低い満月

 秋祭りを終えた祭りの衆が一息ついて赤沼家で飲み交わしていた時、赤沼静あかぬま せいが突然神がかった状態になり、集落のいわれを語り始めたことがあった。

それは今から50年ほど前、低い大きな満月がしんしんと輝く秋のことであった。



 7世紀の初め、中国唐王朝の時代にシベリア南部の日本海沿岸に建国された朱冥しゅめい国は、わずか半世紀ほどで姿を消した幻の国だった。その後、渤海ぼっかい国が興ったのは7世紀の末のことである。


 朱冥国は後の渤海国と同様、日本とは海を越えて行き来があり、当時の日本の宮廷で基礎教養とみなされていた漢詩文の交換をするなどして文化交流を図っていた。

 もともとは唐王朝の脅威から日本に軍事力を求めての交流であったが、唐との関係が安定するとともに文化交流が主となった。その変化にともない、来日する人たちも武官から文官へと変化した。

 そしてともに選び抜かれた一流の文化人同士の交流となる。なんとも風雅で精神性の高い異国間交流であったことだろう。


 その儚さと美しさから、胡蝶の国とも呼ばれた美しい国だった…




 「朱冥国」とは初めて聞く国の名前だった。静さんの作り話だろうか?とも思ったが、実際にそういう時代があったようにも思えた。話を聞きながら、割と具体的なイメージを想い描くことができたからである。


 「続きはまた今度にしましょう。そろそろ読経の時間なので」そう言って、清さんは赤い祭壇のある仏間に入って襖を閉めた。

 肝心の朱冥国とこの集落とのつながりについて聞くところまではいかなかった。


 集落に響く読経を聞きながら、僕はいにしえに滅びた幻のような国を想った。

 朱冥国は武力を重視しない精神性の高さゆえに、戦乱の世に生き長らえることができなかったのだろう。戦争ばかりを繰り返す現代の精神性を思うとき、それは、赤沼静が語った幻の小国の足元にも及ばないのではないかと思えるのだった。



 赤沼家の裏庭には小さな古い蔵があった。

 梯子のような階段で2階に上ると、天井に太い梁を通した10畳ほどの空間がある。両側に二つある観音扉の窓は小さく、懐中電灯がなければ、どこに何があるのかわからない状態だ。


 宿泊代と引き換えに静さんから言いつかったのは、長年放置したままの蔵の整理だった。とりあえず、今在るものを全部下に下ろしてほしい、その後、取捨選択して要らぬ物は捨てたいとのことだった。

 蔵の2階を占めていたのは、埃を被った古い家電や書籍類、年代物の長櫃ながびつ…そういう類の物が主だった。

 喜ばしいことに時代物の建造物の構造や素材に興味があった僕にとっては、趣味を兼ての労働でもあった。


ほぼ半分ほど下ろし終えたころ、夕飯の用意ができたからと静さんが呼びに来た。


 静さんのナスの糠漬けは格別だ。黄味がかった果肉に滲んでいる皮の鮮やかな紫が食欲をそそる。

 「この漬物だけで、ご飯2杯はいけるな」タテハのため口がうつっているなと思いつつ、僕はご飯をかきこんだ。力仕事の後のご飯はとにかくうまい。


 「明日は残った小物を下ろしてから2階の掃除をします」と言う僕に

 「明日森へ行くのなら、おにぎりでも作りましょうかね」と静さん。

僕が頼むより先に予見している。さすが、神がかった人だけあるなと考えていると、

 「タテハの分も作っておきますよ」

 僕は「すみません…」と頭を下げた。すべてお見通しのようだった。


「帰ってから掃除しますので…それから、あの話の続きをまたお願いします」

静さんは、はいはい、と言いながら土間を下り、僕は食べ終わった食器類を流し場の静さんのもとに運んだ。


 シャワーで汗を流した後、自分の部屋で静さんから聞いた話を思い出しながらメモしていると、南側の窓から月の光が射し込んでいるのに気づいた。

 手元の灯りを消して窓を開ける。


 低い満月が瑠璃色の闇を煌々と照らしていた。


https://kakuyomu.jp/users/rubylince/news/16818093087493770440


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