第15話:眠った天神
多世界解釈とは簡単に記すと、パラレルワールドや並行宇宙というものが存在しうる、という解釈だ。古典SFや映画、漫画やアニメで時折出てくる仮説だ。
量子力学には「観測問題」というのがある。これも端的に記すとこうなる。
量子の状態は観測された時点で確定する。観測されてない時は不明。この時、「観測とは何か」という問題が出てくる。誰が、どのように観測すれば、量子の状態は決定的になるのか。量子の挙動は決定的ではなく確率的だ。これは様々な実験で証明されている。
相対性理論で有名な、アルベルト・アインシュタインは、観測されようとされまいと、物質の挙動は確定している、という考えを持っていた。「神はサイコロを振らない」(局所実在論、隠れた変数理論)という言葉は有名だ。まだ人間が発見してない何かの要素によって、確率的挙動になっているというこの考えは、「ベルの不等式」を用いた実験によって否定された。
この「観測問題」は、2049年時点でも未解決のものだった。
多世界解釈は1957年、当時はまだプリンストン大学の大学院生であったヒュー・エヴェレット3世が博士論文を提出し、受理されたものが発端である。1年前から論文を書いてはいたが、その内容は難解であった。指導教官のアドバイスもあり、大幅に内容を削減して、理解しやすくしたのが受理された論文だ。
この理論は、まったく反響を呼ばず、その後10年間忘れ去られていた。
次に世に出てきたのは1973年。理論物理学者であるブライス・ドウィットがまとめた論文集『量子力学の多世界解釈』が出版され、元々エヴェレットが書いていた短縮前の、完全版のものが世に広まった。
多世界解釈は様々な批判もあったが、21世紀初頭まで人気の高い理論だった。
多世界解釈は実在性が証明されているものではない。粒子といったミクロの世界の挙動を、宇宙というマクロレベルまで適用した場合に、理論的には存在し得るという解釈だ。
重力というまだ未解明な要素を含めた場合、果たして本当に並行宇宙なるものが存在するのかは議論や研究が進んでいる最中だった。
だが『ノルン』は、その多世界解釈を物理世界ではなく数学的展開により、仮想現実に当てはめ、量子とバイオの計算能力を最大限発揮する事で、限定的ではあるが『確率的未来』を観測する事ができる。
あくまでも確率的なので、確定された未来ではない。なので未来予知とは異なる。
無限に広がる並行宇宙を、無限に進む時間で観測しようとするとフレーム問題(有限の情報処理能力しかない人工知能には、現実に起こりうる問題全てに対処することができない)が発生するので、その時点での物理的障害と自らの思考によって、
『ノルン』が成長すればするほどその枠は広まり、より先の確率的未来が観測できる。つまり、『ノルン』は起こり得る未来に対し、常に先手を打つことができる。
* * *
カレンはハッキングにおいては天才だが、量子力学やバイオテクノロジーについては専門ではなかった。研究所時代に猛勉強し、『ノルン』の専用OSに適応するまで知識を得る事はできた。稼働するハードウェアの事を、少なくとも原理を理解していなくては、プログラミングはできない。
「アタシが言うのも何だけど、とんでもねぇバケモンだな。無理ゲーだろ、これ」
量子通信という難関を突破できても、その後に控えている壁が余りにも高く分厚いものであり、例え奇跡的に突破できても事前に予防されてしまう。まさに手も足も出ない状態だ。
「けど、ノルンは完璧な存在じゃねぇ。人間だってそうだ。必ずどっかに
多世界解釈シミュレーションの限界がそうであるように、物理的障壁は必ずある。実行不可能ではあるが、地球上全ての電源を切るか、ノルンシステム全体の冷却機構を一気に破壊すれば、ノルンはおのずと停止する。
「核ミサイル全部突っ込みゃできっけどさ。
カレンも調べたが、米国だけでなく核保有国全ての核ミサイルコントロールは、既にノルンが掌握し、ロックしている。それは戦略型原子力潜水艦も同様で、
人間に使用されないようロックが掛かってるが、今の所、ノルン自体が核兵器を使う様子は無い。おそらく使用するメリットどころか、自爆行為になるのだろう。
ノルンにとっても人類にとっても、今は無用の破棄できない粗大ゴミだ。
「やっぱ一人じゃ無理だんべぇ」
『カレンちゃま、あたちも居るでちよ?』
「オメぇはダメだ。ミトコンドリア以下だ」
画面の隅に現れた、狸姿の支援AIがわざわざ大粒の涙を零しているアニメーションを見せてきた。
カレンのシステムには小型の
「ミトコンドリア……バイオ……毒殺? アナクロすぎね? 超絶マザーコンピューターを毒殺とか、アニメでもやらんわッ!」
毒を仕込むにしろ、物理的に接近する事すらできないのに、どうやって毒殺するのか。毒ガスなんかも冷却の邪魔になるのでフィルタリングされるだろうし、その前に仕掛けた自分が死んでしまう。
『カミサマに頼むとか、どうでちか?』
「おめぇ、たまに面白い事言うな?」
その神とやらに一番近い存在になっているのが『ノルン』だ。カレンはキリスト教のカトリックで洗礼を受けているが、信心深さとは無縁だ。リアリストでなければ、プロのハッキングなんて出来ないだろう。
「生物学的セキュリティホールなぁ……無い訳じゃぁ無いが、バイオコンピューターのハッキングなんてした事ねぇし……専門家が必要だぁね」
