第7話:セイレーンの惰眠



 今は台風が連続で発生するような季節ではない。晴天の下で、船は順調に太平洋を北上している。4人の中で、日本と上海を航路で移動した経験のある者は居なかった。約900キロメートルという長い距離ではあるが、何事も無ければ1日半で長崎に着ける。シンジのノートPCで動いている支援AIの言葉通りであれば、18ノットで航行すれば余裕すらある航行となるだろう。



 シンジ達は船の鹵獲に成功した後、すぐに出港するという無謀な事はしなかった。この地球で最大の海である太平洋を、漂流する事は何としても避けたい。

 何度も燃料を確認し、船内のどこに何があるのかを調べ、足りないものは集めてこなければならなかった。燃料は幸いにも、ゆっくり走れば長崎まで行けるくらいは残っていた。海上警備の武装に関しては「さすがに4人じゃ動かせないですね」というリョウジの意見で、その存在を忘れる事にした。

 食料や飲料は、さすがに暴徒や野盗でも軍船を荒らそうとはしなかったのか、倉庫には大量の乗組員用保存食が備わっている。例え航行が一週間の期間となっても、十分に持ちこたえられるだろう。そして何故か倉庫には、ビーチセットと釣具が置いてあった。


 何故軍艦に置いてあるのか謎なビーチセットは、今はミサキが女性の特権とも言わんばかりに占有していた。

 武装船特有の艦尾にある広いヘリパッドエリアに、パラソルとチェアがワンセットになっているビーチセットが広げられていた。パラソルの影の中にリクライニングしたビーチチェアに寝そべっているのはミサキだ。色気とは縁遠い女性ダイバー用の水着、さらにはサングラスを掛けて日向ぼっこしている。ミサキとしては、これでパッションフルーツドリンクがあれば文句の付け所が無かったが、さすがにそこまで武装船に求めるのは酷だろう。

 カモメも近寄らない太平洋の海原で、ミサキはこれまでの数年間、厚着を我慢していたことを取り戻すかのように、太陽光の摂取に励んでいる。

 その近くでシンジは、会議室から持ってきたシンプルなパイプ椅子に座り、ビーチセットテーブルの日陰にならない部分を拝借しつつ、自分のノートPCで、今後の行動計画を練っている。快晴なだけにやや暑さを感じるからか、シンジは半袖のシャツに着替えていた。

 カズヤとリョウジの姿は見えない。リョウジは恐らく艦橋でミサキが使っていたハッキングツールの解析に夢中であり、カズヤは魚が釣れるはずも無い事を理解しつつも、船の横腹で釣りの雰囲気だけを楽しんでいる。もちろん、今となっては貴重となる釣り餌を付ける余裕は無い。


 既に中国大陸も空気の霞の向こうに消え去り、船はただ一隻が人類に残された唯一の文明物を誇るように走り続けていた。


「良かったわ。GPSが生きてて」

「──時折、位置を見失うみたいだが、かねがね順調だな」


 思い出したかのように喋り始めたミサキに、シンジはやや空を見上げながら、逡巡しつつ返事をした。

 GPS全地球測位システムは複数台の衛星信号を使う。4つの衛星を捕まえて、ようやく正確な位置が割り出せる。この船は中国の海上警備艦なので、GPSが見えなければ、中国政府が打ち上げた測量衛星を使うようになっていた。その二重化のお陰もあり、太平洋を迷走せずに済んでいる。

 シンジが空を見上げてもGPS衛星を探す事は不可能だが、雲一つない青空と、波打つ海原だけのこの空間を、ゲーム制作エンジンを初めて立ち上げた時に出てくる、何もない空間のように感じ取っていた。その不思議な思いから魂を引き戻し、シンジは視線をミサキに向けてみる。


「で、ミサキさんや。なんで水着?」

「日光浴よ。体は生身だもの。ビタミンDとかセロトニンとか大事よ?」


 そういえばそうだった、とシンジは思い返した。自分を含め、カズヤもリョウジも全身義体だ。旅程の中で出会った人々は、部分義体の人も居たが稀であり、ミサキのような義手・義足のみの人は、これまで見たことが無い。

 よくもまぁ生き残ったものだと感心した。


「さすが、製薬会社の人ってとこか?」

「あ、それ、嘘だから」

「……だろうな」


 シンジは、なんとなくは分かっていた。だが、こんなご時世で嘘をつく必要性は、思いつかない。過去の仕事で詐欺みたいな案件を持ち込んだ奴が居たが、ミサキからは似たような雰囲気を感じ取っていた。基本、限定的な情報しか言わない人は、隠しているか騙すかどちらかだ。

