citrus age 番外編 1ミリの向こう側

菜の夏

第1章  ノーサイドの春風


俺の家の庭は基本的にイングリッシュガーデン風なんだそうだ。(母ちゃん談)


なのに、なぜか庭の一角に菜の花の群れがある。


素人目にも、あれだけ場違いだって感じがする。


母ちゃんに聞いたら、昔はこのあたりも畑ばっかりで、どこかから種が飛んできたんじゃないかと言っていた。


「引っこ抜くのもかわいそうだし、毎年、春には綺麗な花をさかせるの。多くなってきたから、摘み取って辛子和えなんかにしてるのよ」


名前もわからない花ばっかりの庭で、俺が知っているのはバラと菜の花だけだ。


庭で菜の花が咲くと、ああ、春なんだな、と思う。


桜なんかより、俺にとってはよっぽど新しい季節を告げる花だった。


俺が玄関を出ようとすると、母ちゃんの声が追ってきた。


「夏哉、待って待って、写真とろう」

「いいよ。メンドくせぇ」


「何言ってんのよ!! 今日でその制服着るの最後でしょ?」

「最後だけど、別にいいよ。そんなの」


「ダメよぉ。ちょっとそこに立って。ヒカリもね」


俺は仕方なく母ちゃんに言われたとおりの場所に立った。

ヒカリはとなりにくる。


母ちゃんはすでに正装をしている。


「なあ、今日の卒業式、ぜってー俺の側にくんなよ?」


「あらどうして? 一緒にたくさん写真とりましょうよ」


「俺は俺で、友達との別れがあんの! 違うキャンパスんなったやつもいるし、違う大学んなったやつもいんだよ」


「…でも、夏哉」


「健司の母ちゃんとかと一緒にいんだろどうせ。親父が仕事でマジよかった」


仕事じゃなかったら絶対夫婦で来るっていうに決まっている。


いねーよ。

18にもなる息子の卒業式に夫婦で来てるとこなんか。


まだ俺の高校最後がどうのこうの、言っている母ちゃんを残してヒカリと家を出た。


「うぜぇ…」


俺の呟きにヒカリが答える。


「母親なんてあんなもんじゃん?」

「うちはちょい特別だと思わねぇ?」

「かもな」


卒業式に特に感慨もわかないのは、ラグビー仲間のほとんどが同じ大学へ行くからか。


付属高校の悲しさだな。


だけど俺は、まだ自分がなにかから卒業していない気がする。

何かが終わっていない気がする。

その何かが何なのかはわからない。


スポーツ。仲間。家族。……女。


俺はこのまま、いままでと全く同じ色の世界で何不自由なく暮らしていくのか? 


いいことじゃんか。

別に波乱万丈を望んでるわけじゃない。


でも。


俺の心に1㎜の隙間が開いている。


あれだけ夢中になってうちこんだラグビーのラストシーズンが終わり、部を引退したからなんだと思っていた。


それではじめたのがボクシングだ。


でも、違う。

ほんのささいな何かが違った。



誰も聞いていない祝辞やPTAの代表の話が終わり、校歌を歌い、ようやく俺たちはラグビー部の部室に集まる。


制服とバイバイすることより、こことバイバイすることのほうがよっぽど寂しくて、胸に迫る思いがある。


本当に涙がこみ上げてくる。

みんな思いは同じなんだろう。

無駄に浮かれるしかなかった。


顧問で俺たちの親父のようだった吉次先生、キッチョンともう頻繁に会えなくなるかと思うと、泣かないためには無駄にさわぐ以外に方法がなかった。


キツイ練習中は、首しめたろか一回!! とか思ってたくせによ。


熱い教師だった。


俺たちが、花園の全国大会で一回戦負けした後、腰にフォルガのタトゥーを入れたのを知って、「仲間はずれにすんな!」とかマジで怒って、自分もあとから入れに行ったバカ教師だ。


ハイテンションのまま、俺たち、ラグビー部3年の12人は校門を出た。


「もし」 


は?  

誰か何か言ったか?


