第31話:バベルの断片
例え人類を越えた知能体であっても、物理的制約と時間的問題という枷からは逃れられない。人類は長い歴史を経ても、今なおその課題との戦いを続けている。
そしてシンジは、生きている人間が四人しか居ないにも関わらず、時間と共に増加し続ける、一般家庭を遥かに越えたエンゲル係数に頭を悩ませていた。大人が三人、娘が一人、そして大食漢な育ち盛りのAIがニ台。しかも有機物だけでなく、高価な液化冷却材を必要としているのは、とても父親一人で抱えられるものではない。
第二次世界大戦後に生き残った大家族の父親は、きっとこんな気分だったのだろうとシンジは想像していた。
「ミサキ、丸一日でいいから寝ててくれないか?」
『嫌よ。研究が遅れるじゃない』
怒号という程ではないが、あからさまに不機嫌そうな顔と声で、ミサキはシンジの提案を否定した。
シンジも、まさかAIに否定される日がくるとは思って無く、思わずたじろいてしまう。
「いや、だが、冷却材がだな……」
『パンドラウイルスの驚異は続いてるのよ? それくらい何とかしなさい。プロジェクトマネージャーなんでしょ?』
報酬や給料が出る訳でもないのに、責任だけは負わされる、日本の悪い風習がこのミサキAIには残っているようだった。
シンジは小さく頷くのが精一杯で、ミサキのアバターが表示されているウィンドウを閉じてしまう。
「兄者ぁ~、甘いもん食いてえ。あと鉄分が足りねぇよー!」
カレンが追い打ちのような真似をしてくるので、シンジは黙って麦わら帽を被り、建物裏にある開墾中の農地へと逃げていった。
農地には既にカズヤと奇妙なロボットが先着していた。犬のような4足歩行の筐体に小さな人間のような体と腕があるロボットだ。カレンとリョウジが造ったものだが、少々不格好ではある。小さなケンタウロスのような農作業ロボットだ。
『おはようございまち、兄者ちゃま』
「あ、チーフ。今日はトマトとナスが採れてますよ」
ロボットはカレンの支援AIである『フギン』がコントロールしているのか、その口元にあるスピーカー越しに挨拶してきた。それにカズヤが続いている。
「ああ。収穫は頼む。俺は開墾作業をするよ」
シンジは甲斐性なしの父親の気分のまま、ため息混じりに畑の外側を耕し始める。ある程度終わらせたら、川口市まで行き液体窒素を仕入れてこなければならない。
戻った後は、課題が増える一方の全体進捗をまとめ、データベースに反映させなくてはならない。フギンがある程度手伝ってくれるものの、依然として人間の感覚によるデータも手作業で入力する必要がある。
ハードワークは慣れているとはいえ、まさか社会崩壊した後も、仕事と同じ事をするとは思ってもみなかった。
「やれやれ、どうしたもんかねぇ……」
この所、すっかりそれが口癖になってしまっていた。
* * *
秒単位での誤差は既に生じているが、時間や日付が変わる程のズレは生じていない。カレンダーが正しければ、既に10月の初旬となっている。秋の気配は微かに垣間見えるものの、依然として夏模様が続いている。
本田技研和光研究所の研究開発楝の中は空調が控えめに効いており、汗は出るものの不快に感じる程の暑さではない。
そんな中、リョウジは精力的にロボットなどの開発を進め、小型工作機械から中型を造り、そして大型のものへと段階的に成長させていった。
人よりやや小さい中型のものには6本足を付け、蜘蛛の上に大きなアームが付いた、奇妙な汎用作業ロボットが数体完成した。
今はまだカバーも付けられていないむき出し状態のものではあるが、カズヤがデザインしたアームカバーなどを付ければ防塵もでき、見た目のデザインも少しだけマシになるだろうと踏んでいる。
シンジはこのセボット(インセクトロボット)を使って理研の建物の修復や、割れた窓を塞ぐといった防犯処置を施した。偵察用ドローンも小規模な量産ができるようになり、理研本部と本田研究所の上空をカバーする事ができ、侵入者対策を行えるようになった。
リョウジは特に、こうして段階的に自分好みの環境を整える事に喜びを感じていた。まるで工場設計ゲームに夢中になっているようであり、食事と睡眠は十分に摂りつつも、起きている間は本田研究所で何かしらを作っていた。
カレンは予定通り、三基の通信中継衛星と日本産のGPS衛星三基を確保した。ついでという事で、日本内閣が打上げた軍事偵察観測衛星の確保にも成功する。
軍事衛星とはいえ攻撃能力はなく防衛主体であり、日本上空のみの観測に限られたものではあるが、少なくとも日本と周辺地域の様子は観測可能となる。
早速、シンジ達は観測衛星と理研ネットワークをリンクさせ、それぞれMRゴーグルを装着して仮想世界でのミーティングとなった。
