忍び寄るナニカ
一方、その頃、
「どうぞ、おあがりください。
リビングに小さな本棚がひとつあるんですけど。
あそこに読んでる途中の本なんかは入っているので、ちょっと見てみてください。
お急ぎでしょう?」
ととりあえず、産業スパイ疑惑のスマホは放っておいて、みのりは島村に上がるように言っていた。
だが、島村は照れて、
「いやあ、ご主人がいらっしゃらないのに上がり込むのはなんだか怒られそうで怖いですね」
と言ってくる。
「いやいや、別に気にしないと思いますよ」
とみのりは笑って、スリッパを出した。
では、失礼して、と島村はリビングに行き、隅にある本棚を眺めはじめる。
「お茶いかがですかー?」
とキッチンに行きながら、みのりは言ったが、
「いえいえ、とんでもない。
すぐに失礼します」
と島村はしゃがんで、下の方まで眺めていた。
「ないですか?」
とみのりがひょいと覗いたとき、玄関の方でまたスマホが鳴った。
ん? と振り返り、行ってみる。
「あっ、『松田部長』から着信してますよ。
仕事で急ぎの用事でしょうかね?」
みのりがそう言ったのを聞き、島村がやってきた。
「休みの日に部長がわざわざかけてくるなんて、そうかもしれませんね」
「島村さん、出てみてくださいませんか?」
「いやいや。
僕が勝手に出るのは。
仕事の着信でしょうから、奥さん、出ても大丈夫だと思いますよ」
とかなんとか二人で言い合っているうちに切れた。
ああっ、と棚の上のスマホを見て、みのりたちは叫ぶ。
「しまった~。
どうしましょうっ」
「いやあ、僕が携帯持ってればかけるんですけどね」
と島村が言う。
「お忘れになったんですか?」
「持ってないんです」
そんな人、この世にいたんですね……。
この人の方が余程なにか秘密がありそうですよと思ってしまう。
「いや、会社のは持たされてるんですけど。
休みの日には持ち歩きたくないので」
と島村が話している最中にメールが入ってきた。
棚のファイルの中の書類が移動されてて、場所がわからないという内容っぽかったが、文章が長くて下の方がわからない。
「そういえば、部長は今日、月曜から出張する関係で出勤されてるんですよ。
お急ぎなのかもしれませんね。
奥さん、メールだけチェックされてはいかがですか?」
メールしか見てないって僕が証言しますよと言われる。
「……でも、私、このスマホのパスワード知りません」
「9876543です」
「は?」
「主任のスマホのパスワードです。
みんな知ってます。
主任、スマホに資料入れてて。
めんどくさいとき、自分で開けて見ろってみんなに言うんで」
……秘密があるわりに、スマホは全世界に向けて公開中みたいな状態なんだな。
っていうか、そもそもパスワード自体がやる気がない感じだし。
やはり、なんの秘密もなさそうなんだが、と思いながらも、そのスマホに触るのは、なんだか夫の心の深い部分に触れてしまうような気がして、恐ろしく、
「ま、まあ、すぐにスマホ忘れたことに気づいて帰ってきますよ」
と言ってしまう。
帰ってきていた。
確かに、すぐそこに――。
「あ、そうだ。
本、さっき読んでたから、ソファのサイドテーブルの下とかにあるかもしれません」
と言って、みのりたちはまたリビングに戻る。
島村が本を探し始めたところで、
あ、そうだ、と気づいた。
二回目の洗濯、止まったところだった、と。
そして、洗濯機の蓋を開けたみのりは、やけにいい匂いがするなと思ったあとで、洗濯機を覗き込み、悲鳴を上げる。
「どうしましたっ?」
と洗濯機の中を覗き込んでいるみのりに島村が訊いてくる。
「……せ、洗濯物の中に、入浴剤と焼き鳥が」
みのりは慌ててキッチンのゴミ捨て場に行ってみた。
生ゴミ入れには靴下が、プラスチック用ゴミ入れには入浴剤の袋が捨てられている。
「あ~、靴下を手に洗濯機に向かってたら、電話かかってきて。
友だちと話しながら、ふと見ると、朝ごはんの焼き鳥の残りがテーブルの上に忘れられてたんですよ……」
「朝ご飯に焼き鳥ですか」
と島村が苦笑している。
ゆうべの残りです~、とみのりは力なく言った。
「焼き鳥の移動販売の匂いが書店の中まで漂っててつい……」
とまるでおのれの罪を告白するようにみのりは言う。
匂いにつられて焼き鳥を買いすぎてしまったことがすべての元凶のような気がしていたが。
いや、問題はそこではない。
「洗濯機に靴下、生ゴミ入れに固くなった焼き鳥を入れたつもりだったんですけどね~」
「ありますよね、そういうこと」
とほんとうにあるのかわからないが、同意気味に島村は言ってくれる。
「ところで、洗剤じゃなくて、入浴剤が入っていたのは?」
「ああ、それはうっかりです」
「……いや、どっちもうっかりですよね」
と言ったあとで、島村は、
「どっちかひとつならよかったですね」
と言ってきたが。
いや、ひとつでも全然よくない。
洗い直しだ。
みのりは、はは……とむなしい笑いをもらしながら、そこに信太郎はいないのに、小声で言った。
「すみません。
主人にはこのこと、ご内密に」
島村が笑う。
洗濯機のある脱衣場より少し先。
リビングのすりガラスの扉の向こうに立つ信太郎の影に、このときまだ二人は気づいてはいなかった――。
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