 ミサキは、少しバツの悪い顔をシンジに向ける。


「怒らないの?」

「怒ってどうする。怒られて、サメの餌になりたいのか?」

「義体じゃサメも食べられないわよ」


 サメが見つける前に、重さで浮き上がれずに溺死するか、スクリューに巻き込まれるかで、サメ以外の要因で無事では済まない。

 シンジはノートPCから少し体を離し、個人船室で見つけたサングラスを掛けた。椅子に深く座り、リラックスする。

 砂浜こそ無く、むしろ甲板の照り返しで暑いくらいだが、ヘリパッドのほんの一点だけ些細なリゾート化されている。

 シンジは望み薄を表すように、吐息を混ぜながらミサキに問い始める。


「そろそろ話してくれんかね」

「……そうね」


 ミサキは少し間を置いてから、流石に寝たままは失礼だと思い、シンジの対面にある椅子に座り直した。シンジがサングラスを掛けたので、ミサキもサングラスを外さないままでいる。

 互いに表情は読み辛い。

 ミサキはどこまで話すべきかを、あの治療室での光景を見た後からずっと考えていた。話すとしても内容が荒唐無稽なだけに、余計に不信感や嘘であるかという印象を与えかねない。

 だが、このまま自分だけが知っている状態を保っててどうなるというのだろう。そして、シンジ達のような同じ日本人、そしてこの荒廃世界をサバイバルできている他人に、再び出会える確率などゼロに等しい。生き残ろうとしている人に伝えるだけでも、意味と真実を手渡すことの方が、意義としては正しいのではないか。

 本来であれば、米国の友人と合流したいところだが、それも望み薄。

 ミサキは藁をも掴む思いを抱きつつ、ゆっくりと語りだした。


「私の本来の仕事は理研、理化学研究所の研究員。専門はバイオテクノロジーよ」

「……ほぅ」


 理研といえば、日本を代表する国立研究開発法人だ。大正6年(1917年)の第一次世界大戦中に設立されてから一世紀以上が経過しているが、依然として国内有数の研究機関として、その地位を保ち続けている。かつて理研の相談役を務めた湯川秀樹博士をはじめ、理研はこれまでに複数のノーベル賞受賞者を輩出していた。

 そして遂に、過去の組織となる。


 ミサキは少し首が痛くなったのか、軽く身じろぎをしてから首を戻し、目を瞑って日光浴を続けた。


「何故、架空の会社まで用意して中国に?」

「在りていにいえばスパイね。あの時、バイオテクノロジーの一部、脳神経や神経情報工学については、中国の方が先行してた。私は製薬会社の開発局のフリをして、中国の最新情報を探ってたの」

「映画みたいな話だな」

「そう感じるでしょうね。過去の理研は、さんざん中国に情報をられていたから、同じ事をやっても文句ない筈よ」


 元々日本は情報戦に弱い国だ。特に科学技術情報の漏洩は度々問題となっていたが、結局パンデミック直前ですら、実質的に機能しそうなスパイ防止法は成立しないままだった。中国だけでなく、同盟国である米国含め、様々な国から体の良い漁場として扱われていた。

 それもまた、今は昔の話しだ。


「それは本当か?」


 それ自体、嘘の可能性もある。スパイだったら嘘に嘘を重ねても、プロであれば破綻させずに逃げる事もできる。


「ええ、嘘じゃないわ。私があるプロジェクトに参加した影響で、急ぎで中国の最新技術が必要になったの。スパイはしてたけど、本当の理研研究員。上層部の指示とはいえ、善良ないち納税者にやらせる事ではないわね」


 理研は国立研究開発法人であり、そこに務める研究員は国家公務員ではなく、独立行政法人の職員として勤務していた。

 そんな人に諜報活動をさせるとは、なかなかに黒い話である。


「確かになぁ……。で、そのプロジェクトとは?」

NDA機密保持契約も既に失効してるし、話しても問題ないわよね?」

「まぁ、そうだな。訴訟する相手も、生き残ってるかどうかもわからん」


 パンデミック後の行政麻痺と騒乱は、世界中でも中国が一番酷い状態に陥った。中央政府が麻痺した後、州に駐在している軍を使って独立しようとする動きもあったが、パンドラウイルスにはそんな事情が通じない。州軍が閉鎖する前に、すでに感染者は数え切れないほど居たので、すぐに崩壊した。

