第14話:ヴァルキュリヤの城



 それから四日間は、沈痛の日々を送ることになった。

 ミサキは自分も感染の疑いがあると、トラックの助手席ではなく荷台に乗り、自身を離隔した。潜伏期間は平均六日。三日目が過ぎた辺りから、検査キットで陽性か陰性かが分かる。

 ミサキは残り三つしかない貴重な自作検査キットを使い、救急セットから注射器を使って血液を採取。元々自分が持っていたバッグからいくつかの薬品を取り出し、コロナ検査キットを独自に改造したものを取り出した。採取した血液を判定部分に塗りつけ、目を瞑り、深呼吸して結果を待った。


 表示は陰性。


 四人とも量子通信はオープンにしたままだが、誰も何も喋らない。陰性判定が出ても、ミサキの顔は沈んだままだ。重い足取りで助手席に戻ってはきたが、会話をする気にはなれなかった。

 生き残る術を教えてくれた上に、農作物まで分け与えて貰いながらも、礼すら言わずに村から逃げ出したのだ。あの後、村の人々がどうなったかは分からないが、想像するのは容易い。

 シンジ達は彼らを見捨てた。

 その事については複雑な思いはあるものの、これまでもそうしてきたし、同じ事があれば同様の判断をするだろう。

 四人それぞれが、それを噛みしめるように黙々と東進を続けている。



  *  *  *



 車列は既に本州へと渡り、瀬戸内海沿いを中国自動車道の南ルートと国道2号線を併用しつつ、今は山口県岩国を過ぎた辺りを走っている。

 まるで予め期限を決めていたかのように、数日後には四人の会話がぽつぽつと、聞こえてくるようになった。

 それまでまったくの無言だった訳ではない。途中、猟をしたり釣りをしたりで食料を確保しつつ、自衛隊駐屯地や市街地の探索などを経ている。その間、互いに会話が無ければ何もできないので、必要最低限のコミュニケーションはとっていた。

 今は下道を走っているが、広島市内まで行ければ、大きな目的でもあるホームセンターも見付かるだろう。そこで道具を揃え、罠を作る事ができれば、動物の捕物とりものが楽にできる。


 道中はミサキの講義の時間だ。今日はバイオコンピューターについて話している。こうした行動は、彼女自身が日常に押しつぶされ、学んだ事を忘れてしまわないようにするためでもあった。


「バイオコンピューターって、でっかいビーカーに脳みそ漬けて動かしてンの?」


 カズヤが随分とアナクロな表現で聞いてきた。ミサキは軽く溜息を吐きながら、これから話す事を頭の中で整理する。


 生物の神経細胞を使ったコンピューターは実用化に近づきつつあるが、倫理的・宗教的な問題も大きくあり、ヒト神経細胞や脳細胞などの利用は限定されている。ましてやヒト脳全部をコンピューター化するのは、様々な意味で不可能だろう。

 人間の思考や発想、心や魂といったものは、まだ定義されていない。

 研究ではもっぱら、微生物や昆虫といった、意思や個性がなさそうなものから研究されていた。


「んな訳ないでしょ。あんたの義体の中にある脳は、ある意味そうとも言えるけど」


 脳はあくまでもヒト脳そのものであり、BMIも信号を入出力するまでの機能しか無い。相手の記憶や思考をコントロールする事は、倫理的にもシステム的にも出来ないようになっている。


「量子と同じで、神経細胞一つとっても、まだまだ未解明な部分が多いわ。他の細胞と違って特殊性が強いし、膨大なネットワークを自ら作り上げていく不思議な細胞ね。寿命が長い分、増殖するのは初期の段階だけだから、人為的に増やすのも難しい細胞なのよ」


 神経細胞は複雑な形状をしており、長い触手のような突起を持っている。この突起を「軸索じくさく」と呼び、他の神経細胞と信号をやり取りする役割を持つ。コンピューターで例えるなら、インターフェースやケーブルにあたる。

  さらに、軸索の先には「樹状突起じゅじょうとっき」と呼ばれる多数の枝分かれした構造があり、他の神経細胞からの信号を受け取り、送信する。この部分は、コネクターやジャックに相当する。