「もし…そちらの高校生のお方」


なんかすごい背のちっちぇーじいさんが、いつのまにか俺の腕にそっと触っている。


「なんだナツ。その人知り合い?」


隣にいたナベが不振そうに俺と、そのあやしいじいさんを覗き込む。


先を歩いてた奴らも、後ろを歩いてた奴らもみんな集まってきて、俺とじいさんを囲い込む。


「わしは辻の易者じゃ。あんた方は今日、高校を卒業なさった。おめでとう」


そんなの、この緑の筒が、卒業証書だってことで簡単に当てられるだろう。


その辻の易者とやらは俺の腕にそっと触ったままだ。


うざいけど、こんなに痩せて小さいじいさんを振り払うのはどうかと思う。

だからそのまま触らせておいた。


「強い相が出ておる」



ああん?


「死相じゃねぇの? 超やべー!」


ヤスがぎゃははーと笑う。

他の奴らも大笑いする。うるせーよ。


「死相ではなーーい!!!!!」


小さいじいさんが、その身体からは想像もできないでかい声を出して、俺らを一喝した。


がらにもなく、みんな、しーんと静まり返る。


「あんたは今日、一人の女性と運命的な出会いをする」


は? 俺、今、一応彼女が……いるんだけど。


「失礼」



俺らがぼーっとしている間に、さっきまでの存在感をふっと消して、静かにじいさんは立ち去った。


「なんだあれ?」


最初に口を開いたのは健司だった。


「さあ?」


俺もぼーっと答える。


「お前、また女と別れたのかよ?」


ナベが言う。


「いや、まだ……別れてはいねぇ」


他校の女子高生の亜美が俺とつきあってくれと言ってきたのは2ヶ月前。


合コンで知り合って連絡先を交換してすぐだった。


顔もスタイルも俺好みだったし、なによりめちゃ軽そうな感じが俺的にはちょうどよかった。


俺らはそれなりに仲良くやっていたと思う。


だけど、最近、亜美は友達の悪口が多い。

てかほとんど話がそれだ。


そういうのはよくない、と咎めると、なんにもわかってないくせに、と反論する。


一緒につるんでいるツレの悪口が頻繁って、どう譲っても理解ができない。


いままでの女でもそういう奴はけっこういた。

俺はそういうのが苦手だ。


亜美とも潮時なのかな……とは感じている。


「まあいいじゃん。あとで、どんな女と知り合ったのか、報告してもらおうじゃんか」


健司が言う。


俺らはなんとなく腑に落ちないまま、それでも、駅までの道のりの間に、だんだんそのじいさんのことは忘れていった。

当人の俺も…。


高校の最寄駅から12人で電車に乗り込む。


名ロックで全国的に名高かった市川だけが、俺らの大学には進学せず、ラグビー推薦で他の大学に行った。


奴はずっとこの先もラグビーを続け、それを俺たちは応援していくんだろう。


市川は十八にして、もう自分の進む未来をはっきりと決めている。


卒業祝いと市川の送別会と名をうって、明日、俺らは夕方渋谷で待ち合わせをしている。


市川の他にも理系に進んだ奴が三人いて、そいつらは違うキャンパスになった。


ずいぶんな長い間、部室にいたのか、車内には夕陽が差し込んで、薄い赤にそまっていた。


電車の中でも俺らは浮かれまくっていた。

はしゃいでいないと、なんだかしんみりしそうで、それが怖くもあったのかもしれない。


大きな乗換え駅で、俺を除いた11人は降りていった。


わいわい奴らが降りていくと、かわりに何人かが乗ってきた。


まだ若いやつらが空いているわずかな席を奪い合う。


一番最後に乗ってきた、これまたさっきのじいさんと対になるくらい小さいばあさんが、俺のとなりに立った。


座り損ねたんだ。

電車の発車に合わせて、ばあさんの小さな身体が大きく傾く。


俺は、反射的に席を立っていた。


「ここ、すわんなよ。おばあちゃん」

「おや」


落ち着いた顔でさも驚いたふうな言葉をはくばあさん。


「ありがと」