 感染パニックで武力行使も躊躇いなく行われ、全ての機関が機能不全を起こすまであっという間だ。そんな中で、生き残れている方が稀である。

 当然、中国だけでなく日本側ですら、NDA契約を気にする人は、ミサキ以外には居なくなっていることだろう。

 シンジは苦笑を洩らしつつ、ミサキの次の言葉を待った。

 

「プロジェクト・スレイプニル。合衆国政府主導の極秘プロジェクトで、『ノルン』が生まれた場所……」

「……本当マジか? ますます映画じみてきたぞ?」

「マジよ」


 目線こそ見えないが、ミサキは疲れたように大きなため息を吐いてから、頬杖をつく。一方シンジは、疑うように片眉を上げた顔をミサキに向けて、背もたれから体を離し、前のめり気味に座る。言葉遣いも砕けてしまっていた。


「理研は日本政府経由で参加要請され、一部の人間、私含めて数名ほどプロジェクトに召喚されたの。業務命令じゃ断れないわ」

「……ン、まぁ、そうだな」

「どういう理由か分からないけど、プロジェクト・スレイプニル側からは一方的な情報提供を求められた。正直私も不審しか抱かなかったけど、自分の研究開始時に結んだ契約の所為で、自主退職すらできなかった」

「それ、憲法違反じゃ?」

「本来だったらね。けどまぁ、世で言うブラック企業の扱いでもなかったし、お陰で米国むこうのプロジェクト参加者に友達もできたから、我慢したわ」


 ミサキの言うその友達も、今は生き残っているかどうか分からない。中国ですら酷い状況だったのに、銃社会である米国では、もっと凄惨な状況になっているだろう。


 シンジは興味が次第に湧いてきたのか、自分の作業を一旦止め、ミサキとの会話での重要ポイントをテキストプロセッサで入力し始めた。『プロジェクト・スレイプニル、理化学研究所、バイオテクノロジー、脳神経情報工学──〝ノルン〟』。

 こうしたワードクラウドを並べることで、シンジは自分の残り少ない記憶領域を情報整理する癖が付いている。


「で、『ノルン』ってのは何なんだ?」

「それは前の説明通りよ。次世代どころか数世代先に進んでるスーパーコンピューターAIシステムのこと。世界最大級、最高峰のお嬢様ね。理研は彼女のバイオロジックモジュールの開発を手伝ったってわけ。おかげで私の論文も食われたわ」

「食われた?」

「ああ……ごめん。学会発表できずに、プロジェクトに極秘情報としてられたの。まぁ、既に博士号持ってるから固執はしてなかったけどね」


 学位だけでなく、理研本部にある自分専用のオフィス、そして幾ばくかの学術称号を授与した賞状などがあったが、ミサキはそれらを飾らずに、ロッカーの奥に仕舞っていた。学位はともかく、自分の功績を人に伝えることすら、何故か躊躇する。


博士ドクターだったのか」

「そうよ。神経情報工学博士、粒子系生物物理学博士。これだけで、もう十分ね」

「そりゃぁまた、ど偉いエリートさんと出会ったわけだ」


 シンジは一般の総合大学卒業で終わっているので、学士止まりだ。特に会社の職務内容のこともあり、博士ドクターと話す機会など無かった。しかも自分とまったく違うおかどの人である。


「まぁ、おおよその事情は何となく察した。それで、空港の病室で見たあれは何だ? あれから何が分かったんだ?」

「そう、その説明がややこしいのよ……」


 ミサキは右手を額に載せ、人差し指で自分の髪をまさぐり始める。


──まとめると、彼女は、ノルンを生み出したプロジェクト・スレイプニルの研究開発に携わった人間の一人である。プロジェクトには途中参加で、しかも限定的な情報しか得られない中、プロジェクト側から一方的に情報提供を求められる。情報提供だけでなく、論文も没収、封印された。

 一方、バイオモジュール製作には関わったので、ある程度の情報は掴めているが、それがどう組み込まれて作動しているのかは不明。ノルンのスペックも能力も秘匿──そうした、様々な事情が中途半端なまま中国への半強制出張と相まり、ミサキの心の中に、重石となって伸し掛かっていた。


 ノルンは基本的な実証試験運用時から自己進化を続けており、応用研究段階においては、レベルP4研究室を使う機材と権限を持っていた。これは本来なら、ミサキが知るはずのない情報だったが、親しくなった友人から幾度にも渡り暗号メールが分割して届き、盗聴されている二人のボイスチャット内でもヒントを交え、ミサキはそれの解読に成功した。CIAの監視でもあったのか、かなり手の混んだ、まどろっこしいやり方だったので、ミサキも解読するまで相当の時間が掛かってしまう。

