「あーあ! 心配して損したよ〜」


 彼は先ほどまでの真面目な雰囲気が消え失せ、完全にチャラチャラ君へと戻った。


 なんなんだ、この二面性は……。


「ごめんなさい。まさかあんなに元気だとは……」


 祖母を見送った後、私達2人は今日宿泊するホテルに向かって歩いていた。


 一応言っておくと、シングル2部屋だ。一緒の部屋には泊まらない。


 ふと、先ほどの彼と祖母の会話を思い出した。確か彼は、大和とは名乗らなかった気がする。


「あの! さっきおばあちゃんに、みお?って名乗ってませんでした?」

「あー、俺の本当の名前! 大和はバイトする時の偽名だからね」


 彼は学生証を見せてくれた。魚の住む水に桜。なるほど、これで「うおずみみお」と読むのか。


「学生証見せて良かったんですか?」

「うーん……お姉さん無害そうだからイイよ!」


 水桜君はニコッと笑った。


 無害そうって! まあ無害ですけど! 


「水桜君って頭良いんですね……」


 彼の学生証は、一流と呼ばれる大学のものだ。頭良いなんて意外だな〜。


「意外だった〜?」


 水桜君は目を細めて茶化すように言った。


「へ?! 意外だなんてそんな……」


 思ったけど。本当は思ったけど。


「お姉さん目がめっちゃ泳いでる! 超ウケるんだけど!」


 水桜君は声を出して笑った。笑いすぎて涙が出ている。


「ご、ごめん!! ごめんなさい!!」

「いや、良いよ。素直な方が俺は好き」


 え……好き? だめだめ私、落ち着きなさい。これは営業トークだ。そうに決まっている!! 決まっている!!


「お姉さんにとって凄くても、俺にとっては……」

「ん? 今何か言いました?」


 好き発言についてゴチャゴチャ考えていたせいで、聞き逃してしまった。


「なんでもないよ!」


 水桜君は笑った。笑っているけど……。


 私は心がざわっとした。しかし本人がなんでもないと言うのなら、これ以上詮索しない方が良いのかもしれない。


 ここは話題をずらそう。


「あの! 水桜って名前、とっても素敵ですよね! 綺麗だなって思います!」


 私は微笑んだ。


 そして想像する。


 澄んだ池の水に、桜の花が浮かんでいる。はらはらヒラヒラと新しい花びらも次から次へと舞い降りて。そこには色とりどりの魚も住んでいるのだ。


 私は笑みを深めた。


 うん、やっぱり美しい。


「え……?」


 水桜君は目を見開いた。


 表情を例えるなら、驚愕!!が一番しっくりくる。


 なんで? どうして? 名前の話も避けるべきだった?


「な、何か気に障ること言ったならごめんなさい!」


 私はバッと頭を下げた。


「いや、そうじゃないんだけど……」


 水桜君はぷいっとそっぽを向いてしまった。私からは彼の表情が見えない。せっかく話題を変えたけど、失敗だったかな?


「あ、ホテル着いたね。俺あのコンビニで買い物するからお姉さん先行っといて!」


 水桜君は早口で言うと、すぐそばのコンビニに駆け出して行った。それはもう、一目散に。


「なんだかな〜」


 彼の背中を少し眺めてから、私は小さく溜息をついて、ホテルのロビーに入った。エアコンの風が涼しい。生き返る。それにしても外は暑かった。気温はさほど変わらないはずなのに、九州は関東よりも暑い気がする。太陽という熱源が近い気がするのだ。気のせいだろうけど。


「あ、荷物」


 祖母に会いに行く前、私達は一度ホテルに寄って大きな荷物を預けた。その荷物を引き取ろうと思ったが、引換証は水桜君が持っている。しょうがない。なんとなく気まずいけど、彼の買い物が終わるまでロビーで待っておこう。



「灯ちゃん?」


 背後から誰かに名前を呼ばれた。


 私は振り向いて……息が止まった。


 随分と痩せてシワも増えていたが、この人が誰か、私はすぐに分かった。分かってしまった。約10年の月日が過ぎても、母との間には見えない鎖があるのだ。


「灯ちゃんよね……? 灯ちゃんも寿美子さんのお見舞いに来たの?」


 母は祖母を毛嫌いしていたから、お見舞いには来ないと踏んでいた。だからこうして会うことはないと思っていたのだが。


「ねえねえ灯ちゃん……」


 母は不気味なくらい笑顔だ。小走りで私のすぐ目の前までやってくる。


「なんとか言いなさいよ!!!」


 持っていた鞄を床へ投げつけ、母は大声で怒鳴った。私は肩をビクッと揺らし、身をすくめる。彼女は先程までの笑顔が消え、今は鬼の様な形相である。


「この出来損ない!! 出来損ない!! 出来損ない!! 出来損ない!!」


 母は自身の頭をかきむしった。綺麗にセットされた髪は乱れ、見る影もない。


「お前のせいで……お前のせいで……」


 母が鞄から落ちたペンを握って振り上げる。私は、過去の恐怖が蘇り、全く動けずにいた。


 振り下ろされる腕がやけにゆっくりに見える。避けなければと思うのに、頭がぼーっとする。



「あーあ、そういうことか」


 誰かが私の腕を掴み、グッと後ろに引いた。そして、よろめいた私を自身の方へと抱き寄せる。


「お姉さん、ケガしてない?」


「みお……く……ん」


 私は彼の顔を見上げた。


「うん? な〜に?」


 水桜君の声は優しい。


 私は次の言葉を発しようとしたが、喉の奥が詰まったかのように何も出てこない。私は苦しくて気持ち悪くて、下唇をグッと噛んだ。


「お姉さんダメだよ。血が滲んでる」


 水桜君は私の唇を指先で優しく撫でた。


 私は驚いて、はっと息を呑む。


「お姉さんは良い子だね」


 結果として下唇は離したので、水桜君は満足そうに微笑んだ。


「でもまだこっちが解決してないから……」


 水桜君はスッと目線を下に向けた。


 私も彼に釣られるように視線を母に移す。


「灯のせいで、私が、こんな目に……」


 母はペンを振り下ろした勢いで転び、床に強く身体を打ちつけたようだった。ブツブツと何かを言って、虚な目で頭を何度も床に打ちつけている。


 もう私のことなんて見えていないのかもしれない。


「申し訳ありません! 申し訳ありません! 私が目を離した隙に、妻が何か大変なご無礼を」


 男性が息を切らしながら慌てた様子で走って来た。


 随分と白髪が増えたな。


「お父さん……」


 父は幽霊でも見たかのように表情を歪めた。

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