第一章:グスタフ・マーラー 交響曲第1番ニ長調「Tita ýtα@.xxx..」
第1話:失楽の廃園都市
2052年 中華人民共和国 浙江省湖州市。
緑豊かな森を抜けると──といえば聞こえは良いが、人の管理から離れた建造物は、すぐさま自然という大敵に敗北する。もともと自然豊かな土地だった事もあり、長く生い茂った雑草と大木になろうと野望を持つ低木が、ここはブルーオーシャンだと言わんばかりに市街地まで支配している。
何か目安になるものがあるとするなら、川だろう。
湖州市は「絹の府、魚米の郷、文物の宝庫」として知られている、歴史ある市街地だ。ここは上海のベッドタウンでもあり、市街地中心には高層マンションも立ち並んでいる。日本で例えるなら埼玉県川越市(小江戸と言われるほど古くからある町並みと現代建築が入り交じる街)を想像すると良いだろう。交通の便も良く歴史も古い街だ──ったのは過去の話であり、今は倒れるか崩れるかでその姿は見えない。
「やっと湖州市か……。長かった、とういよりは長すぎるだろ」
遠回りしている予感は何となくあったが、確実性をとって川沿い移動を選択した甲斐もあり、文字通りのマイルストーン到達に、如月シンジは安堵した。
全身義体化している彼にとって、肉体的疲労というのは既に過去の思い出の中にしか無い。それでも気分として長い距離を年単位で歩き続ける事には疲れていた。
文明らしき痕跡がまだ若干残ってはいるが、義体化という恩恵ははあるにせよ、車という便利なものやGPS衛星といったテクノロジーが利用できないのはどういうことだ、と時折叫びたくなる。
「どうする? このまま進むか?」
言葉を出しつつシンジは振り返った。そこには自分以外に二人の人物が居る。幸い、生き残った人間は自分だけではない事を再確認した。
自分同様、全身義体化されている旅のお供だ。シンジは合成皮膚を使って人間らしい姿だったが、そのお供である安藤カズヤは、まるでアニメやゲームに出てくるようなサイボーグらしい姿だ。目からビームが出てきても不思議ではない。何のこだわりかは分からないが、声にまでエフェクトを掛けてロボっぽい声にしている。
彼がどうしてその姿を選んだのかを過去に聞いた覚えがあるが、どうせ下らない理由だろう。
「日が沈むまでは、まだ余裕があるな。中心部までは目指そう。それでいいか?」
カズヤのやや後ろから付いてきている男にも、そう問いかけた。
鈴城リョウジは大人しく無言で頷く。無駄な事を極力避ける彼らしい返答の仕方だった。
リョウジも全身義体化していたが、彼の姿は義体化以前の姿をそのまま写したと聞いた覚えがある。中肉中背、というよりはやや肥満体型をしており、本来であれば必要の無い黒縁メガネを掛け続けている。アニメやゲーム系のイベント会場にいれば、親和性がかなり高いだろうと、シンジは評価している。
この奇妙な一行は、何も旅の途中で偶然出会ったという具合ではなく、元々同じ会社で働く同僚だ。
パンデミック前の段階で、様々な理由により義体化を済ませていたお陰もあり、少なくともパンドラウイルスによって病死する事からは免れた。義体化してても少ない割合で、パンドラウイルスの影響による重症化、最悪の場合では死亡する。ただ義体化によってウイルスの感染経路が限定的であり、僅かに残されている生体部分がウイルスに侵される確率は極端に低くなる。腕や足だけなどの部分義体化している人間は感染危険度が高いが、生身にくらべれば低い。
そうして生き残った人間も一定数見かけてはいるが、人間同士が災害化、つまりは奪い合いや殺し合いなどによって着実に数を減らしている。
彼ら三人は自衛隊員でも何でもなく、ただの一般人であったが3人という優位性によって切り抜けられた場数は、幾度となくあった。
そうした理由もあり、疲労を感じる事はなくとも行軍はゆっくりとせざる得なかった。
「そういや、知ってるッスか? チーフ」
カズヤはシンジの事をチーフと呼ぶ。元々シンジは言葉通り、カズヤの直属の上司だったので、そう呼ばれる事に違和感は無い。むしろ数年に及ぶサバイバル生活のお陰もあり、勤務中にあった僅かな遠慮も、パンデミックの騒乱の中に消えたようだ。
シンジはいつもどおり、「いい加減、先に内容を言え」と明確に顔で表現しながら、溜息混じりに応える。カズヤはシンジの意図を明確に読み取った上で無視しつつ、話を続けた。