 解読できたのは短文であり、ノルンの状態の一部情報と、この言葉だった。


『あいつらコロナウイルス使って、ノルンにウイルス研究させてんぞ。ヤバい』


 実際、ノルンの恐ろしさはミサキも肌で感じていた。

 AIを使ったコロナウイルスの分析は、その時既にいくつもの機関がやっており、それ自体は問題は無い。しかし『自己進化型AI』がそれを扱うことには、ミサキも倫理的抵抗感があった。


 プレジェクト・スレイプニルのネット会議が行われたある日。

 関係者の中でも専門分野のチーフクラスが集められたチャットに、ミサキも呼ばれた。その時、チャットメンバーの中にはノルンも含まれていた。

 その時のノルンとの会話方法は、旧世代AIと同じでテキストベースのものであり、姿も声も無い無味乾燥なものだ。ただ、会話内容は聞くことができている。

 問題はその会話内容で、ノルンは高度な知識と理解力をもって人間同士の討議に交じっていた。あっという間に専門家たちの知識をアレンジし、更に発展させた理論などを淀みなく返答する。しかも新たな理論の仮説まで立案してきた。

 ノルンはインターネットにも接続されておらず、会話内容に関わる学習アセット資産の総量は不明だが、既に膨大な知識と高度な処理能力を備えていることは明らかだった。

 ミサキの専門分野に関しても、神経細胞におけるテロメア書き換えによる細胞寿命延長という、常識を覆す提案をしてきた。


「まだ試験・開発中の高機能AIに、生物学関係の研究をさせるのは危険ではありませんか? 倫理的にも問題あるかと具申します」


 さすがにコロナウイルス研究について直接言うべきではないので、ミサキは遠回しに警告を発した。


「余計な口を挟むな」


 たった一言で、議長によって無視されてしまう。

 それが良からぬ切っ掛けになったのか、ミサキは会議に呼ばれる回数が徐々に減り、おそらく何らかの圧力でプロジェクトから外され、挙げ句の果てには中国出向を命じられた。

 ただ理研側も黙って従っていたわけではない。ミサキの研究を発展させるべく、中国企業の情報を集めるよう指示が下りた──。


「残念ながら私が神経情報工学を発展させる前に、パンデミックが起こったけどね」

「……」


 不謹慎ながらも、シンジはこの話をSFアドベンチャーゲームにすれば売れそうだな、と感じていた。ただ、ミサキが語った内容が、一度に多くのものが出てきたので、少し整理をする時間が欲しい──と、シンジが言う前に、ミサキが追い打ちを掛けて来る。


「確証は無いしパンデミックの原因は不明だけど……多分、あのパンドラウイルスはノルンが創ったのよ」



  *  *  *



 2049年。パンデミック直後。中華人民共和国 安徽あんき合肥ごうひ市。


 ミサキの手元に、パンドラウイルスのRNAリボ核酸データが届いた時には、既にインフラが麻痺し始め、往来の禁止、外出禁止令まで出されてしまう。中央政府はコロナウイルスの時の恐怖が残っており、ヒステリックに国境を閉鎖、各州の境には軍が配置され、ミサキたちは州から出るどころかダミー会社のあるビルからも出られなくなった。

 中国各地で暴動が乱発し、この市内でも銃撃音と叫び声、放置される火災など、まるで戦時中になったかのようだ。


 ミサキと同僚達は、辛うじてビルを抜け出すことに成功し、一度だけ市内の住居に帰る事ができた。必要な物資とありったけの食料を持って、会社に戻る。今や一人で居るより、何人かで固まっていた方が安全だからだ。

 ミサキは何とかして米国に居るプロジェクトの友人に連絡を取ろうとしたが、プロジェクトのメールアドレスは無論の事、こっそり教わっていた個人メールも宛先不明で返ってきてしまう。


 それと入れ違いに、ミサキはようやく理研本部に申請していた、パンドラウイルスのRNAデータファイルを受け取る事ができ、ほんの数名だけ残った同僚と手分けをして、分析を始めた。

