第25話:旅路の準備
既に入手不可能どころか貴重品となったエナジードリンクの存在を、これほど欲した事は過去一度も無かった。ミサキは熱に
「うー、サプリだけでも残しておけば……」
パンドラウイルスは死亡率が高いとはいえ、エボラ出血熱のように急激に悪化し、死に至る訳ではない。ミサキは死を覚悟しつつも、それに抗おうとはしていた。
保存食の栄養価では、この風邪にも似た症状を和らげるには力不足ではあったが、食料を求めて彷徨い、無駄に体力を消耗するよりは恵まれてはいる。
「──っしょっと。んじゃ、また始めますか」
体を解し、やや頭がフラついてはいるが、意識ははっきりしている。混濁する前にできるだけスキャンを完了させておきたかった。
「スキャン進捗報告、状態表示」
ミサキはゴーグルタイプのVRヘッドギアを装着し、BMIへと接続、脳波操作でCNSスキャナーを操作している。
『スキャン状況、現在全脳の65%スキャン完了。分析状況は23.7%進捗中。AI学習状況は8.5%、です』
ヘッドギアの小型スピーカーから、やや冷たく感じる合成男性声で進捗報告が流れてくる。同時に、仮想空間上にもグラフが表示され、脳全体の簡略図とスキャン済みのエリアが半透明で浮かび上がった。
「スキャン再開」
その言葉には短い注意音での返答があり、CSNスキャナー全体が低く唸りをあげる。ミサキは目を瞑り、浅い瞑想状態に入る。睡眠しても良いのだが、できるだけこれまで学んできた事や、自分の専門分野のことを頭の中で反復する事で、その思考パターンがAIへ反映されやすいようにした。
──神経細胞ネットワークにおける、イオンではなく神経伝達物質による伝達を使用する事により、生物的思考の元となる──
どうしても癖で、論文調で言葉を思い浮かべるが、できるだけ視覚的にも分かりやすいイメージを思い浮かべながら、ミサキ自身の復習を続けた。
* * *
こうして、ミサキが自主隔離をしてから一週間が経過した。日に一度はミサキからのチャット連絡が届いていたが、それも必要最低限であり、シンジ達にも大きな変化は無かったので短いチャットで終了していた。
リョウジとカズヤは自分達でそれぞれ出来る事をやっていたが、シンジだけは特にやれる事は無かった。時折思い出したように巡回警備したり、リョウジのモニターを覗いたりと、幾分手持ち無沙汰ではあった。
この日は曇天で太陽の暑さも和らいでいる。理研の敷地内は小さな公園などもあり、職員や出入りしている研究員などに配慮されていたのか、緑地面積も多めにある。今はそれが仇となり、伸びのびと育った木々や草花が、この世の楽園を謳歌している。それに集う昆虫なども多く、車に轢かれる心配もない芋虫や
建物内では防音が効いているので室内まで煩くなる事はないが、昼間に出歩くのは、昆虫に慣れている者でも少し勇気が必要だった。
この一週間の巡回で、自分達以外の姿を見かけなかった事もあり、シンジは一人で過ごす事が増えた。今は屋上に出て、残り少ない煙草をじっくりと味わっている。
雲の流れがあるように、地上でもそよ風程度の流れがあり、シンジの吐き出した煙は複雑な模様を描きながら虚空に消えていく。
特にここ数日間、どうにもシンジは飲み込めない思いを抱いていた。それが何であるのかはシンジ自身にも分かっていない。何故だか妙な引っかかりだけを感覚的に持っていた。
昨日もミサキからのチャットはあった。BMI経由での会話のせいで、声の調子から体調を窺い知る事は出来ないが、少しだけ話すペースが遅いと感じた以外は、特に違和感を覚えなかった。
──食事の質は日本に来てから上がっている。体力も訓練によって改善されている筈。パンドラの死亡率は確か10%以下だった筈だ。そう簡単には……。
何度も同じ言葉を思い浮かべては、また時間の隙間があるときに自問自答を繰り返している。仕事であれば、何かしらの運動をしてからきっぱり忘れる習慣を付けていたが、今はそうした運動もする気が起きない。
そうして、実質的にはだらだらと過ごしてしまったシンジの杞憂は、さらに一週間後のミサキからのチャットが無かった事で、一層不安を膨らましてしまった。