ゆっくりと答えてゆっくりと腰をかける。

見ると、ばあさんの靴紐が解けかけている。


「おばあちゃん、靴紐、ほどけてるよ?」


「ああ、結ぶのがしんどくてね。解けたことなんかなかったんだけど……。家に帰ってからゆっくりやるよ」


「俺、やってやるよ」



俺はばあさんの前にしゃがみこんで、靴紐を結びはじめた。


「ありがと。あんた、あたしの孫より優しいねぇ」

「孫、いくつ?」


俺はもう一方の靴紐も解けないように、きつく縛りなおしながら聞いた。


「14……いや15かな? 中学3年だよ」

「そりゃ反抗期だな。そのうち優しくなんじゃね? 俺もそんくらいの頃はめちゃとがってた」


「へぇ。あんたがねぇ」


立ち上がると、ばあさんの顔には満面の笑みが浮かんでいた。


なんだか胸の中にあったかい湯でもそそがれたような気がした。


こんな顔をしてもらえるのなら、無性に、もっと誰かに優しくしてやりたくなった。


俺の中にこういうのどかな感情がわいたのはいつ以来だろう。


いつもなにかに急かされるように日々をすごしてきた。


誰かの喜ぶ顔を落ち着いて見るのも悪くないもんだな、と思った。


二駅くらいで降りてしまったばあさんの代わりに再び腰をおろした俺は、後ろを振り向きガラス越しに手を振りながら、奇妙に満たされた気分だった。


窓から見える新緑が綺麗だった。


夕陽に照らされた若葉の間からダイアモンド型に光が漏れている。


なぜだろう。

この車内が、いままで俺がいた空間とわずかに違う気がする。

新しい世界の風を感じる。


試合終了。

ノーサイドのホイッスルが今、ようやく鳴ったような気がする。


俺の心に空いた1㎜の隙間から、かすかな春風が吹いてくるような。


俺はいつか、この1㎜の隙間の向こう側の世界へ行きたくなるような気がする。


いままでとは違う何かが待っている春の野。菜の花の咲き誇る春の野へ。

なぜか、ふわふわと気分がよかった。


俺の座っている角の席のすぐとなりのドアが開き、何人かが降りていった。


中年のサラリーマン。

子供つれたおばちゃん。


ラケットバッグをしょった華奢きゃしゃな体つきの髪の長い若い女の後ろ姿が、残像のように強く俺の脳裏に映る中……俺は静かに目を閉じた。


「ナツ。どうだったよ? 昨日。運命的な出会いあったのか?」


市川の送別会の時、ナベに話フラれて思いだした!


そうじゃん。

俺、昨日、運命の女に出会うはずだったんだよな?


女? 女になんて出会ってねえよ。

げ。そういえば。


「会ったのかよ?」


健司も興味深々で覗き込んでくる。


「……しいて言えば……ばあちゃん」


別に辻の易者のじいさんの話を信じたわけじゃない。

でも俺は軽い絶望感でクラっときた。


だってそれ以外、女になんて出会っていない。


「はぁー?」


まわりのみんなも面白そうな話だと身を乗り出してきた。


「ばあちゃんにあの後、席譲って感謝された」


ぎゃははーとみんなが笑う。


「ナツ、年上だって充分範疇じゃん」

「上すぎるだろ? 60くらい上だぞ? 勘弁してくれよ」


あれが俺の運命の女? 

げー、てか俺とたいして歳の違わない孫がいるんだぞ。


マジで勘弁してくれよ……。


◇ ◇ ◇


俺の心にあいた1㎜の隙間。

その向こう側には、どんな世界が待っているんだろう。


今は想像でしかないその向こう側。

隙間が1㎜から2㎜になり、3㎜になり…。


吹き込む春風に乗って感じる柔らかい春の気配に、俺はきっと、どうしても向こう側へ行きたくなる。


俺は大きくなった隙間を、きっと自分の手でこじ開ける。


俺の脳裏に春風の吹き渡る、一面の菜の花畑が浮かび上がる。





no sideの春風 Fin.
































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