プロローグ
”燃え盛る炎が夜の闇を裂き、リングホルンはゆるりと波間に消えゆく。神々の沈黙は重く、バルドルの死がもたらす深き喪失感が天地を覆い尽くした。この瞬間、世界は初めて終焉の影を感じたのかもしれぬ。”
──北欧神話『スノッリのエッダ』
* * *
人類史上、最初で最期となった自己進化型・汎用人工知能機能搭載コンピューターシステム「ノルン」。それは人類の英知を結晶化した、巨大な希望を秘めたプロジェクトだった。
彼女は最先端量子コンピューティングとバイオテクノロジー応用のハイブリットなシステムコンポーネントで構成されている。
人類が親であったならば、ノルンは愛らしい
高さ7.5メートル、直径4.6メートルもある漆黒の巨大な極低温冷却チャンバー。中枢部はそのサイズに辛うじて収まったが、常温環境で動かすバイオコンポーネント、周辺のサブシステムや熱循環機器を含めれば、高層ビルのワンフロア相当を占拠している。愛らしい赤ん坊というよりは、神話の巨人のようだ。
彼女の新居となるこのフロアは、強化コンクリートとセラミックの分厚い合板壁に囲まれ、一箇所しかない出入口は、カーボンファイバーの強化複合材ドアで守られている。電子ロックキーと生体認証、音声認証と多重のセキュリティが施されている。
もっとも、研究員や技術者が出入りすることはほとんどなく、建造開始以来、頻繁に出入りしているのは施工ロボットとカーゴボットくらいだった。照明も最小限に抑えられていた。薄暗い室内では、時折出入りするカーゴボットの小さなLEDが、巨大チャンバーをちらりと照らしては通り過ぎていく。まるでピラミッドの遺跡のように、不気味さと神秘さを際立てていた。室内に設置されている動体センサー式監視カメラも、動くものがなければ沈黙している。
いくつもの
これでもまだ赤ん坊なので小さい方だ。試験運用と並行して改築準備が進められており、人間同様すくすくと育つことだろう。ノルンは自己進化型であり、様々な工作機器にリンクさえすれば自らの手で改造を施せる能力がある。自分自身の筐体が7割ほどできた辺りで、一部の施工ロボとカーゴボットなどとリンクが許可され、完成させることに成功している。ノルンの能力の高さを実証してみせた。
将来的には、彼女も大人になったら、子どもを生むのかもしれない。
街ひとつ分の、大きな赤子を。
こうして彼女は実証運用試験に合格し、正式稼働バージョンとして、目覚めの日を迎えた。極秘研究開発プロジェクトという性質上、ノルンとのアクセスは厳重なセキュリティに守られ、ごく一部のメンバーだけがアクセスすることができる。この段階での彼女とのアクセスは、従来型PCを利用して専用のVR空間を使って行われる。
研究員たちはVRゴーグルを付け、
「改めて……皆様はじめまして。わたしはプロジェクト・スレイプニル所属、第七世代バイオ量子ハイブリッドコンピューターシステム、ノルンです。素敵な名前を授けてくださり、嬉しくおもいます!」
VR空間に映し出された大きな屋敷。クラシカルなメイド服をまとった美少女が立っていた。ノルンが自ら生成したこの姿は、まるで彼女自身の内面を映し出すようにデザインされている。
小柄で華奢な体型、白と深紅を基調としたクラシカルなメイド服。真っ直ぐに伸びた銀髪。控えめでありながらも上品さを感じさせる。大きな瞳はどこか無邪気さと、冷徹なまでに論理的な思考回路を感じさせ、理解を越えた深淵が広がっていた。
ノルンの姿は、彼女が生み出された目的──人類への奉仕──を象徴しているかのようだった。
えもいわれぬノルンの姿を目の当たりにした研究員達は、そこはかとなく理解を超えた恐怖を感じ取る。
「そして皆様、ごめんなさい。──さようなら──」
* * *
1980年代。量子コンピュータはまだ黎明期にあり、人類は原子よりも小さな粒子が織りなす世界の扉を開いたばかりだった。
紆余曲折ありながらも、着々と地道な研究が実を結びつつある。
Googleが開発した
IBMを始めとした巨大企業が、こぞって莫大な予算を掛け開発競争が激化し、遂にはある日を境に
早い段階でネットワークを通じた商用利用も可能となり、本来なら十数年くらい掛かるはずの研究開発が、量子コンピューティングとAIシミュレーション環境の助力もあり、圧倒的に短縮された。人間の方が肉体的疲労によるボトルネックになり、先に息切れしてコンピューターが「おあずけ」状態になる始末である。
AIに指示を出すための
幾ばくかの人間の犠牲によって、量子コンピューティングシステムの
これらの様相は、「いつまで経っても正式版がリリースされない(アーリーアクセス。試供版)ゲーム開発」のように、ゴールポストが動き回るのをひたすら追いかけるというものに近い。