* * *
カレンにしてみれば、これは大いに誤算だった。乗っていた輸送トラックに追い出されてしまったのである。厳密には降りざる得なかった。
乗っていたトラックが何かのバージョンアップ指令を受けたのか、一旦動きを止めて、自身の制御プログラムと優先順位リストを変更した。それだけなら良かったが、同時に通信プロトコルも変更され、カレンのクラックツールが対応できなくなった。
これまでカレンの思う様に動かしていたが、クラックツールの警告音で再ハッキングが出来ず、トラックが動き出す前に降りたのだ。
「マジぃな……ノートとタブレットじゃパワー不足で解析できねぇ」
何度か攻略パターンを変えてみたものの、あえなく弾き飛ばされてしまう。支援AIが稼働できれば何とかなりそうな手応えがあったが、支援AIもパワータイプのPCが少なくとも2台は必要とする。
「仕方ねぇ、歩くか」
タブレットで現在位置を表示させようとしたが、GPS信号の受信も安定していない。どうやら多摩川を越えて西東京方面に向かう道路上のようだが、カレンには東京の土地勘は無い。輸送車がハッキング出来ないとなると、この頼りない地図を頼りにしながら、歩きつつ、自分の身を守らないとならない。
「面倒だなァ……」
米国で奪っている米軍装備であるサブマシンガン、B&T APC9をバックパックから取り外し、安全装置を解除しはじめる。アサルトライフルに比べて小さく、小柄なカレンでも取り回ししやすい、個人防衛に向いた銃だ。
銃社会でない日本とはいえ、社会崩壊後に銃を持った野盗が居ないとは言い切れない。運が悪ければ従軍経験のある日本人に襲われる事もある。
襲ってこない人間を積極的に殺害するほどではないが、これまでも幾多の人の命を奪ってきた。抵抗しなければ殺されているのは自分であり、それだけは断固拒否している。容赦なく、そして躊躇い無しでトリガーを引く覚悟は出来ていた。
カレンは日本のサブカルを好きではいたが、流石に日本語の漢字表記を網羅している訳ではない。道路標識をタブレットのカメラで撮影し、自動翻訳を掛けながら、おおよその方向、つまりは北を目指して歩いていく。
「アキハバラ、一度は行ってみたかったが、この様子じゃノルンに食われてるだろなぁ」
右手側には、遠くに漆黒の巨大な壁が連なっている様子が、遠目からでも確認できる。それはサンノゼの周辺にあった城壁と同様のものだ。近づいても殺される事はないが、侵入をしようとすれば排除される。例え戦車で突っ込んでも、突破できない堅牢さはある。
「横田の爆撃機編隊を数往復くらいさせないと、突破できなさそうだな」
密航してきた輸送機の窓からも、東京を一周する巨大な長城は見る事ができた。手持ちのサブマシンガンどころか、素手状態の日本人があの壁を突破している所など想像できない。
恐らく物理的に排除された後、資源か資材としてノルンに効率的に活用されている事だろう。東京都心部では、死体すら再利用されていてもおかしくない。
カレンも「ノルンの手足」によって、まだ息がある人間を運搬している姿を見た事がある。その先を想像するのは容易かった。
「さすが、メイドさんといった所かねぇ」
そんな、気の抜けるような感想しか出てこない。どれだけ歩けば、理研本部に付くのかすら予想できない中だけに、それ以上を考える余裕は無かった。
* * *
「よっしゃ! 完成したゼっ!」
両腕を上げて、飛び上がる勢いでカズヤは喜びを全身で表現した。その時、丁度リョウジは理研ネットワークの殆どを掌握でき、シンジは自分のノートPCでこれから先の案を練っていた。
二人とも「出来たのか」という体でゆっくりと立ち上がり、カズヤのノートPCのモニタが見える位置に来た。
人体の3DCGモデリングスキルはカズヤの得意分野でもあったので、一週間と少しあれば、容易く完成までにたどり着ける。心もとない素材の中からでも、自分で欲しいと思ったものができるよう、リョウジが作ったツールもある。
