第10話 クリスタルの夜

 クリスはまず、自宅フロアのサニタリールームのランプを点灯させた。


 清潔なフェイスタオルを手に取る。ぬるま湯を含ませたタオルで優しく顔を押さえ、一日の汚れとともにストレスも洗い流していく。

 その後、冷たい水で顔を洗い、肌を引き締めた。最近は嬉しいことも多かったので、肌の調子が良い。


 次に丁寧に選んだ化粧水を手に取り、手のひらで温めながら顔全体に優しく押し込むようにしてなじませる。水分をたっぷりと含んだ肌は、徐々に生き生きとしてきて、表情も穏やかになる。

「……うん、上出来」


 そのあとでクリスは自室に戻り、部屋の一角にあるホワイトのドレッサー前に腰掛けた。

 栄養たっぷりの美容液を顔に点置きし、外側に向かってやさしくマッサージをしながら肌に馴染ませていく。最後に、保湿力の高いクリームを薄く塗り、肌のうるおいを長時間キープする。

 クリスの部屋は、昼下がりには穏やかな日差しが窓から差し込む、温もりある空間だ。今は深い闇を遠くにたたえて、空は夜の訪れを待っている。


 髪にも手をかけるクリスは、お気に入りのヘアオイルを手のひらに少量取り、毛先中心に軽くなじませてから、全体に均等に広げていく。

 このひと手間で、髪はしなやかさと輝きを取り戻し、指通りも滑らかになる。

「よいしょ、よいしょ〜」


 そういえば、柳はあのさらさらの髪をどう維持しているのかと聞いたことがある。それを聞いて驚いたものだった。

 自宅に置いてあるシャンプーとリンスを使って、後はよく乾かすだけだと彼は説明したのだ。クリスの努力など知る由もない彼は、男子にしては長めの髪を揺らしながら微笑んでくれたが、その瞬間だけはその微笑みが憎たらしくて仕方がなかった。


 そんなことを考えていると眉間にしわが寄ってきて、これではいけないと指で伸ばす。

「いけない、いけない……」


 今度ヘアオイルの一つでも使うように言ってみようと思いつつルーティーンを終え、鏡に映る自分の姿を見て、小さく微笑んだ。

「以上!」

 肌も髪も丁寧なケアによって、一段と健やかな輝きを放つ。このセルフメンテナンスの時間は、クリスにとって、自分自身を大切にすることの象徴であり、日々の忙しさの中での小さな楽しみでもある。


 部屋の照明はソフトで、どこか落ち着くような暖かみのある光を放っている。この照明のおかげで、部屋全体がより一層心地よい空間に仕上がっていた。

 窓から見える未来ノ島の景色を静かに眺めながら、一日を振り返った。

 穏やかな海と島の自然が夕日の光に照らされながら、平和そのものの光景を作り出している。


 彼女の目は、やがてデスク前の壁に飾られた写真たちへと向けられた。柳との赤ちゃん時代からの写真を中心に、家族や友人たちとの暖かな瞬間が写し出されている。

 これらの写真からは、クリスにとっての幸せな時間と、彼女を取り巻く人々の大切さが感じられる。特に柳との写真は、心に深く刻まれた、かけがえのない思い出の象徴なのだ。


 ベッドサイドに置かれたデバイスがふいに光を放ち始める。静かな部屋の中で、それはまるで小さな灯台のように、外の世界からのサインを出していた。

 クリスは、その突然の光にドレッサーから離れ、ラベンダーピンクで飾られたベッドに体重を預けた。そしてデバイスに手を伸ばしてメッセージの通知を確認する。


 AR画面を開くと、リリアと鞠也からのメッセージが表示されている。


『クリス、今度ネオトラ部の奴が柳とバスケしたいって言ってたんだけど、別にあの昼休みバスケってバスケ部と柳限定とかじゃないから大丈夫だよな?』

 リリアからの問いかけは、なぜかクリスを通して柳の都合を確認するようなものだった。クリスはその場で返信する。

『大丈夫だと思うけど。この前ユエンも飛び入り参加したみたいだし、声かけてみたら意外と普通に入れるんじゃない?』


『リリアちゃん、なんでクリスちゃんに聞くの?』

 鞠也が会話に参加する。それは当然の指摘のようだが、もうリリアが柳に関する確認を自分にしてくることは日常のことなので、クリス自身は気にしていなかった。


『いーじゃん、なんかアタシ苦手なんだよ、柳と喋るのが』

 人には相性というものがある。クリスはリリアが柳との相性の悪さを感じていることに気づいていたが、ふたりとも互いを嫌っているわけではないようなので、過度に近づけようとしないよう配慮することはあっても、介入するほどの問題ではないと思い放置していた。