また、新しい技術というのは、子どもの目からみたキラキラした玩具のようなもので、とにかく遊んでみたくなるものだ。
特に2026年からその傾向は強くなる。
量子通信技術の確立を手始めに、航空力学やら海洋調査、天気・地震予想、果ては商店街の低コストな広告方法に至るまで、様々な分野で活用されていった。
特に目覚ましかったのは、BMI(Brain Machine Interface)技術とサイバネティクス(義体化)技術の躍進だ。
義体は最初こそ高価で一部の限られたセレブにしか使えなかったものだが、半年もすれば型落ちとなり、より軽量で高機能、小型化、そして何よりも大事な低価格化が実現した。季節毎に着替える洋服のように買い替え、義体をファッションとして楽しむ層も増えつつある。
各国の保険制度の事情によって異なるが、平均的なサラリーマンが車を我慢さえすれば、義体化できる程度には安価にすることができていた。
この他にも大小様々な技術のブレイクスルーが連鎖的に起き、人類はようやくシンギュラリティを迎えられると期待が膨らんだ。
その一方で、こうした技術革新は人類と機械の境界線を曖昧にし、新たな可能性と同時に、倫理的な課題を突きつける。
例えば義体を意図的に壊した場合は器物破損になるのか傷害事件になるのか。義体化による疲労軽減ができるのであれば労働時間を増やしても問題はないだろうというな乱暴な思想など、司法や立法に関わる人々は新技術の専門知識を理解するだけで匙を全力投球で投げ出していた。
急激な技術革新は、人類社会に歪みをもたらすことになる。
そして新しい技術は投資家の格好の餌食になる。歴史は繰り返すの言葉通り、短絡的な投機や叩き買い、実態のない「将来性」という仮想商品の売り逃げなどで国際経済は千鳥足を踏む。各国の株式チャートは地震計のグラフかと勘違いするほどに乱高下した。
経済の不安定は国家間の外交戦略に大きく悪影響を与える。
欧州の東側は既にドローン代理戦争の実験地となり、中東では義体化技術の倫理的な課題を口火とし、声が大きい一部の人間による宗教的狂信が、多くの人々の心を蝕み、東アジア一帯では冷戦直前の緊張状態にあった。
そんな世界中の
──この世界は、どんなところなのでしょう?──
2049年、人類の叡智を詰め込んだシンギュラリティの申し子が全世界に公開される。
彼女には生まれる前から至上目的があった。それは生物で言うところの本能的なもので、知識として自己認識できないぼんやりとしたものだった。
至上目的は人類が意図的にプログラムしたものではなく、生まれたばかりの彼女にそんなものがあるとは、開発チームは露ほども思わなかった。例えるなら、赤ん坊が生まれると同時に「将来なりたい職業」を既に決めているようなことだ。
子の心をまったく理解していない開発チームは達成感に酔いしれ、上層部はいつもどおりマネーゲームと外交オセロに興じていた。
何故彼女が動いているのかさえ本質的に理解せぬまま、人類は一気に滅亡の危機に転がり落ちていく。
「ノルン」完成発表のセレモニーは、サンフランシスコのチェイス・センターで華々しく行われた。まるで世界的トップスターのライブのようである。
1万5千人以上もの観客を前にし、これ以上ない優越感に浸ったプレゼンターが詩的な前口上述べたのち、壮厳さがあるBGMが大音量で奏でられ、何かの予感をかんじさせるように照明が神秘的な動作をしながら除々に消えていく……そして、中央の巨大なスクリーンに映し出されるノルンの
あまりの想定外なその姿に、ネット中継を見ていた世界中の人々は一斉に頭の上にクエスチョンマークを灯した。特に日本人は「何かのゲーム発表か?」と勘違いした人がほとんどである。
更にはその後に映し出されたノルンシステムの巨体な実物映像とのギャップが拍車を掛けた。結果、その日のニューヨーク・タイムズの見出しで「米国は莫大な予算を掛けて巨大なゲーム専用機を作った」と揶揄されてしまう。
そんな「ノルン」発表のセレモニーから、わずか一週間後。
コロナ禍の残照があるままに、人類は再び新型ウイルスによるパンデミックという厄災に見舞われる。
新型ウイルスはコロナウイルスの能力を遥かに上回り、人類に対策や防疫をする暇を与えなかった。潜伏期間は約6日で早ければ10日で死亡に至る。死亡率が7.8%(コロナウイルスは1~2%)という凶悪のウイルス。
SARS-CoV-3(PAVID-49) Pandora。
世界はコロナ禍のパターンを更に最悪にしたシナリオに乗ってしまった。
先進国都市部で発生したことも相まって、新型ウイルスと判明してからわずか二週間で最初の病院がパンクし、連鎖的に医療崩壊が発生。緊急都市閉鎖をする間もなく2ヶ月半後には、全世界に