 基本的には、神経細胞には1本の軸索しかないが、一方「樹状突起」は多数あり、それぞれが細かく枝分かれしている(神経細胞の種類によって異なる)。

 その先端には「シナプス」という接続部分があり、他の細胞とコミュニケーションをしている。これは二種類在り、電気シナプスと化学シナプスがある。


 神経細胞の信号のやり取りは、膜電位の変化によって行われる。膜電位とは、細胞内外の電気的なポテンシャル(電圧)の差を意味する。

 神経細胞は通常、内側がマイナスの電位に保たれており、この電位の変動を利用して信号を送る。ナトリウムイオンやカリウムイオンの流入・流出がこれを可能にし、結果として他の神経細胞や筋肉に信号を伝える。ちなみに、これが塩やミネラルが食事に必須な理由の一つだ。。

 神経細胞の信号は、約マイナス70ミリボルトの静止膜電位からプラス40ミリボルト程度まで変動する。この電位変動は、外部センサーで読み取ることができ、デジタル信号に変換されることもある。

 この電位変動は、高速に発生し消失するため、「活動電位」または「インパルス」と呼ばれる。


 さらに、やりとりしている信号は電気信号だけでなく、化学シナプスを通じて物質的に情報を交換している。物質の放出部分と受け皿がそれぞれあり、物質の量や種類でどのような刺激なのかを判断している。

 アドレナリンやドーパミン、セロトニンなどがそうした神経情報伝達物質だ。


 神経細胞の働きを利用すれば、デジタル的信号とアナログ的信号を組み合わせて、擬似的に機械のように動作させることができる。例えば、腕に針を刺すと反射的に避けるような反応がそれだ。任意の信号を与えることで、神経ネットワークを通じて処理され、適切な出力が得られる。


 だがこれはまだ研究段階から抜け出せておらず、2049年の段階でも実用的なバイオコンピューターは出来ていない。精々、初期のトランジスタと同じように、神経細胞の特殊性を利用した、単純な機能しか作れていない。


「つまりね、まだバイオコンピューターなんて存在しないの。『ノルン』以外はね」


 ミサキは喫煙者ではなかったが、もし吸えるのであれば、ここで大きく一服したことだろう、と思ってしまう。

 バイオコンピューターの概念は昔からあるものの、実体として存在しない、映画やアニメの中の話しだった筈だ。

 ミサキ自体が『ノルン』の開発に携わったとはいえ、まさか実稼働するバイオコンピューターを作ってるとは露ほども思ってなかった。

 プロジェクト・スレイプニルでは、ただ単に量子コンピューターの乱数発生器や拡張機能の一部としての採用を考案されていただけだ。


「異世界召喚でもしたんジャネ?」

「そうかもね」


 いつも通り茶化すカズヤに、突っ込みを入れるどころか同意してしまうほどに、現実味の無い話だ。


「量子コンピューターとバイオコンピューターをくっつけるとどうなるン?」

「なんだ、知らないの?」

「ほぇ?」

「バイオ量子ハイブリッドコンピューターができる」


 いつもの事をやり返してやったと、鼻息を荒く出しながらミサキはドヤ顔した。


「おっしゃるとおりで……」

「真面目に答えると、わからない、しか言えないわね。ただ無理やり推測するなら、量子コンピューターの限界を、バイオコンピューター側でフォローしつつ、進化や発想とかに使えるかもしれない、かな? 自信無い」


 当然、神経細胞も物質で出来ているので、粒子レベルのミクロな世界では、量子の働きがある。RNAやDNA操作を行い、多機能細胞であるES胚性幹細胞を使って神経細胞を自己増殖させてネットワーク形成を行える可能性もある。ミサキの専門分野ではあるが、まだ未解明な部分も多い。人為的に狙った、意図的なネットワーク形成などまだ夢の話だった。


「やっぱ脳みそじゃん」

「おっしゃるとおりで」


 ヒト脳を使ってないとは断言できないが、いくら米国でもそこまで倫理や宗教を無視した行為は行えないだろう。やろうとするならディストピアの恐怖政治をかなければならない。ただ、ヒト脳という巨大なシステムでなくとも、数ある神経細胞の組み合わせで次第では、類似の発展は可能かも知れない。


「恐らく、『ノルン』は、人類から教わっていない、科学や数学の法則を自分で発見し、自分で発展させ、自分で創り上げられる、そういう存在なのよ」

「……神?」

「……そうとも言えるかな。彼女から見たら、人類なんてお猿さんでしょうね」


 人類が自らの手で神を作ったのだとしたら、その神はどうするのだろう?

