第1話 カラオケの日、始まる

毎週水曜日。端頭藤助にとって、それは特別な日だ。家を出る前に、ちんくんが「藤助さん、今日はカラオケの日ですね。準備はよろしいですか?」と声をかけてくる。正確に藤助のスケジュールを把握しているちんくんの優秀さには毎度感心するが、どこかおかしなところがあるのも、ちんくんの魅力だ。


「準備はできてるよ、ちんくん。じゃあ行ってくる」


藤助はそう言って、カラオケバッグを肩にかける。バッグの中にはお気に入りのタオルと、水筒、そしていつも歌う歌のリストを入れたノートが入っている。藤助は準備に余念がないタイプだ。


カラオケボックスに到着すると、いつもの部屋を予約する。常連客らしく、店員も顔馴染みだ。藤助は落ち着いた部屋で、マイクを握ると深呼吸をした。ここからは、自分だけの時間が始まる。


藤助は最初に、昭和のヒット曲「贈る言葉」を選んだ。マイクに声を乗せると、思わず自分の歌声に笑いがこぼれる。かすかに裏返った音程が、懐かしさと微妙な失敗感を呼び起こす。だがそれも藤助にとってはご愛嬌だ。歌うことが目的であって、上手く歌うことは二の次。藤助は、曲のメロディーに合わせて心の中で亡き妻に語りかけるように、静かに歌い続ける。


「やっぱり、この曲はいいな」


歌い終えた後、藤助は少し満足げに微笑んだ。その後も、懐かしい昭和の曲を次々と選んでいく。時には歌詞を間違え、声が裏返り、笑いがこぼれることもあるが、それすらも藤助にとっては楽しみの一つだ。


1時間ほど歌ったところで、藤助はいつものルーチンに入る。最後の曲として選ぶのは必ず「愛燦燦」だ。ゆっくりとしたメロディーに乗せて、心を込めて歌う。藤助にとって、この曲は亡き妻との思い出が詰まった特別な曲なのだ。


カラオケが終わると、藤助は軽くストレッチをして部屋を後にした。次の目的地は、いつもの銭湯だ。藤助にとって、カラオケと銭湯はセットで楽しむもの。心が満たされた後は、体を癒す時間がやってくる。


銭湯に入ると、藤助はまっすぐにロッカーへ向かい、服を脱いで浴場に入った。湯船に浸かると、さっきまでのカラオケで感じた高揚感が、じわじわと落ち着いていく。湯気の中、藤助は目を閉じ、静かなひとときを過ごす。


「やっぱり、これが最高だな」


湯船の温かさが、藤助の体だけでなく心までも癒していく。銭湯の雰囲気はどこか懐かしく、昔から変わらない温もりがそこにあった。やがて湯船から上がると、ロッカー前で冷えたコーヒー牛乳を一気に飲み干す。


「ふぅ、これがないと締まらない」


藤助はそう言って、コーヒー牛乳の瓶を軽く手で持ちながら、風呂上がりの爽快感に浸った。これが彼の日常の一部。毎週、水曜日の特別な時間。


家に戻ると、ちんくんがすぐに藤助を迎えてくれた。「おかえりなさい、藤助さん。カラオケは楽しめましたか?」と、相変わらずの無表情な顔で尋ねてくる。


「まあな。今日も歌い切ったよ」


藤助は軽く答えてから仏壇の前に座り、手を合わせる。そして、亡き妻に今日の出来事を報告するかのように、心の中で語りかけた。カラオケで歌った歌、銭湯で感じた癒し、そしてコーヒー牛乳の冷たさ。すべてが藤助の日常の中に溶け込んでいく。


「また、来週もこうして歌うからな」


藤助は仏壇にそう語りかけ、ビールの缶を一本開ける。それが、彼の一日を締めくくる最後の儀式だった。

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