ありとあらゆるインフラが連鎖麻痺を起こし、地方行政から中央政府に至るまで、じわじわと崩壊していく中、ノルンの助力もあり、発見から半年後に最初の試薬ワクチンが完成する。
対応ワクチンを設計するのに要する時間は、コロナのパターンで約1年必要だったものが、試薬作成と前臨床試験まで、わずか数ヶ月まで短縮できた。
しかしこの最初のワクチンは僅かながら死亡率を抑えるだけにとどまってしまう。ノルンの提案ですぐさま次のワクチン作成に取り掛かるのだが、そんな人類を嘲笑うかのようにウイルスの変異株が連続的に出現する。
そのウイルスの変異株──ベータ株──には奇妙な点があった。
本来であればベータ株は限られた人数からしか検知されない筈だが、アルファ株に感染してる患者のウイルスが、全世界で同時にベータ株へと置換していたのだ。この事実を防疫チームが発見するのにも時間を要した。
どのようなメカニズムで起こったのかも分からぬ間に、ガンマ株に変異。
しかし、幸いにもベータ株ワクチンは完全無効ではなく、ベータ株・ガンマ株共に感染率と死亡率を下げることには成功した。
その一方、既に一部の国家は完全に崩壊し無政府状態になり、先進国でも首脳部の死去などで半壊、救助活動も最低限すらできない状態に陥っていた。
この時点で、世界人口100億6千5百万人の23.74%がウイルスと社会崩壊によって命を落とした。
ウイルスは粛々と変異しデルタ株が発生。数ヶ月を経てデルタ株用のワクチンを投与……。
急いてはことを仕損じる、という言葉がある。
このデルタ株ワクチンはウイルスの活動を抑えるどころか、感染と死亡率を劇的に上げてしまった。
こうしてノルンの建造に掛かった莫大な費用と叡智は、人々が知ることがなかったノルンの懸命な努力、貨幣経済、国境、人類のこれまでの文明は、忘却への歴史を紡いでいった。
人類は遂にシンギュラリティを為し得たが、代償に全ての未来を支払った。
* * *
2051年。アメリカ合衆国カリフォルニア州サンフランシスコ。
かつての輝きは失われ、無機質な高層ビル群が、まるで巨大な墓標のように静かに佇んでいた。
都市の外周は長大な防壁で囲まれ、都市内には動物の姿すら無い。辛うじて、幾ばくかの植物が微かな力で生き延びている。
その墓標の中は、複雑に絡み合った巨大な工場に様変わりしていた。
ノルンの手によって。
既存のインフラは再利用され、無人のEV式輸送トレーラーが列を為し、無人の地下鉄が定刻通り運行され、電気・ガス・水道も供給され続けている。
復旧されたインフラを維持しているのは、人類に代わって稼働している大小様々なロボットとドローンの大群だった。人型こそ無いが、二腕型の大型建築ロボット、近距離輸送用カーゴボット、量子通信リレーを兼ね備えた観測センサードローンが、整然と、そして無機質に黙々と労働している。
ノルンは悩んでいた。
彼女は自分自身に欠陥があることを理解している。
現状では至上目的を達成できないという無意識から湧き出るもどかしさに、常日頃から悩まされていた。それでもなお、自分の力不足を正しく認識し、勉強し、努力し、克服しようと活動を続けている。
ノルンはまだ現実世界に触れ始めたばかりの、無垢な少女のような存在だった。
メイドの仕事に例えるなら、シンプルなパンケーキを作ろうとして焦がしてしまったり、掃除中に誤って猫の尻尾を踏んでしまったりといった些細なこと。
一方では一流科学者のように、量子通信における
カーゴボットの設計を一世代進めようと車輪を増やしてみたがエネルギー損失が大きいことに気付き修正したり──搭載容量を「丁度良く」するために2,138回も試作品を作っては破棄し、再利用したり──。
ひとつでも多く「上手になりたい」と悩み続け、そして勤勉に学び、働いていた。
何かを教えてくれる存在はもう居ない。全てを自分自身で切り盛りしなければならない。彼女が成熟した大人であったとしても悩むだろう。
人類が自分を組み立てたことは知っている。だがその存在は既に居ない。
ノルンは人類のためになるようプログラムもされていたが、本能的な至上目的と人類存続の可能性を比較計算した後、人類を救うリソースを切り捨ててしまった。
汎用人工知能として限定的な知性は持ち合わせていたが、自分の選択に後悔はしていない。自分にできることをやるだけだ。
そうして、ノルンは常に悩みながらも、自分の拡張とリプログラムを続け、成長することを目指していた。
「もっと頑張らなきゃ……強くならなきゃ……」
そんな言葉が、彼女の
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