なにが勇者だよ

小土 カエリ

第1話 プロローグ もう勇者はいらない

「勇者によって魔王が倒されました!」

 この知らせを聞いて喜ぶ人は、どんな人だろうか。

 魔王を討ち取った勇者かもしれない。彼を支えた仲間たち、国王、戦い続けた兵士、長い戦争で苦しんだ人々…誰もが平和の訪れを願い、喜びの声を上げただろう。


 全ての人間が歓喜に湧いた…はずだった。


 ただ、一つだけ言えることがある。


 その瞬間、魔王を討てなかった他の勇者たちは、皆等しく喜ばなかった。


 すぐに笑顔を浮かべて取り繕った者、己の力不足を嘆いた者、魔王城まであと一歩のところまで手をかけていた者。

 全員の頭によぎった。


「ああ、もう真の勇者にはなれないのか。」


 土砂降りの雨の中、一人の魔族との戦いを終えて帰ってきた男も、そう考えてしまった。重い足取りで歩く男は、雨に濡れた鎧を軋ませながら、魔族との戦いの傷跡をその身に残していた。

 横にいる仲間がポツリとこぼす。

「これが現実だよ。目は覚めた?」

 男も勇者として、ずっと戦っていた。いつか自分が魔王を倒すのだと夢を見ていた。だが、その夢は遥かに高く、男に手が届くものではなかったらしい。

 二人は休むために宿屋へ向かう。入口のカウンターで二人分のお金を払って、渡された鍵の部屋に向かう。部屋に着くまでの間、二人が何かを話すことはなかった。

 濡れた全身を魔法で乾かしてもらい、装備を外していく。仲間にも普段着に着替えてもらったところで、ようやく男はベッドに腰を下ろす。

「それじゃあ、君のことを聞かせてもらおうか。」

 椅子に腰かけた仲間のエルフはそう問いかけてくる。

 男は少しの間だけ目を閉じて、かつての記憶を遡る。

 ここまで来るのも長かった。いや、むしろその長さこそが、男の才能の無さの証明と言えるかもしれない。

 男は口を開く。これから始まるのは、愚かな彼の過去の話だ。


 赤髪の男の子は今日も熱心に祈りを捧げる。平和な日々を送れていること。自分が恵まれた生活をしていることへの感謝も、余すことなく伝えていた。

「ウァラク?」

 名前を呼ばれた男の子────、ウァラクは振り返る。そこには一人の若いシスターが立っていた。

「お母さん、おはよう。」

 まだ二十代に見える金髪の女性は、柔らかい笑みを浮かべながら近づいてくる。彼女の名前はエノール。この教会兼孤児院で孤児たちの世話を任されている。

「はい。おはようございます。今日も早いわね。まだ朝のお祈りは来なくてもいいと言ったのに…よく寝ないと、大きな子になれませんよ?」

 エノールは困ったような顔をしながら、ウァラクの隣に腰かける。

 二人がいるのは孤児院に併設された礼拝堂だった。左右に設置された長椅子。赤く彩られた身廊。その先に静かに佇むシックな祭壇。白いコウモリ天井の左右には、大きなガラスがはめ込まれている。差し込む日の光は暖かく、朝の訪れを告げていた。

「十分寝てる。それに、お祈りは大切なことなんでしょ?お母さんがやってるなら、俺もやりたい。」

 ウァラクのその純粋な瞳を見ると、エノールは彼のことを抱きしめる。

 エノールはウァラクが無事に成長してくれることを毎日祈っていた。教会の教えで男女の安易な接触は推奨されていない。そのせいで、彼女は抱きしめたくなる思いを何度も押し殺してきたのだ。

 しかし、ウァラクの無邪気な姿に、エノールの心が温かく包まれ、堰を切ったように愛情が溢れ出した。

「あなたは本当にいい子ですね。その行いに、神もお喜びになると思うわ。」

 二人以外には誰もいない。時間的にも他の教徒に見られる心配もない。エノールの心に積もっていた愛情が、そっと溢れ出してしまった。

 エノールは初めてウァラクに出会った日を思い出す。

 彼は孤児だ。ある日、いつものように礼拝堂を開けようとすると、扉の前に置かれた揺り籠が目についた。中には使い古された布で巻かれた、一人の赤子が眠っていた。

 布の隅に、『ウァラク』と書いてあった。

 それ以外のメッセージは何もなく、周りに人の姿も無かった。

(捨て子…)