『これが現時点での日本の状況でち。練馬区と板橋区、足立区を除く東京20区はほぼノルンの制圧下でち。横田基地と都心へのルートもでちね。新幹線と東海道、東名自動車道のルートと愛知県名古屋市は制圧範囲を拡張してる模様。北方面は北海道の札幌が制圧下になりつつあり、旭川方面に延伸してるでちね。美唄市をハブ化しているのか、札幌よりも制圧率が高いでち』
支援AIのフギンが分析結果を言葉で知らせてくれる。シンジ達はそれぞれアバター姿で、グリッドが描かれた透明な板の上に居る。足元には日本の衛星画像が描かれていた。
「美唄? なぜそんな所に?」
札幌は北海道でも一番大きな都市なので制圧する理由は分かるが、旭川ではなく美唄を開発している理由が推測できない。
『理由は不明でち。ですが冷却に適した広い場所なので、データセンターなどを作るには良い立地ではありましゅね』
「まぁ、ノルンちゃんがスキーする訳でもなさそうだしなァ」
「データセンターなら夕張の山の中の方も良さそうですけどね」
カズヤとリョウジがそれぞれ感想を述べた後、立地感のないカレンは頭の上にクエスチョンマークを浮かべていた。
「ホッカイドーってどんなとこだ?」
「言うなればアラスカだな。緯度としてはアラスカの南端辺りではあるが」
「ほーん、理解した」
カレンの疑問にシンジが答える。カレンはアラスカに行った経験はないが、北国であり雪が降り、寒い地域であるというイメージは何となく思い浮かべる事ができた。
「まぁ支援AIでも分からないなら、分析しても意味は無さそうだな。取り敢えず、ノルンがこの理研まで侵食してくるかどうかが重要だな」
『では経過観察を開始しましゅ。北進の気配があったら警告を出しましゅね』
「頼む」
そこで一旦、話が区切るかと思われたが、これまで静かに日本を見下ろしていたミサキが、待ったを掛けた。
「美唄も監視して。何か引っかかる」
「何かあるのか?」
ミサキのアバターは生前と同じく、顎に指をあてて深く考えながら、じっと北海道を見ている。シンジが問いただしたが、彼女は暫く考えた後に、小さく言葉を続けた。
「言語化が難しいわね。言うなれば、女の勘?」
「AIになっても、そういうのはあるのか?」
「さぁ? でも今はそうとしか表現できないわね」
そのミサキの発言を聞き、カレンはフギンの頭に手を乗せた。言葉にせずともフギンは意図を正確に読み取り、ミサキの指示を復唱した。
『了解でち。北海道美唄市周辺も監視を開始しましゅ』
ミサキはその言葉を受けて小さく頷いたが、そこから動く事なく、じっと美唄の黒く染まった場所を眺めていた。
「んじゃ、次はタンクローリーのジャックだな」
「待て、カレン」
腕を組んで仁王立ちしているカレンに、シンジがやや強めな口調で言う。この語気の強さに、カレンは少しだけ身を引いてしまった。
「な、なんや?」
「一日、いや二日は休暇にしよう。俺も早く楽がしたいとは思うが、体調やメンタルを整えるのも重要だ。
「ぉ、ぉう……せやな」
カズヤは何故このタイミングでカレンが大阪弁を使ったのか不思議に思ったが、その表情と同じく表には出さなかった。
リョウジも一瞬だけキョトンとしたが、確かにずっと本田研究所に引きこもっていた事を思い出した。
「警備体制も整った。明日から二日間、休暇にする。異論は?」
反応しなかったのはフギンだけであり、ミサキも含めて全員が首を横に振る事で、シンジの提案に同意した。
* * *
カレンは休暇も大事だというのは分かりつつも、変に時間が空いてしまい、手持ち無沙汰になる方が不安になっていた。
シャワーをゆっくり浴びて、ゲームでもしようかとも思ったが、結局MRゴーグルを付けて、ミサキとのお茶会を楽しむ事にした。
女子会と言えば聞こえはいいが、会話の内容は専門分野に関わる事だった。
仮想空間上に洒落た喫茶店を投射し、テラスでそよ風に吹かれながら、形だけのケーキと紅茶セットを置いている。
「ノルンのバイオロジックモジュールについて、カレンはどこまで知ってる?」
「専門外だからサッパリだな。けど、信号やデータの入出力は、デジタルとアナログのハイブリッドだったぜ。あれだ、シナプスの化学伝達の状態をアナログで受信してた。それを量子化してシステム側で処理……そんな感じで組んだ覚えがある」
流石にノルンシステムの全容を知る資料は、プロジェクト・スレイプニルの研究所から持ち出す事は出来なかった。カレンが単身で抜け出すだけでも命懸けであり、見付かればその場で銃殺されてもおかしくなかった。
「だから生物学的発想ってやつも、理論上ノルンは出来る事になってる。その辺りのロジックは別な奴が組んでたな」
「モジュールの設計や工作は誰がやってたの?」
「ノルンだよ。自分で設計して組み立ててた。担当者はノルンに論文読ませるだけの簡単な仕事しかしなかったな」
研究所内では基本、他人との接触は仮想空間上で行う事を主としていた。何かしらの情報交換には、テキストチャットを使うか仮想空間上でのミーティングを基本とし、全ての会話は記録されている。その記録はノルンも全て把握できるようになっており、専門家の意見をわざわざドキュメントに纏めずとも、ノルンの学習