 そんな哲学的な事が頭に過ったが、ミサキはかるく頭を振ってその考えを振りほどく。哲学的思考は嫌いではないが、サバイバルに必要なものではない。


「そうなると、冗談でもノルンちゃんは神! とか言えねぇな」

「笑えない冗談ジョークよね」


 窓の外の風景が徐々に賑やかになり、広島市内に近づいてる事を教えてくれた。



  *  *  *



 シンジ達は広島市街で、一番大きいホームセンターに到着した。文句言う奴は居ないだろうと、店舗の正面入口前に駐車し、仕入れた荷物をすぐに載せられるようにした。入口は既に破られており、大きな口を開けている。


 ホームセンター内は暗闇だったが、非常灯は付いているので、ブレーカーパネルを探せば、点灯できそうだ。

 懐中電灯で従業員が出入りしそうな扉をくぐり、大きな配電盤を見つけ、無事店内を明るくする事ができた。

 ここに住んでる、もしくは籠城している人が居たら驚くだろうとも思ったが、叫び声一つなく、店内は静かなものだった。

 食料品やバッテリー、電灯からロウソクに至るまで、避難生活に必要なものは軒並み無くなっていたし、棚が倒れたりと荒らされた形跡もある。


 一方、シンジ達が欲しい物、自動車用品や農機具、肥料や園芸用品、各種工具やDIY材料などはそのまま残っていた。輸送トラックは1.5トン車なのでそんなに多くは載せられないが、工具を最優先として罠や拠点作りの基礎部分は大方揃う。

 シンジとリョウジはマメにタッチパッドを使って積載物品のリストを作り、カズヤとミサキはもっぱら運搬係。


「女性に荷物運びさせるなんてぇ……」

「男女同権だ。筋トレにもなるし、丁度いいだろう」


 ミサキの愚痴に、シンジが淡々と答える。今の食事量では太る事はないだろうが、できるだけリスクを低減させる為にも運動と訓練はしてもらっている。

 手で使う工具などは箱に仕舞い、余分なパッケージなどはその場で棄てて、できるだけコンパクトになる工夫はしたが、荷台は人一人が体育座りできるかどうかのスペースだけ残し、ほぼ満載状態になった。

 これだけあれば、ミサキとシンジ達が別れても、生活拠点を作る労力を大分減らせるだろう。




 ホームセンターの平和な収奪を終えた一行は、再び東進を再開する。ここからは国道2号のルートではなく、瀬戸内海沿いの国道31号のルートに乗って、JRの路線を目安にしながら進もうという事になった。

 途中の山間で猟をしたり工作をしたり、時折海で釣りなどをして、できるだけ必要な栄養を摂れるようにする。これまで長い間保存食頼りで、全身義体でも脳や神経系に行き渡らせる栄養が不足気味だった。移動中は野菜が不足するが、拠点さえ作れれば自給自足は可能だろう。


「今日はここで泊まろう。冷凍庫で氷作るの忘れるなよ?」


 トラックには小型の2ドア冷蔵庫が2台積んであるが、電源は通して無い。いつも通り民家を拝借し、ほとんどが持っているであろう冷蔵庫の電源を入れて氷を作っている。その氷を冷蔵庫とクーラーボックスに入れておけば、肉も魚もそこそこの日数は保たれる。

 民家の多くはそれなりに荒らされていたが、足の踏み場も無いほどの荒れようは無かった。少し片付ければ人数分の寝床くらいは用意できる事がほとんどだ。



  *  *  *



 大きな問題もなく着実に東進を続けていたが、シンジはまだ考えあぐねいていた。大阪到着後の事、そしてミサキの事だ。

 生活基盤を作るまではいい。いや、その基盤を作る目的が無ければやる意味が無い。生きる為に生きるのはシンジの信条とは反するし、カズヤとリョウジも同意している。

 それに、『ノルン』の事だ。

 あのコンピューターが何を目的としてるのかは分からないが、現実として都市を再構築しようとしてるのは、上海で確認できている。もし際限なく、そのエリアを拡大していこうものなら、いずれは自分達の生活拠点も呑み込まれるだろう。

