出てんじゃん」


俺は菜々子の左手を掴みあげた。

人差し指の先の皮がめくれ、ちょっと血がにじんでいる。


俺は、菜々子の人差し指を自分の唇で挟んで傷口の血を舌でなめとった。


「ちょっ。ナツ。何してんのよ! こんな人の多いとこで。やめてよ恥ずかしい!」


確かに人が多かった。朝飯時なんだよな。


「よく言うよ。昨日はお姫様だっこでバーから、部屋まで運ばせたくせに」


「昨日は酔ってたから仕方ないの! ほら、バンソコ貼るから大丈夫」


俺は、菜々子の手を離した。


菜々子のイニシャルN。お前はこれで何を願うつもりなんだ。


俺たちは、そのまま食事に行った。海がよく見える綺麗なレストランだった。


「はい。できたよ」


バイキングの食事のあと、菜々子は俺にそのNを差し出した。


「え? これって」


菜々子のNじゃないの?


「夏哉のイニシャル。N。プレゼントしたかったんだ。ナツの誕生日、もうすぎちゃったけど…。まだつき合ってなかったから、なんにもあげてないもんね。貰ってくれる?」


「お前のは?」


「ひとつしかみつからなかったよNなんて。Iならいっぱいあるのにね」


俺はその小さな茶色の物体を、壊れ物を扱うようにそっと菜々子から受け取った。

じっと見つめる。


俺にあんな抱かれ方をしたすぐあとに、お前は俺の為に海岸で流木を探してたのか。


俺が汚ない感情をお前に対してぶちまけて、自分のことでいっぱいいっぱいだった時に……。


お前は俺のために。

なんでそうなんだよ菜々子。

なんで人のためにばっか……。


唇をかみ締めて流木のNを見つめる。


捨てられると思っている男のために、なんで。

なんで。

なんで……。

外見だけじゃなくて、お前の心は綺麗すぎる。


つりあわねぇ。

俺なんか、ホントは手が届く女じゃないんだ菜々子は。


俺なんかでごめんな。

でも手放せない。


俺、どうしてもお前を手放せないよ。

お前をなくしたら、俺は自分がどうなってしまうのか、もうわからない。


俺がなんにも言葉を発さずにずっと黙って手のひらの上のNを見つめていたからか、菜々子はそっとささやいた。



「……ナツ? 嫌だった? そんなゴミみたいな――……」

「ゴミのわけねぇだろっ」


俺にこんなものをくれたら、お前は一生、俺に縛られることになるぞ。

いいのかよ。後悔しないのかよ。


俺の願いは……。

菜々子とずっと……。

ずっとずっとずっとずっと……。


「ありがと、菜々子」


「ねぇナツ―、もういいよー。わたし、どっか遊びに行きたいよぉ。この隠れ家的海風カフェっての、行きたい」


菜々子は後ろの砂浜で、体育すわりをして、このへんのガイドブックを見ながら叫んだ。


人のいない窪んだ岩の間、流木がたまる場所で、俺は、短パンを限界までめくり上げて、膝まで海水につかっていた。


もうホテルのチェックアウトは済ませた。


「うるせぇよ。なんで俺だけ願い事かなうNもらって、菜々子のがねぇんだよ」


みつかんねぇ。


確かに、IとかLあたりならどうにかあるけど、Nってないだろう。

これがBとかAとかOとかじゃ、もう壊滅的だ。


誰だよこんな馬鹿なことを考えたのは。

不公平すぎるって。


「ねぇ。ナツってばぁー」

「わーかった!!」


俺はそのへんの木切れを適当に集めると、それを持って、菜々子のところにもどって足をタオルで拭いた。


「どれどれ、どこのカフェだって?」


岬の灯台へ行って、昼は海から道路一本隔てたところにある海風カフェで、メシを食った。(どこが隠れ家なんだよっ)


観光じゃない牧場に二人でそっとしのびこむ。

柵の中で牛がゆうゆうと草を食むそばで、俺は菜々子に聞いた。


「抱きしめたくなった。いいか?」

「はぁー?」

「そのあと、キスしたいけどいいか?」


「もう、ナツ。ふざけてんの? いっつも勝手に抱きついてくるじゃない。キスだって……」


「だって、菜々子だって嫌な時もあるだろ? お前、そういうの言わないから、聞くことにした」


「……嫌なときなんてない……」

「嘘? マジメに?」


「そーぉ!! だからそんなムードのないことしないで。いちいち聞いてたら、ムードぶち壊しだよ」

「そっか」


女はいくらでも知ってるけど、マジに惚れた女とつき合い始めてまだ日が浅い。


俺は19にしてマジ恋彼女つきあい歴2週間。


わかんないことだらけだけど、せいいっぱい大事にしよう。


大地が言ったように、うんとうんと甘やかして、愛されていると、菜々子にわかってもらおう。


かわいい、綺麗だ、思ったら恥ずかしいけど口に出そう。それで菜々子が喜ぶならそんなに本望な事はない。


絶対に菜々子につりあう男になってみせる。



ほかにも、おたがい気に入った風景の場所で車をとめてじゃれあう。

菜々子の笑う顔が好きだ。


怒った顔も、すねた顔も、泣き顔も、みんな好きだと思っていたけど、やっぱり笑顔が一番好きだよ菜々子。


俺の隣で、いつまでも笑っていてほしい。



離れがたくてあちこちより道をした末、夜遅くに、俺は菜々子の家まで送って行った。


「今度、いつ俺んちこれる? 連絡待ってるから。俺もプレゼントあるぞ」


「んー。明日はさすがに無理かなー。しあさってくらいにはなるべく!」

「了解」


俺は家に帰り、途中のコンビニで買った木工用ボンドで、拾ってきた木切れをNのカタチに張り合わせた。


今度菜々子が来たときに、二人で願い事をしてこれを燃やそう。


俺は、レポート用紙を一枚ちぎり、『ずっと菜々子といられますように』と書いた。


「ちがうな。こりゃ、俺の努力の問題か」


俺はその紙を丸めてゴミ箱に入れ、もう一枚レポート用紙をちぎった。





そして書いた。




『菜々子がずっと幸せでありますように』






・。。・。゜・☆。・゜。・・。。・。゜・☆。・゜。・

。・゜☆・゜・ 。 ・゜・☆。・゜。・。。・ 



第2章 季節おくれのナツ盛り



end.
























































































































































































































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