五
「あーあ! 心配して損したよ〜」
彼は先ほどまでの真面目な雰囲気が消え失せ、完全にチャラチャラ君へと戻った。
なんなんだ、この二面性は……。
「ごめんなさい。まさかあんなに元気だとは……」
祖母を見送った後、私達2人は今日宿泊するホテルに向かって歩いていた。
一応言っておくと、シングル2部屋だ。一緒の部屋には泊まらない。
ふと、先ほどの彼と祖母の会話を思い出した。確か彼は、大和とは名乗らなかった気がする。
「あの! さっきおばあちゃんに、みお?って名乗ってませんでした?」
「あー、俺の本当の名前! 大和はバイトする時の偽名だからね」
彼は学生証を見せてくれた。魚の住む水に桜。なるほど、これで「うおずみみお」と読むのか。
「学生証見せて良かったんですか?」
「うーん……お姉さん無害そうだからイイよ!」
水桜君はニコッと笑った。
無害そうって! まあ無害ですけど!
「水桜君って頭良いんですね……」
彼の学生証は、一流と呼ばれる大学のものだ。頭良いなんて意外だな〜。
「意外だった〜?」
水桜君は目を細めて茶化すように言った。
「へ?! 意外だなんてそんな……」
思ったけど。本当は思ったけど。
「お姉さん目がめっちゃ泳いでる! 超ウケるんだけど!」
水桜君は声を出して笑った。笑いすぎて涙が出ている。
「ご、ごめん!! ごめんなさい!!」
「いや、良いよ。素直な方が俺は好き」
え……好き? だめだめ私、落ち着きなさい。これは営業トークだ。そうに決まっている!! 決まっている!!
「お姉さんにとって凄くても、俺にとっては……」
「ん? 今何か言いました?」
好き発言についてゴチャゴチャ考えていたせいで、聞き逃してしまった。
「なんでもないよ!」
水桜君は笑った。笑っているけど……。
私は心がざわっとした。しかし本人がなんでもないと言うのなら、これ以上詮索しない方が良いのかもしれない。
ここは話題をずらそう。
「あの! 水桜って名前、とっても素敵ですよね! 綺麗だなって思います!」
私は微笑んだ。
そして想像する。
澄んだ池の水に、桜の花が浮かんでいる。はらはらヒラヒラと新しい花びらも次から次へと舞い降りて。そこには色とりどりの魚も住んでいるのだ。
私は笑みを深めた。
うん、やっぱり美しい。
「え……?」
水桜君は目を見開いた。
表情を例えるなら、驚愕!!が一番しっくりくる。
なんで? どうして? 名前の話も避けるべきだった?
「な、何か気に障ること言ったならごめんなさい!」
私はバッと頭を下げた。
「いや、そうじゃないんだけど……」
水桜君はぷいっとそっぽを向いてしまった。私からは彼の表情が見えない。せっかく話題を変えたけど、失敗だったかな?
「あ、ホテル着いたね。俺あのコンビニで買い物するからお姉さん先行っといて!」
水桜君は早口で言うと、すぐそばのコンビニに駆け出して行った。それはもう、一目散に。
「なんだかな〜」
彼の背中を少し眺めてから、私は小さく溜息をついて、ホテルのロビーに入った。エアコンの風が涼しい。生き返る。それにしても外は暑かった。気温はさほど変わらないはずなのに、九州は関東よりも暑い気がする。太陽という熱源が近い気がするのだ。気のせいだろうけど。
「あ、荷物」
祖母に会いに行く前、私達は一度ホテルに寄って大きな荷物を預けた。その荷物を引き取ろうと思ったが、引換証は水桜君が持っている。しょうがない。なんとなく気まずいけど、彼の買い物が終わるまでロビーで待っておこう。
「灯ちゃん?」
背後から誰かに名前を呼ばれた。
私は振り向いて……息が止まった。
随分と痩せてシワも増えていたが、この人が誰か、私はすぐに分かった。分かってしまった。約10年の月日が過ぎても、母との間には見えない鎖があるのだ。
「灯ちゃんよね……? 灯ちゃんも寿美子さんのお見舞いに来たの?」
母は祖母を毛嫌いしていたから、お見舞いには来ないと踏んでいた。だからこうして会うことはないと思っていたのだが。
「ねえねえ灯ちゃん……」
母は不気味なくらい笑顔だ。小走りで私のすぐ目の前までやってくる。
「なんとか言いなさいよ!!!」
持っていた鞄を床へ投げつけ、母は大声で怒鳴った。私は肩をビクッと揺らし、身をすくめる。彼女は先程までの笑顔が消え、今は鬼の様な形相である。
「この出来損ない!! 出来損ない!! 出来損ない!! 出来損ない!!」
母は自身の頭をかきむしった。綺麗にセットされた髪は乱れ、見る影もない。
「お前のせいで……お前のせいで……」
母が鞄から落ちたペンを握って振り上げる。私は、過去の恐怖が蘇り、全く動けずにいた。
振り下ろされる腕がやけにゆっくりに見える。避けなければと思うのに、頭がぼーっとする。
「あーあ、そういうことか」
誰かが私の腕を掴み、グッと後ろに引いた。そして、よろめいた私を自身の方へと抱き寄せる。
「お姉さん、ケガしてない?」
「みお……く……ん」
私は彼の顔を見上げた。
「うん? な〜に?」
水桜君の声は優しい。
私は次の言葉を発しようとしたが、喉の奥が詰まったかのように何も出てこない。私は苦しくて気持ち悪くて、下唇をグッと噛んだ。
「お姉さんダメだよ。血が滲んでる」
水桜君は私の唇を指先で優しく撫でた。
私は驚いて、はっと息を呑む。
「お姉さんは良い子だね」
結果として下唇は離したので、水桜君は満足そうに微笑んだ。
「でもまだこっちが解決してないから……」
水桜君はスッと目線を下に向けた。
私も彼に釣られるように視線を母に移す。
「灯のせいで、私が、こんな目に……」
母はペンを振り下ろした勢いで転び、床に強く身体を打ちつけたようだった。ブツブツと何かを言って、虚な目で頭を何度も床に打ちつけている。
もう私のことなんて見えていないのかもしれない。
「申し訳ありません! 申し訳ありません! 私が目を離した隙に、妻が何か大変なご無礼を」
男性が息を切らしながら慌てた様子で走って来た。
随分と白髪が増えたな。
「お父さん……」
父は幽霊でも見たかのように表情を歪めた。
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