第5話 夏葉の思い出

 碧斗に提案されて思い出の音に思いをはせる。

 それでも、あの時の曲名や曲調は全然思い出せない。

 思い出せるのは伝わって来た優しさとその中に垣間見えた激しさとも呼べる大きな感情。


「どうだ?なにか思い出せそうか?」


 碧斗も私の思い出の曲が気になっているみたいで、好奇心を隠し切れない面持ちでこちらを見ている。

 ふふ、なんだか可愛い。


「ごめん、全然思い出せないや」


「……楽譜とか残ってたりしないかな?」


「楽譜かぁ~あるにはあると思うんだけど……」


 不思議そうな顔でこちらを見る碧斗に見せつけるように一つの箱を引っ張り出した。


「それは?」


 そう聞く彼に口で答えるのではなく、見せつけることで答える。

 私はスーツケースほどの箱を開けて見せた。


「……もしかして、これ全部楽譜だったり?」


「うん。その通り、伊達に音楽家の家系じゃないから……」


 この楽譜を見ると思い出す。

 父の失望したような目を。

 母の興味を無くしたような目を。

 

「それだけあったら、夏葉もピアノやっていたんじゃないか?」


 碧斗の純粋な疑問が心をえぐる。

 でもこれは私が乗り越えないといけない問題だ。

 目の前にいる、持て余すほどの才能を持った彼の横に立つためには。


「……そうだね。昔は……やってたよ」


 苦しく、辛い、人生で最初の大きな失敗の思い出。


「まあ、こんな家だからわかるかもしれないけど、私も幼い時からピアノを習っていたの」


 なるべく思い出さないようにと記憶に蓋をしていた部分。

 その蓋を自分で開けていく。


「本当に小さい時、それまではただ楽しくてピアノを弾いてた。でも、小学3年生になって初めてでたコンクールで私は打ちのめされた」


 碧斗はまっすぐ私を見ている。

 その姿勢は全部を受け止めると言っているようで、全部を吐き出せと言っているようで、言葉が止まらなくなった。


「周りにはすごい子がたくさんいた。私は緊張もあって細かいミスを連発しちゃって……結局両親の望む大賞なんて以ての外、受賞どころか最後にあった全体講評の場でも触れられることは無かった」


 思い出すだけで胸が締め付けられる。

 私の苦い失敗の記憶。


「帰ってからすごく怒られた。あんな演奏を教えた覚えは無い、真面目に音楽に向き合ったことはあるのかって。それを聞いた瞬間弱かった私の心は完全に折れたの」


 その程度でって思う人もいるだろう。

 でも当時の私にはその言葉を受け止められるだけの余力は残っていなかった。

 尊敬していた、大好きだった両親から向けられた失望の眼差しは私の心を砕き切るには充分なものだった。

 

「それからはいくらピアノを弾こうとしても、指が動かなかった。ペダルを踏む足が上がらなかった」


「そんな私を見て両親はますます私に失望して、私から興味は離れていった」


 元々、厳しい音楽の世界で生きていくことには向いていない性格だったのかもしれない。

 もしかしたら両親は、逆境を跳ねのける私を見たかったのかもしれない。

 でも……

 1度粉々になった宝石をもう一度同じ形に復元することが出来ないように、私の心も復元されることはなかった。


「まあ、それでも音楽を嫌いになった訳じゃなくて、こうしてピアノのお手入れをしたり、歌を歌ったり今もしてるんだけどね」


「……聞かせてやろう」


 ずっと黙って私の話を聞いていた彼が、静かに、でも強くそう言った。


「え?」


「まだ間に合うよ。そんなことがあったのに音楽を続けている君の心が砕け散っているわけが無い。弱いはずがない」


 碧斗の言葉が突き刺さる。


「やめて!!私は弱かったの!もうピアノは弾けない!弾いちゃいけないの!!!」


 私の中で燻っていた本音が飛び出した。


「ほらね?今自分でも言ったじゃないか。弾いちゃいけないって。誰かにそう言われたの?」


 今度の言葉は突き刺すようではなく、重く深くのしかかるようなそんな言葉に感じられた。


「だって、両親ふたりのあの目は、あの言葉は……!」


「そうだね。強い夏葉がそういうくらいだ。相当なものだったんだと思う。僕だったら即座に音楽を辞めているかもしれない。でもきみはやめなかった。そんなに弾くのが怖くなったピアノの手入れをして、僕の演奏を聞いてすぐに合わせて歌えるくらいピアノの音を沢山聞いて……こんなに音楽を愛している夏葉がピアノを弾いちゃいけない?バカを言わないでくれ。夏葉、きみは音楽を崇高なものと捉えすぎている。昨日僕の前で歌ってくれたみたいに、さっきみたいに、自由でいいんだよ!」


 碧斗にも熱が入って行くのがわかる。

 彼はどうしてまだ知ったばかりの私にここまで言ってくれるのだろうか。


「ほんとは楽譜の場所だってとっくに分かっているんだろう?1人がダメなら2人で弾こうよ!僕はきみの、夏葉の音が聴きたい」


 その言葉は、砕けたと思い込んでいた私の心を再構成するには充分なものだった。

 私の音を聴きたいと言ってくれる人がいる。

 あれだけの演奏ができる彼がそう言ってくれている。


 ふとピアノの方へ目を向ける。

 ピアノも私を見ているような、そんな気がして……思わず

 

「ただいま」


 そんな言葉が口に出ていた。

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