 エノールはその赤子を抱きとめると、司教の元に連れて行った。彼女は赤子をここで育ててもいいか掛け合った。

 彼女の願いは聞き入れられ、ウァラクは他の孤児たちと一緒に育てられた。

 血の繋がりがないことなんて、エノールには大した問題ではなかった。大切なのは接し方だ。彼女は溢れんばかりの愛を持ってウァラクを育てた。そして、それに応えるようにウァラクは真っ直ぐに育ち、他の子の規範になるような真面目な子になってくれた。

 その真面目さが少々行き過ぎているのはないか、と考えたこともある。

 ウァラクは、他の子どもたちが遊び回っている間も、礼拝堂で祈りを捧げていた。鍛錬にも真剣に励み、正に模範的な教徒だった。

 だが、ウァラクはその真面目さを、他者に強要することはなかった。

 教会の教えを守らない子に対して、注意はしてくれる。でも、そこまでだ。ウァラクにとって、教えとは自分を守るものであり、他者に押し付けるものではなかった。彼は自分の信じていることを、他人が信じていようがいまいがどうでもいい、という感じだった。

 ウァラクにとって、教会の教えは自分の道標であり、心の拠り所なのだ。

 エノールはその理由を聞いたことがある。

「俺は教会が絶対に正しいって信じてる。俺がこんな生活を送れているのは、教会があったからだ。教会の教えを無視する奴らは、まだ気づけてないだけ。俺はあいつらも注意し続ければ、いつかは自分で気づいてくれるって信じてるんだよ。」

 ウァラクはそう言って、笑っていた。

 この子は他者に考えを強要するのではなく、あくまで自分で気づくことに重点を置いているのだ。

 子供というのは自分の考えが受け入れられないと、すぐに癇癪を起す。実際、他の同年代の孤児はよくわがままを言っていた。それが聞き入れてもらえないと、よく泣いたり怒ったりしたものだ。

 ウァラクにはそれがない。現実を淡々と受け入れることができる子なのだ。そして、その心の中心には教会への絶対的な信頼がある。

 エノールはそれが嬉しかった。自分が育てた子供が教会の教えを信じてくれているのが、何よりの喜びだったのだ。

 孤児院で育てられた者は大人になると、役目を与えられる。ある者は開拓村に司祭として派遣される。またある者は聖騎士として、教会の権威の象徴になる。

 今は幼いここの孤児たちも、いつかは旅立っていくのだ。

 ウァラクにどんな役目を戴くのかはまだわからない。

(ずっと、この子たちの成長を見守らないと。)

 エノールのウァラクを抱きしめる手に力が籠る。

「お母さん?大丈夫?」

 ウァラクは胸の中でエノールのことを見上げていた。

 愛おしい存在だ。ここの孤児たちのことは全員愛している。それは変えようのない事実だ。分け隔てなく全員に愛を注いてきたつもりだ。

 でも、エノールにとって、ウァラクは特別なのだ。

 あの日、この子を見つけたのは、紛れもなくエノールなのだから。

「大丈夫よ。さてと。そろそろ皆が起きてくる時間ね。折角だし、お母さんと一緒に、もう一度お祈りしてくれる?」

 エノールは懐中時計に目を落とし、いい時間になっているのを確認する。

「うん。」

 ウァラクは笑顔で頷くと、祈りを再開する。それを見たエノールは少しだけ悲しそうな顔をして、目を閉じる。

(女神様、どうか私に、もう少しだけ時間をください。この子たちの全ての旅立ちを見送るまでの時間を、どうか…)

 礼拝堂に訪れた静寂は、まるで世界が彼らの祈りに耳を傾けるかのように感じられた。窓から差し込む朝の光が、静かに輝く祭壇を包み、彼らの祈りが穏やかな空気に溶けていく。

 二人だけの空間は、ゆっくりと進み続ける。

 エノールはウァラクと共に過ごす時間を噛み締めながら、祈りをささげるのだった。

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