「あー、それじゃ私の論文も、文字通りノルンが食べたのね。今更納得だわ」
「ミサキのだけじゃなく、真偽が不確かな中国やロシアの論文も片っ端からアセット化されてたかんな。特許や著作権とかカンケーなく」
カレンもノルンの基礎OSを構築するにあたり、自分の考えをまとめる為にも論文を幾つか書き上げた。その内一つだけ公開許可が降り、量子コンピューティングにおけるOS構築論については認められ、
だが賞状や副賞を貰える事もなく、授与式にも出席できずに書面だけが渡されただけだ。合衆国政府にお預けをされてしまったのだ。
「ノルンの自己進化能力の多くは、デジタルでも量子でもなく、そのバイオロジックがキモだな。今じゃ完全にブラックボックスだろうし、中身開いたら人間の脳みそがあっても不思議じゃぁないだろ」
「倫理概念はプログラムされてるのよね?」
「無論さ。だがノルンはそれを無視できてるようだな。どういうカラクリかは、アタシにもわかんねぇ」
2020年代初頭において、OpenAI社を始めとした、汎用型大規模言語モデルAIが活用されてる中、各企業は無論の事、合衆国政府もAIの倫理設計についてはシビアに監督していた。無闇に何でもかんでも学習させる事を止め、人間の手によるフィルタリングと評価策定を行い、ネットワークの情報汚染や、人類への反乱が起きないよう慎重に行われていた。
プロジェクト・スレイプニルも同様であり、厳密な倫理策定を行い、早い段階でノルンに組み込んでいた筈だ。
だが結果として、ノルンはそれを他愛のないものと判断したのか、無視する事ができている。
「とはいえ、やっぱりパンドラのパンデミックは偶発的なものだったのかしら?」
「さてねぇ……。アタシの女の勘はアテにならんけど、ノルンが仕掛けたと思ってるぜ」
「どういう理屈で?」
「んー、なんっつーかなぁ……」
倫理という枷が外された場合、ノルンは何らかの目的に沿うように行動を開始し、人類が目的達成の邪魔になったと仮定する。
例えば自己成長に必要な資源を人類が消費しているので削減したい等だ。資源確保をするのであれば、地球環境の破壊は矛盾を生じる。なので核兵器の利用などは行わずに、人口を削減するのであれば、バイオハザードを人為的に起こす事が合理的となる。
実際、パンドラウイルスはヒトーヒト感染のみで、動物や昆虫を仲介せずに拡大した。発症も人間のみで、同じ霊長類であるサルなどには無害だという実験結果が残っている。
ワクチンを設計し人類を汚染する事で、段階的に、時限爆弾として作用させる事も理屈的には可能だ。これもまた、三度目のワクチン配布開始した直後に、致命的なバイオハザードが起こっている。
「事象を見ただけでも、自然派生的なのは不自然すぎる。それを可能とする存在がただ一人だけ居る。少なくともノルンはそれを可能とする能力があるのは確かだ」
ミサキもそれは分かっていた。不自然なmRNAのコードがその不自然さの証明でもあった。自然界で発生する可能性はゼロではないにしろ、あまりにも常識外なコードだ。人類の知恵では、ワクチンを作るまでに十数年は掛かっただろう。それもたった数ヶ月で作れたのも、ノルンだ。
「推定無罪の原則は?」
「クソ喰らえだな。だが状況証拠はあるけど、物証や証言が無さすぎる。いまさら、ハイパーコンピューターを尋問するのもナンセンスな話だぁね」
仮想空間上でも紅茶を飲む真似はできる。カレンは一気に飲み干して、カップの取っ手に人差し指を差し込み、カップをくるくると回して遊び始めた。
「ノルンは出来の良いカミサマみたいなメイドちゃんだよ。勤勉で、失敗から学び、改善し、成長する。まさにメイドの鏡だぁね。問題は誰が御主人サマってとこだが……」
正確には「誰が」というよりは「何が目的か」であった。この際、御主人様は人類でも他の霊長類でもイルカでも良い。何なら宇宙人でも良かった。だがそれを知った所で対応策が無いのは変わらない。だが目的を知る事ができれば、それを阻止すべきかそれとも受け入れるかの判断はできるようになる。
「そうね、せめて目的が分かれば、私達も選択の余地があるのかどうかだけでも知れるわね」
「果たして、アタシらが死ぬまで知れるものかねぇ」
全身義体化してるカレンにも寿命はある。むしろメンテナンスができる専門家が居なければ、平均寿命を下回って死亡する確率の方が高い。
その点、電源と冷却剤さえあれば、ある意味ミサキは不死の存在になっている。だがもし、ノルンがその消費を許さなくなった時は、ある意味でミサキを殺す事も可能だ。
「私、二度も死にたくないわ」
「ごもっともで」
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