 相性が悪いなら悪いなりの付き合い方をしたほうが、彼らにとっても心地が良いだろう。


『そうだっけ?』

 鞠也の返信に笑う。

 配慮が行き届いているようでいて、少しだけ考えの抜けている部分もある。鞠也の優しさはわかっているので、クリスはその指摘をすることもない。


『このあいだの昼休みバスケすごかったみたいだな! ユエンが入って、ゲームの勢力図が変わったって』

『長岡くんが、パワーバランスが変わるから編成に困ってるって言ってたよ』


 クリスはその試合のことを直接見ていたわけではなかったため、興味があった。

『すごかったのは知ってるけど、私その場にいなかったんだ』


 二人がその一言に食いついてきた。

『やだ、クリスちゃんに回ってないの?!』

『当然見てたと思われてるんじゃね?』


 直後に届いた動画に、クリスは指先で再生の指示を送る。

「……なにこれ、すご……」


 中庭近くの通路から撮影された動画らしい。

 ゴールとコート内を同時に映すことができるそのポジションは抜群に都合がよく、彼らの動きが一目瞭然だった。

 ユエンは柳を凌ぐ身長と、ネオトラバース全米優勝という経歴で注目されている。動画に入っていた野次馬たちの興奮した音声でそれがわかった。

 確かにユエンは背が高い。アメリカの高校にいたのなら、バスケットボールの経験は日本の高校にいる場合よりは多いだろうとも想像できた。


 柳は彼に負けじとボールを奪い、そして奪い返されていた。

 コート内のパワーバランスは完全に長岡、ユエン、柳の三人に傾き、チームメイトとのパスがうまく行かない柳は何度もボールを奪われた。既に結末を聞いていたが、つい手に汗握ってしまう。


「がんばれ……」

 やがてボールが弾けるというエンディングを迎え、動画は幕を閉じた。短く感想を送り、自分の中での感情を整理するように顔をあげる。


 かっこいい。やっぱり柳のことが、私は好きだ。

 真剣な表情。大声を上げることなく、しかし試合に集中して挑む姿。ボールを操って走る、その俊敏さ。

 男の子同士だから、柳もそんな表情ができるのだろう。……いいな、男の子は。


 デバイスを手にしたまま、クリスは再び窓の外を見つめる。

 夕暮れ時の景色が、リリアと鞠也からのメッセージと相まって、心に深い平和と喜びをもたらした。


◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


 日が暮れると、キッチンからはマックスの料理の音が、まるで小さな音楽のようにリビングに響き渡っていた。

 ソファに座るクリスの隣で、ジェムは幼稚園での出来事を興奮気味に話している。

 ジェムはまだ小さく、キッチンで兄を手伝うには、踏み台の高さがほんの少しだけ足らない。


「ようちえんのせんせいにね、ほめられたんだ」

 ジェムの声は部屋に満ち、その目は星のように輝いていた。

「何を褒められたの?」

 クリスが問うと、ジェムは「おえかきのじかんにかいた、おしろのえだよ。カラフルなはたと、そらにはたいようが……」と、その描いた世界を熱心に語り始める。

 クリスはその話を聞きながら、ジェムの頭を優しく撫でた。

「すごいね。お姉ちゃんに、今度見せて」


 キッチンから兄のマックスが声をかけた。

「今夜は何を食べたい? 特別リクエストを受け付けるよ」


 クリスは一瞬考え、提案する。

「お好み焼きは? ジェムがこの間、上手に焼けたでしょう。もう一回お姉ちゃんに作って!」

 ジェムはそのアイデアに飛びつき、「おこのみやき、やった!」と小さく歓声を上げる。


「いいね、それで行こう」

 戸棚から油を用意しながら、マックスが付け加える。

「ジェム、今日褒められたお城の絵、食後に見せてくれるかな?」

 ジェムは「うん!」と明るく答える。


 クリスはジェムを優しく抱きしめながら、彼女が描いた世界を想像していた。

 ジェムは苦手な箸を行儀よく使えるように練習中だ。幼稚園で配布されたらしい箸の正しい使い方のイラストを見ながら、お好み焼きを一生懸命に掴み上げようとしている。


「お好み焼きは重いから、そんなに大きいとお箸は難しいんじゃないかな」

 クリスはジェムの手元の惨状を見ながら、お好み焼きのカットに変更を試みる。

 既にジェムの手は先にかけられたソースとマヨネーズにまみれてしまっていた。小さな挑戦を応援したい気持ちは山々だが、このままだと彼女が食べられるお好み焼きの体積が小さくなる一方だと思い、助け舟を出すことにする。


