秘密は許さん~っ!


 その頃、信太郎はすりガラス越しに二人の声を聞いていた。


「すみません。

 主人にはこのこと、ご内密に。


 ……離婚されるか、手打ちにされるかもしれません」


「手打ちなら、離婚の方がよくないですか?」


 二人はかなり阿呆あほうな会話をしていたのだが、信太郎の耳にはまったく違う感じに聞こえていた。


 信太郎の頭の中では、みのりが自分には向けないような可愛らしい笑顔を誰だか知らない男に向けて、


「あなたと私だけの秘密よ」

と囁いていた。


 みのりにその心の声が届いていたら、


「いやいやいやっ。

 全然違うじゃないですかっ。


 私は、ぐったり憔悴しょうすいしきった様子で、主人にはご内密にと言ったんですよっ。


 しかも、この人、あなたを尋ねてきた、あなたの部下ですよっ」

と叫んでいたことだろうが。


 玄関先に男物の靴があったことで、すでに動転していた信太郎の妄想は何処までも広がっていっていた。


 俺がいない間に、誰か男が。


 ほんのちょっと出かけただけなのに、男が……。


「いやいやいやっ。

 だから、ちょっと出かけただけなんでしょ?


 今にも帰ってきそうな中で、浮気とかおかしいじゃないですかっ」

と妄想の中に現れたみのりが可愛らしく飛び跳ねながら、おのれの潔白を主張してはいたのだが。


 都合のいい妄想だ……と信太郎は、可愛く跳ねているみのりを頭から追い出してしまう。


 そうだ。

 俺のようなつまらない男と。


 どうかと思うような見合い写真を送ってくるような女ではあるが。


 実物は可愛くて愉快なみのりが結婚してくれるなんておかしいと思ってたんだ。


 その妄想を島村が訊いていたら、


「……恐ろしいくらい似合いの夫婦ですね」

と呟いていただろうが。


 全部頭の中で考えていただけだったので、誰もその妄想をいさめてくれるものはいなかった。


 俺がまだ指一本触れていないのに。


 ……いや、三本は触れたか。


 この間、みのりがキッチンで落とした鍋のフタを拾おうとしてよろけたときに。


 だが、神社で式を挙げたから、誓いのキスさえしていないのにっ。


 おのれ、みのり~っ。


 と誰だか知らない間男まおとこめ~っ。


 よろいを着て槍を持っているくらいの戦闘状態で信太郎はすりガラスの向こうから二人を眺めていた。





 一方、その頃、島村は、

「奥さん、すみません。

 お手洗い拝借してもいいですか?」

とみのりに言っていた。


「あ、はーい」

と言いながら、みのりは洗濯機からまず焼き鳥を出し、洗い直すことにする。


 あ、そうだ。

 ついでにシーツも洗っておこう。


 そうそう。

 洗いそびれたものがあるから、それも洗えばちょうどいいや、と気持ちを切り替え――


 というか。

 これでよかったんだ、とおのれをだまして、自分の失態との折り合いをつけながら、みのりは二階にシーツを取りに上がった。


 急いで信太郎のベッドのシーツを外していると、



 みしり……


   みしり……


と階段のきしむ音が聞こえてきた。


 誰かが上がってきているようだ。


 ん? 誰?


「島村さん?」

とみのりは振り返り言った。


 トイレにタオルがなかったとか?


 それとも、本が見つかったとか?

と思ったが、少し開いた寝室のドアから覗いていたのは島村ではなかった。


「寝室で誰を待ってるんだ……


 みのり」


 ゆっくりと開いたせいか、ぎいいいいい……と不気味な音を立てて寝室の扉が開く。


 窓のない暗い廊下に立っていたのは、悪鬼の表情をした夫だった。


「みのり……なにをコソコソしてるんだ。

 俺のいない間に……」

と呟くように言う夫の手には光るものがあった。


 玄関先に置いてあったシルバーのスマホだったのだが、今のみのりには凶器にしか見えない。


 なにこれ、ひいいいいいっ、とみのりが怯えたとき、ちょうど階下から、水の流れる音と、トイレの戸が開いて閉まる音がした。


 凶器(?)を手に、信太郎が下を見る。


「……まず、あっちをシメてやらなければな。

 お前はあとで……」


 ぐひひひひ、とは言っていなかったのだが、みのりの耳にはそう聞こえた。


 みのりの頭の中では、信太郎は包丁を手にした山姥やまんばになっていた。


 し、島村さんが殺されてしまいますっ。


 なんでだかわからないけどっ、と思いながら、みのりは慌てて信太郎を追いかける。





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