「中国とか日本の《龍》のデザインってさ、自然現象の竜巻らしいッスよ!」
「……根拠は?」
シンジは仕事柄もあり、雑学や多岐に渡る分野の知識を得ていることを自負している。そこそこ長く生きているシンジには、それに該当するものがない。この後の展開も読めてしまう。
「根拠は、オレ! だって竜巻って竜巻っしょ!?」
そして予想通り、リョウジが微かな声で「諸説ある、ってやつですね」と続けて苦笑する。この流れは比較的平和だった過去から、何度も繰り返されている事だった。
「んで、西洋の
「正しくは爬虫類だな。元ネタはギリシャ神話や古代ローマの伝説だ。だから結構歴史が古い。実在はしてないから、大方酔っ払いが大きめのワニかなんかを見た時に大げさに言いふらしたんだろさ」
「でた、チーフペディア!」
この呼ばれ方は好きではなかったが、シンジはいつも聞き流している。
本来であれば自分の知識が間違っていないか、ネットで検索したり複数のAIに確認をとって
それにしても、昨日あんな事があったのにも関わらず、よくもまあ能天気に無駄なリソースを使うものだとシンジは感心した。
* * *
昨日は久しぶりに人間に出会えた。もっとも、会話する暇もなく亡くなってしまったが。
遠目から見ても中国らしい、歴史が屋根や柱に刻まれた古い民家を見つける事ができた。3人はいつも通り目線だけで会話し、民家から20メートルほど離れた地点で一旦身を潜める。自然の楽園と化した環境では、姿を隠す場所に困ることはない。
「……」
リョウジは無言のまま、人差し指を二人に見せたが、すぐに手を下げた。次に首を横に振り、二本の指を立てた。二人がそれに頷き返すのを確認し、手のひらを前に向けてから静止させた。〝1、いや2名。注意せよ〟を意味した動作だ。
幸運にも、この3人のチームは早い段階で人民解放軍の銃を手に入れ武装化する事ができていた。パンデミックによる緊急都市封鎖とそれに伴う暴動、鎮圧するはずの兵士が指揮官レベルからパニックを起こし、輸送車ごと破棄した現場に居合わせたからだ。
特にシンジとリョウジはコロナ禍の教訓から、そうなる事を早期に予想できていた。
ゲームで言えば、リョウジは
シンジは民家を見る。家の近くに人影がある事は確認できた。人影は何やら落とし物でもしたのか義体らしき右手に何かを握りしめ、地面の方を見回っている。中年の男だ。
だが二人目は見つからない。シンジはやや困惑した顔をリョウジに向けた。彼は返事の代わりにゆっくりと生い茂った草叢の一点を指し示す。
そこに視線を向けると、草叢が大きく揺れ、一人の男が現れた。
すぐさまリョウジは握りこぶしを自分の肩につけてから手のひらを見せた。〝警戒〟。
その男はアサルトライフルで武装していた。すぐさま早足で中年の男に近づき、何かを言い争った後にもみあいになり、そして、撃たれた。
3人が介入する間のない一瞬の出来事。
男は続けざまに右腕を連射し、強引にもぎ取り、現れた時のように草藪の中に消えていった。
放浪生活の中で、何度も見てきた光景。
シンジは仲間の顔を確認した後、握りこぶしを二人に見せてから、民家の方を指さした。
シンジを先頭に、カズヤ、少し間を空けてリョウジが、腰を落としつつ叢に隠れ、後方警戒しながら続いた。素人とは思えないほど
倒れたとしても中年男が武装してないとは限らないし、念の為、ウイルス感染のリスクを回避するためだ。
中年の男は3人の姿を見て何かを言いかけたが、すぐに事切れてしまう。
それを見届けた後、3人はそれぞれ背中合わせになり、銃を構えて3方向を警戒した。
「右手に何か持ってたよな?」
「たぶん、食いもんの缶詰です」
シンジの問いかけに答えたのはリョウジだ。
* * *
こんな事なら会社の経費で自衛隊の体験入隊をしとけば良かった。例え自衛隊に嫌な顔されても納税分は回収させて欲しい──と、シンジは何度も思っていた。
残念ながら、陸上自衛隊の体験入隊は、おおよそ数日程度であり、基本体操や輸送ヘリの試乗、救急救命の講座といったもので、どちらかというと広報色があるものだ。銃を持ってランニングしたりフォーメーション行動などは、入隊でもしない限り学べなかっただろう。