 クリスはアメリカで生まれたが、その時は既に両親がこの未来ノ島への移住と開発を計画していたため、すぐに日本へと引っ越してきた。


 故に、彼女自身はアメリカ生まれというよりは日本生まれといった認識のほうが強い。

 時折アメリカに用事がある場合、親戚に合う場合にのみ飛行機に乗って遠くへ行くことはあるが、この島の生活に強い愛着がある。

 最新のテクノロジーと快適な環境、友人、生活の基盤がしっかりと築かれたここを離れることは、今のクリスには考えられないことだった。


 それにここには、柳がいる。

 生まれた家や親が違うというだけで、ほとんどきょうだいのような距離感のまま育ったふたりは、もうマックスやジェムと同じくらい、もしかするとそれ以上に近い存在かもしれない。

 今ここに柳がいて共に夕食を取ることになっても、家族全員違和感を感じることはないだろう。


「お姉ちゃんがジェムが持ち上げられるくらいまで小さくするから、こっちのお皿に乗せるね。ジェムはここからお箸で取って食べるんだよ」

 ジェムは苦戦していた箸と手をマックスに拭いてもらいながら、さらなるチャレンジにやる気十分だった。


「わかった! ジェムはこんどやなぎくんがきたとき、ちゃんとごはんをきれいにたべられるようにするの」

 その名前を聞いた途端、クリスが少しぎくしゃくと動き出す。

「え……柳?」

「ンッフゥ……!」

 マックスが黙っていられずに吹き出す。マックスは柳に関する全てに過剰に反応してしまうクリスをからかうことが最近のマイブームなのだ。迷惑な趣味はやめてもらいたい。

 心中を見抜かれていると察したクリスはマックスを見上げ、目線で抗議した。しかしマックスの意地悪は止まらない。


「クリス、ジェムが描いたお城の絵、まだ見てないよな?」

「ご飯の後に見せるって言ってたよね」

「ごめん、ジェム。俺さっき見えちゃったんだけど、お城の絵をクリスに見せてあげてもいいかな?」

「んー、わかった。とくべつね」

「ありがとな。はい、クリスこれ」


 そこには金髪の長い髪、水色の瞳をしたお姫様が、髪を茶色いクレヨンで描かれた王子様と一緒にお城に立っている絵が描かれていた。

「クリスちゃんとやなぎくんだよ」


 クリスは顔を赤くして見入る。

「じぇ、じぇむ、これ……」

「けっこんしき」

 あまりにも直接的な表現にクリスは動揺を隠しきれない。

「クリス、お前今、とんでもなくおもしろい顔してるぞ!」


 クリスは言葉がうまく出てこず、丁寧にテーブルにその絵を置くと立ち上がって、そばにあった雑誌を丸めて兄の後頭部を叩いた。

「すげー音!」

 マックスは楽しそうに笑っている。人の気も知らないで! 人の気も知らないで!


 ジェムのいるこの場で過激な言動は控えようというお姉ちゃんルールに縛られたクリスは、憮然としたまま自分の椅子に戻った。

「あー、クリスちゃんいけないんだぁ、ぶっちゃだめなんだよ」

「ジェム、大丈夫。今のやつは『ツッコミ』っていうんだ。力の加減がわかる大きい子だけができる、日本の伝統だよ」

「つっこみ?」

「そー。ジェムはまだ小さい子からダメだよ」

「わかったー」

 そしてクリスはジェムのぶんの皿をスライドさせて、ホットプレートから自分のお好み焼きを切り分け始めた。


◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


 自分自身のケアを終えた後、彼女は部屋の中心にあるベッドにゆったりと腰掛ける。そのベッドはラベンダー色のリネンで覆われており、部屋全体の穏やかな雰囲気と見事に調和している。


 ベッドサイドには愛らしいぬいぐるみたちが並んでおり、それぞれが部屋のインテリアを損ねないように、繊細に選ばれた色彩で彩られている。

 ぬいぐるみたちはクリスにとって大切な存在であり、安心感と慰めを与えてくれる。


 一番気に入っている垂れ耳の犬を抱きしめ、クリスは布団に入った。

「……王子様……」

 童話に出てくる王子様? 日々増してゆく恋心に当てはめるには、柳はクリスにとって身近すぎる。


「……そうかな、でも……王子様の側にいるには、お姫様になるしかないのかな」

 クリスの知る古典、ファンタジーなストーリーたち、童話は皆、お姫様が王子様と一緒に幸せになるストーリー。

 身分違いの恋の場合はどれも波乱万丈で、ハッピーエンドを迎えたとしても、そこに犠牲や妥協が挟まれることが多い。


 クリスは、空想の物語であると思いつつ、そこに自分と柳を当てはめることはできないでいた。

「確かに王子様みたいにかっこいいけど、柳は王子様って感じじゃないよな……」


 ぬいぐるみの耳を触りながら、柳の髪を思い出す。顔の横に垂れる耳は、彼の髪型に似ていた。その布地の感触は皮膚を柔らかく刺激する。

 そうしているうちに瞼が重くなり、翌朝を迎えるまで、クリスは温かい布団で大好きな王子様の夢を見ていた。

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