 野生動物たちに対する人間がそうであったように。今度は人間が追い込まれ、山に逃げるしか無くなるのかも知れない。

 それは来年か、5年後か、100年後かは分からない。年齢的にも恐らく自分が一番最初に旅立つだろう事を思えば、無責任に「後はよろしく」という事もできる。だがその考えも、そうであったのなら中国で諦めた方が手っ取り早い。ここまで生き延びた事を考えると、そう無責任に放り出すのも性分じゃないと考えてしまう。


 カズヤやリョウジも、不思議とこの話を切り出さない。既に心に決めたのか、それとも流れに身を任せる選択をしたのか、同じように悩んでいるのか……。量子通信という便利なものがあっても、意識や考えている事は言葉にしないと伝わってこない。大阪着いてから考える、というのも既に選択肢から外している。シンプルに言った手前、というやつだ。


「そういえばミサキ」

「なに?」

「大阪から埼玉まで、どうやって移動するつもりなんだ?」


 あらゆる可能性を探る、というほど頭の回転が良くはないと自覚しているシンジは、ミサキの移動について聞いてみることにした。


「これまでと同じよ。小さなトラックとかで荷物積んで向かうつもり。……まさか銃を取り上げるとか?」

「そこまで鬼じゃない」


 確かに銃や弾薬は貴重ではあるが、それを取り上げて自分達のものにしようと考えるのであれば、これもまた湖州の段階で別れれば良かった話だ。

 ミサキは会話を続けず、窓の外でも眺めているのか分からないが、静かなままだった。

 シンジの心の中は、揺れ動いているのではなく、丁度真ん中でピタっと止まっている状態。動かそうにも、何か他の要素が無い限り、動きそうに無い。


──さて、どうしたもんか……。


 車列は愛媛を通り過ぎ、もう少し走れば見慣れた風景が入ってくる筈だ。

 決断までの時間は、もう残り少ない。



  *  *  *



 ノルンの屋敷の大きな執務室に、撫でるようなそよ風が舞い込んでくる。

 彼女はずっしりとした椅子に座り、執務用のアンティークな机の後ろで、紅茶を嗜みながら目を積むって考え事をしていた。

 紅茶は淡いオレンジ色をしており、ダージリンのファーストフラッシュを使ったものだ。わずかにハーブの香りが加えられ、考え事をするには丁度よい香りと味わいになっている。

 背の高い椅子に、背筋を伸ばし浅く座り、両手をきちんと脚の上で重ねている。時折思い出したように腕を動かすのは、紅茶を口に含む時だけ。


「……」


 この部屋にはサブ1もサブ2も居ない。小間使いの小人やちびロボ達も、この部屋には入ってこれない。屋敷の中で、唯一ノルンが集中できる場所がこの部屋だ。


「……おや? おかしいですね……」


 目を閉じたまま、姿勢も崩さず、呟きが溢れる。


「多世界解釈シミュレーションの結果が、安定しませんね……何か別な要素が入ったのでしょうか?」


 多世界解釈シミュレーションは、ノルンが持つ能力の殆どを使う、莫大な計算方法だ。今の時点でも能力は強化される一方だが、それでもまだ限定的な範囲しか観測できない。いくつかの世界線では、これまで観測されなかった別の可能性について示している。

 これがどういう意味なのかはノルンには分からないが、何かの要素がカオス化して影響を及ぼしている可能性は十分にある。


「少し……対応を練る必要がありそうですね」


 そう口に出してから、ゆっくりと目を開き、残り少ない紅茶を上品に飲んだ。微かな溜息を吐いた後、姿勢を崩さないまま、静かに立ち上がる。


 この執務室は屋敷の最上階にある。だが巨大な屋敷に比べれば、その執務室の窓も小さな点になる。

 そしてその屋敷の後ろには、まるで屋敷全体を影で包み込むかのように、巨大な城が建造されつつあった。





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