モニターに写っている姿は、ミサキそのもの、というよりはややアニメ調にデフォルメされた造形だった。特に写真などを撮っていた訳でもなく、カズヤは自分の記憶だけでミサキの全身像を造り上げていた。
「ほう、彼女は受け入れそうかね?」
「さぁ……オレっちの趣味も少し入ってますからねぇ」
シンジも職業病としてアニメ調な造形は見慣れているが、果たして博士号を持つほどの科学者が受け入れるかどうかは分からなかった。
造った本人であるカズヤも、その辺りはあまり考えずに造ったようで、仕事よりも趣味の方を優先させてしまったらしい。サプライズプレゼントのつもりで、途中経過をミサキには提示していない。
「まぁ、本人と大きく差が出てる訳じゃないので、大丈夫じゃないでしょうか」
リョウジの目からしても、ミサキのアバターとしては十分だと感じている。モニターの中ではカズヤの指示に合わせ、表情を変えたり走ったり歩いたりして動作チェック用のモーションが適用されている。特に目立つような破綻も見受けられなかった。
カズヤはプレゼント用のアバターを入れる箱のモデリングも手を付けていたが、作っている最中に棺桶と勘違いされる可能性に気付き、途中で破棄した。その代わりに、後ろ髪を縛るような大きなリボンを付けている。恐らく自分には似合わないと、ミサキ本人がすぐに取り外すだろう。
「そういえば、彼女から連絡は?」
「今の所はまだ……と、噂をすれば、ってやつですね。コール来ました」
リョウジは自分のノートPCから鳴り出している呼び出しサウンドを止めるべく、そそくさと戻っていった。シンジはカズヤに向かい、身振りでモデルファイルをリョウジのPCに転送するように指示した。
「ミサキさん、リョウジです。お待たせしました」
『こん、にちは。皆は……元気?』
心なしか、覇気を感じない声でミサキが応答した。シンジ達三人は互いの顔を見合わせたが、リョウジは普段通りの声で会話を続けた。
「現時点での理研ネットワークの掌握は、ほぼ完了しましたよ。ミサキさんの方でも容量増やせるように権限渡してます」
『ありがと……確認、してみる……。うん、できそう、ね』
BMI経由の会話では、声の調子は変わらないと思い込んでいたが、どうやらそうでもないらしい。表情が見えない分、体調などは測り辛い。
『これで、予想の最低限の、容量が、確保できたわ。さすがね』
「いえ、なら良かったです」
リョウジも返答しながら、片眉を上げている。熱が出続けているというのはミサキ本人からも聞いていたので、その所為だろうとは推測できるが、それにしても途切れ途切れなのは気がかりだ。
「ミサキさんッ、カズヤっす! ミサキさんのアバター、出来たっスよ!」
カズヤの言葉に合わせ、リョウジは受け取ったファイルをミサキへと送信した。ゲーム用ではないので少し容量が大きめだが、1体だけ動かすだけならタブレットの能力でも十分に動く程には抑えている。
ミサキ側の方で少し手間取ったのか、少し間を空けてからチャットウインドウの隅に、小さくミサキのアバターが表示される。
『ふふっ、ちょっと、盛ってるけど、悪くはないわね』
ミサキのアバターは、苦笑交じりの元気そうな表情をして、無事に動作している事が見て取れた。シンジ達三人の姿は送信されていないが、カズヤは親指を立てて、アバターが無事に動いた事を喜んだ。
「何か不満や不具合あったら言ってくださいねー! すぐ直しますんで」
カズヤもミサキの様子は気になっているが、敢えて普段通りの喋りをしている。何故だか、三人が怪訝な様子で見てる事を悟られたくないという思いがある。
『……』
三人は暫くミサキからの反応を待ったが、アバターも動かず、ただ通信ノイズだけが小さく響いている。
シンジはリョウジの横から身を乗り出し、ノートPCのマイクが声を拾いやすいように声を上げた。
「ミサキ、大丈夫か?」
『……』
暫く返答を待ってみたが、ミサキの声は聞こえない。
「おい、ミサキ、聞こえる──」
シンジの問いかけが終わる前に、強制的にチャットウインドウが閉じられる。
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