不幸中の幸い。リョウジはサバイバルゲームの体験者で、かつ
そこにシンジの博学や3人が過去に見ていた映画やYouTube動画などを組み合わせる事で、訓練された軍人のような動きを真似ることができている。義体化の恩恵も大きい。
パンデミックによる惨劇を目の当たりにしたので、文字通り「必死」だ。主にリョウジの提案でシンジが中心になり、安全であっても自主訓練をしていた。
軍の行動マニュアルに沿ってるかどうかは分からないが、実際の経験則と合理性を協議した上で、結果的に近いものにはなっている。
下手をすれば自衛隊員よりも実践経験が豊富になっている。素人なのに。
シンジは懸念している事がある。アカの他人が目の前で亡くなっても、無関心どころか当たり前と思う事を避けようとしていた。中年の男が事切れた瞬間は、何も感じていなかった。手向けようとか、亡骸を安置できる場所に移動させるという発想も、もはやない。
そういう意味ではカズヤの反応が一般的であるとは思っている。それでもなお、人の生死に無関心になると、心まで機械になってしまうという思いを棄てきれずにいる。
── すまんね、見知らぬ人よ。
そう心の中で呟く事が、シンジの儀式だ。
人同士の争い、野生動物の脅威、自然環境の猛攻、台風や地震などが起こっても逃げる場所すらない……生きるために生きるだけの生活を続けていると、いずれは昨日の男のような最期を迎えるだろうと確信している。
なればこそ、どんな小さな事でも目標を設定し、それに向かって生きる必要がある。
サバイバル生活の中で、シンジは時期を見計らって二人にそう説き続けた。
必ず日本に帰る。そして本社と3人の住処がある大阪へ帰る事を、必要条件としている。
とりあえずは、上海に向かって船を調達するのが中間目標だ。
そんな事をお経のように心で唱えながら、行軍を続けていた。空気を読んだのか、カズヤはずっとリョウジ相手にどうでも良い話を続けている。リョウジは元から寡黙な性格なので、苦笑いしながら短く相槌を打っていた。
太陽が地平線に埋もれきる寸前で、3人はようやく市街地の外縁部に到着した。
* * *
キャンプファイアーというと楽観的に感じるが、焚き火は野生動物の脅威から身を守る重要なもの。義体化では暖を取るという必要性は薄いが、僅かな生体部分を維持する最低限の温度は必要である。義体用体内バッテリーの消費も避けたい。夜の照明としても必要である一方、野盗に自分たちの位置を知らしめるリスクもある。
3人はできるだけ壁に囲まれた廃墟を探して、完全に夜になってからようやく適度な場所を見つけた。月はおおよそ十三夜の月なので、漆黒の暗闇ではなかったのが救いだ。
「あー、鹿児島ついたら、さつまあげうどん食いたいっスよねぇ?」
カズヤの顔には表情が無い。口が無く眉も無いので表情を読み取る事はできない。ガンダムの顔が比較的近いだろう。カズヤ自身がデザインしたその顔は「やっぱ俺サマ、カッケー!」といって自画自賛している。サブカルチャーというよりはポップカルチャー寄りのセンスだろう。
「そんなもん残ってるなら、夏のボーナスくれてやるよ」
「チーフのボーナス額っていくらっスか?」
「72万5千」
「……安いっスね。渋いんだな、うちらの会社」
「ま、
そこに珍しく、ぼそぼそといった声でリョウジが会話に参加した。
「まぁ、ここ数年貰ってませんけどね」
「鈴城サン……オレラって、もう未来永劫貰えないっスよねえ? ねぇ!?」
「ですね」
シンジは「そんなのケツを拭く紙にもなりゃしねぇぜぇ!」という、モヒカン頭で世紀末覇者に殺されるキャラを思い出していたが、残念ながらこの荒廃世界では見たことがない。
第一、彼らが乗り回していたアメリカンバイクの方が、自分のボーナス額より高価なものという皮肉に、思わずクスっと笑いが溢れた。
その瞬間、突如としてリョウジの顔に緊張が走り、咄嗟に銃を手に取ろうとしたが、聞いたことのない大声で、動きを止められた。
「
ここで急に振り向くと高確率で撃たれると経験則で感じ取り、3人はゆっくりと声の方へ体ごと視線を向けた。
56式自動歩槍(古い自動小銃)の銃口をこちらに向けている女が居た。
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