カレンはMRゴーグルを外し、「どっこらしょ」と声を出しながらノロノロと立ち上がった。ゴムの切れかけた緩いパンツを引き上げつつ、ミサキの
* * *
「へっ……くちっ!」
「おや、ミサキちゃん、お風邪でしゅかァ? おヘソ出して寝ちゃダメって言ったでしょ?」
「うっさいッ!」
寝袋で寝てるのに、寝相なんて見られる筈がない。ミサキの寝相は決して良いという訳ではないが、大股開いて寝るほどではない。
確かに昨夜は少し肌寒い夜だったが、風邪を引く要素も無ければ、初期症状も感じられない。
もし今のくしゃみが誰かの噂であれば、その人は生存している事になる。是非とも会いたいものだと、ミサキは詮無き事を考えてしまった。
車列は兵庫県の須磨海水浴場を横目で見る国道2号線を走り、滝川インターチェンジで高速に乗るルートを走った。
「防音壁が割れてますね……あ、チーフ、車停めてください!」
リョウジが珍しくぼそっと呟いた直後に叫び、シンジは慌てて車を止めた。後続のトラックも衝突安全装置が働き、やや急ブレーキな止まり方をした。
「どうした?」
「あれ、見えますか? いや、見えませんよね? 六甲アイランドのビル。」
指摘されてシンジもその方向を見る。2030年半ば以降、六甲アイランドやホートアイランドは少しだけ拡張され、高層ビルが立ち並ぶオフィス街があった。
「僕でも霞んでよく見えませんが、ビルが倒れてますね……津波でもあったんでしょうか?」
「どうだろうな……。ひとまず、尼崎まで高速で走ってみよう。そこまで行けば、大阪の様子も分かるだろう」
* * *
日本の法律では首都の定義が無い。昭和三十一年以降、法律上では首都が存在しない事になっている。事実上、東京が首都ではあったが、日本国の首都は、制定されないまま終わった。
その都市の名が命名されたJR東の巨大な駅は、2052年の今現在でも稼働している。
東海道新幹線の16番ホームに、比較的新しいR300型新幹線車両が、金属が擦り合わさる不快な音を立てながら速度を落とし、やがて止まった。
到着案内のアナウンスは無かったが、列車のドアが開くと同時に、ホームからベルトコンベアが車内に差し込むように伸びてゆく。
低いブザーの音と、荷物の通過状況をチェックする短い電子音が定期的に鳴り響き、貨物列車と化した新幹線に、定型の段ボール箱が運び込まれている。箱には複数のQRコードが印刷されており、列車内に運び入れる直前の場所で、赤外線による読み取りが行われていた。
長い新幹線ホームには複数のベルトコンベアが敷き詰められており、断続的に荷物が運ばれている。
7号車の部分には、ただの柱にしか見えない円筒状のロボットが監視しており、搬入・搬出状況や、列車の安全確認のための指示を、光学量子通信で行っている。タバコほどの小さな穴から漏れ出る光は、ランダムに光るイルミネーションのように見える。
列車内では、天井に設置されたクレーンアームロボットが、積まれた荷物を隙間なく埋めていた。
東京駅に出入りしている列車は、全て貨物用になっており、東京の物流中心点として今も機能している。昔と変わったのは、そこに人間が居ないだけだ。
東京駅を中心に、元々人類が創った何かがあった痕跡はすっかり無くなり、東京23区はほぼ全てが黒い墓標に建て変わっている。辛うじて、人類文明の古い遺跡のように、皇居だけが取り残されていた。
* * *
大阪は、完全に水没していた。
双眼鏡で見える範囲では、少なくとも大阪市内は既に瀬戸内海になっていた。水際になっているここ尼崎も、足首くらいまでの水位があり、洪水状態で徐々に侵食されているようだった。
シンジ達はそのギリギリの所にある高いマンションの屋上から、水没した大阪を無表情に眺めて居る。ミサキはやや心配そうに三人の顔を伺ったが、誰も何も言わず、ただ黙って、かつて自分が慣れ親しんだ街があった場所を眺めている。
「ひとまず、
無感情なシンジの言葉に従い、四人は車に戻っていった。
大阪府
通りがかりの
念の為、車は建物の玄関口正面に停めたまま、シンジ達は高層マンションの最上階に宿泊する事にした。水没の影響かは分からないが、電気は通じて無く、ブレーカーを上げても電灯が点かない。装備品からLEDランタンを数個取り出し、それで過ごす事にした。
夜になって分かったが、大阪府全域には電気が通って無く、伊丹や池田、
「あーぁ、俺のディシアちゃんのプレミアフィギュアも、瀬戸内海に飲まれたかぁ」
「ディシアって何だ?」
「昔あったゲームのキャラですよ。俺っちはやった事ないんスけど、
ベランダで星空しか見えない暗い場所を眺めながら、シンジとカズヤは夜風にあたっている。
シンジは元々喫煙者だったが、これまではパンデミックのせいで強制的に禁煙をせざる得なかった。自衛隊の装備品の中から見つけた、貴重な
「アレ、チーフ、メンソールでしたっけ?」
「いや違う。これしか無いんでな」
自分でも随分あっさりと禁煙できたな、とシンジは中国に居た時に思っていたし、久々に吸ったら咽るだろうと覚悟もしていた。だが案外すっと肺の中まで通り、懐かしい味わいと香りを楽しんだ。
「……カズヤ、もう決めたのか?」
「ンー……まぁ、程々に?」
カズヤも「何が?」とは態々言わず、自分の思う事をそのまま言葉にした。
「そうか」
シンジは短く答え、2本目には手を着けずに部屋の中へ先に戻っていった。
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