 ウイルスは専門外ではあったが、遺伝子工学は粒子系生物物理学にも関わるので、分析くらいはできる。

 理研の本部は、自分たちより先に分析結果のデータを作成している筈だが、中国中央政府は国境どころかネット自体をシャットダウンしたので、そちらは入手できずにいた。


 情報ネットワークの遮断は、さらに市民と軍のパニックを誘発させた。

 元より、中国のインターネットは時代が進んでも閉鎖的であり、国内の監視は相変わらず厳しい。理研のダミー会社という事もあり、万里の長城のような壁を越えてアクセスできる方法は、秘密裏に日本企業系で共有され、使われていた。ミサキはそれを利用した。

 理研本部とは直接連絡が取れなかったが、こうしてパンドラの中身を見る事ができたのは、本当にギリギリなタイミングだった。


「なに……これ……」


 モニターに写ったパンドラのRNA配列設計図のイメージ映像は滅茶苦茶であり、これまで見てきたどのパターンとも一致しない。本来なら、ウイルスが細胞に侵入した後、増殖の為にさまざまな毒素を含めたタンパク質をつくるものであり、既知のタンパク質設計図のパターンが見える筈である。

 しかしそれは、、全く新しい、未知のタンパク質の設計図だった。


「戸張先輩! 何ですかこれ!?」

「私も誰かに聞きたいとこよ……」


 同僚である後輩が、半泣きになりながら聞いて来る。彼女もミサキと同じタイミングで一旦帰宅し、荷物をまとめて会社に籠城できた一人だ。シンプルに後ろでまとめた淡い黒髪が、逆立つような勢いだった。

 さすがにここの貧弱なコンピューター設備では、RNAコードを使ったタンパク質構造のシミュレーションはできない。ここではなく、埼玉県和光市の理研本部にある量子コンピューターなら可能だが、既にアクセスも遮断されており、利用できない。

 これまでの記憶と知識とを組み合わせたところで、先進量子コンピューター並の素早さで、タンパク質構造を予想するなんて無理な話だ。


「一応、あなたの所見を聞かせて」


 遺伝配列に関しては後輩の方が知識と経験がある。ひとまず落ち着くよう席に座らせてから、ミサキは彼女の意見を待った。


「一見、コロナウイルスの特徴を示すゲノム遺伝子集合も見られましたけど、他の多くの部分は、本来なら機能しないだろう配列ですし、何よりも常識外です。たとえ放射線でRNAが壊れても、こんな綺麗には繋がらない筈です。データベースをチェックしないと確証は持てませんが……これは、意図的な人工ウイルスです。しかも新種の」


 ミサキは、後輩の意見を聞いたからといって人工ウイルスだと決めつけるのは早計と思いつつ、こんな芸当をやり遂げられる存在は、たった一人、いや一台だけだと直感的に推定した。

 パンデミック発生の直後に流れていたテレビニュースでは、米国が試験段階の新型量子コンピューターを使って、ワクチンを開発中だというのを公表していた。


──自分で創ったウイルスのワクチンを開発? それにどんな意味があるのよ?


 ミサキは唖然としたまま、モニターの前で頭を抱えた。



  *  *  *



「ただ、その独特な配列のお陰で、手元に残っていたコロナ検査キットを改造して、パンドラの検査キットを比較的簡単につくれたの。ここまでは、いい?」


 普段から冷静沈着だったシンジの顔は消え失せ、ずれたサングラスから見える目と共に、間抜けた驚愕の表情を隠そうともしない。


「そして、上海にあった奇妙な黒いビル、あれは恐らくノルンの上海拠点。空港で見かけたロボットたちは彼女の手足。大きな機械に寝かされてた人は……おそらく、研究材料ね」


 言い終えてから、ミサキはシンジから顔を反らした。そういう顔になるよね、と分かってはいたが、いささか罪悪感も感じてしまう。


 船は順当に進み、天気も良い。波を切る音と重く響くエンジン音だけが、しばらく続く。そこに時折、不安を煽るような水飛沫みずしぶきを上げる音が混ざる。

 シンジが驚愕から立ち直ったかどうか分からないが、しばらくしてからミサキは吐き捨てるように呟いた。


「これが私の知ってる全てよ。本当にハリウッド映画みたいで笑っちゃうでしょ?」


 しばらくしてから、シンジはずれたサングラスを直し、よろよろと立ち上がった後は、ヘリパッドの端に重々しく歩いて行った。

 ミサキは少し喋り続けた所為せいで喉が荒れてしまったので、ペットボトルの水を飲んでから、もう一度リクライニングシートに体を倒す。


「確証は──ないけどね」


 そう、誰に言うでもなく零す。





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