第6話 碧斗の想い

 夏葉から聞いた過去の話は確かに壮絶で、幼い子どもには大きなダメージになるものだと思った。


 子どもの世界はすごく狭い。

 自分がいて家族が居て、学校の友達が居て、先生がいる。

 その程度だろう。


 この狭い世界の中で大人という存在は絶対的な存在に思える。なんでも知っているように見えるし、できるように見える。

 そんな大人から、自分を否定されたら本当に心が壊れてもおかしくない。


 夏葉ならば、もうピアノなんて見たくない。その音も聞きたくないなんて言う風になったっておかしいとは思わない。


 でも夏葉は違った。

 彼女は強い心を持っていた。

 だから自分では弾けなくなってしまったのに、楽器の手入れを続けられたし、その音を聞き続けることもできた。


 だから僕は強引にでもなんでも、もう一度彼女にピアノを弾いて欲しいと思った。


 夏葉はよろよろと、でもその足は確かにピアノに向かっていった。


 いつの間にか彼女の手にはボロボロで今にも破れてしまいそうなそんな楽譜が握られていた。


 椅子に座り、何百、何千と繰り返されたかのような動作で夏葉は楽譜を広げる。


 程なくして、夏葉は鍵盤をなぞるように優しく弾き始めた。


 ……なんだよこれ。


 僕なんかよりよっぽど上手いじゃないか……。

 なのに、なのにどうして君はそんなに自信がなさそうに弾くんだ。


 夏葉の奏でる音は、彼女の言う通りやさしさが感じられた。

 

 音の繊細さ、重厚感などの表現力。

 ペース、テンポなど技術面はさすがの一言。


 だからこそ、だろうか。

 今の彼女の演奏では、彼女自身の自信のなさが目に見えて溢れてしまっている。


「どう、かな?」


「すごいの一言だよ。僕より全然うまい」


 思ったことを素直に伝える。


「いや、そんなことないよ。碧斗の音に比べたら私の音なんて……」


 夏葉に言われてハッとする。

 僕の音に会って夏葉の音にないもの。


「ねえ、夏葉。夏葉はさ、今ピアノ弾いててどうだった?」


「どうって……ミスしないように、あの日のお父さんの音を目指して、真剣に弾いてたよ」


「うん、そうだよね。その感じはよく伝わって来たよ。でもさ今、楽しかった?」


「え?」


 夏葉は拍子抜けと言った顔をしている。

 だが、数秒立って僕の言葉が飲み込めてきたのか、だんだん思案顔になっていった。


「どうかな?」


「……あんまり楽しかったとは思わない、かも」


「うん、実は僕にもそう見えたよ。夏葉の演奏は技術面で見たら、僕なんてはるかに及ばない卓越したものがある。これは間違いないと思う。でも、それ以上に僕と夏葉の演奏で違う所は奏でることを、自分の奏でた音を楽しめているかどうかなんじゃないかな?」


 もしかしたら夏葉は自分の音を無意識に無視しながら演奏をしているのかもしれない。

 自分の音を聞かずにあのレベルの演奏ができているのだとしたら、それはそれですごいのだけど……。

 それでも、自分の音を好きになって楽しみを持ちながら演奏できるようになれば、その音は本当の意味で彼女の、夏葉の音になるはずだ。


「……そっか、私、両親や聞いてくれる人に認めてもらいたいってその一心でピアノを弾いてた。まあ、あの発表会以降、人に聞かせたのは初めてなんだけどね」


 そう言って笑って見せる彼女からは無理して笑っている様子が伝わってきたが、この無理は過去を乗り超えるためには必要なものだろう。


「僕のピアノに合わせて歌ってくれているときはどんな気分?」


「すごく楽しいよ!気持ちがいいくらいに音が伸びるし、私のことを全部わかってくれるようなそんな……あ、いや、ちがうよ?音とかって意味でね?」


 今度はすごく身を乗り出して答えてくれる。

 うん、間違いない。

 夏葉のピアノに足りないものがあるとすれば、この感情だけだ。

 最後はよくわからないことを言って慌てていたが、まあいいだろう。


「でしょ?その気持ちでピアノを弾けばいいんだよ!と言ってもいきなりは難しいだろうから、まずは僕だけにでも夏葉の全部を見せてよ」


 キミのピアノに込める全部を見せてほしい。

 なんて……少し格好つけすぎだろうか。

 でも、歌っているのときの彼女が弾くピアノがどんな音を奏でるのか。

 すごく気になった。


「……全部って、そんな。(いきなりすぎるよっ!でも、碧斗は真剣な目をしてるし……)じゃ、じゃあ、とりあえず最初はなるべく楽しんで演奏してみるね!」

 

 それから夏葉は頑張って楽しげな表情を浮かべてみたり、必要以上腕をはねさせて動作を大きくピアノを弾いたりしていた。

 ……もしかして想像以上に不器用なのかな。


 そのあともいろいろと試していたが、さすがに可哀そうに見えてきたので一旦止めに入った。


「な、夏葉。ありがとう。でも今、夏葉がやったのは歌っている時と同じ気分?」


「あ、言われてみれば、違うかも……」


 こういう抜けてる一面もあるんだな。


「うーんそうだなあ……そうだ!連弾してみない?僕と夏葉2人で音を紡ぐ、どう?楽しそうじゃない?」


「連弾!やってみたいけど……私ちゃんとできるかな……」


「そんなこと気にする必要はないさ!別に格式ばったコンクールでもない、楽しければいいんだから」


 よし、まずは夏葉にピアノの楽しさを教えてあげよう!

 僕はそう心に決めた。

 

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