蝶の祠(ほこら)

 宿所として紹介されたのは、老女が独りで住むふもと近くの小さな赤い家だった。

 赤沼静あかぬま せいと名乗る老女は、穏やかな笑みを浮かべて簡単に自己紹介した僕を招き入れた。

 年のころは70代後半か。といっても、背筋は真っすぐだ。白い髪を結ってシニヨンにまとめ、市松模様の着物にゆったりとした白い割烹着…ひなには珍しくおしゃれな感じだ。


 「このような陋屋ろうおくにようこそ」標準語に近い喋り方だった。

 「むかしからここに住んでいらっしゃるのですか」思わず、質問した。

 「嫁いできて住みつきました。もう百年ほど前のことですけれど」

 多分キツネにつままれたような顔で僕は老女を見返した。


 「ただのばあの冗談ですよ、学生さん」

 僕は取って付けたように笑って「信じてしまうところでした」と言うと、

 「妖怪屋敷にでも来たような顔でしたよ」とまた冗談を重ねるところをみると、精神的にはかなり若々しい人のようだった。


 「何かお手伝いしましょうか」

 寝所として割り当てられた4畳半ほどの和室に荷物を置いた後、土間の台所に立っている静さんに声をかけた。

 「風呂の薪を運んでもらえますかの」待ってましたと言わんばかりの即答だった。


 言われたとおり、裏庭から運んだ一抱えの薪を焚口に入れ、着火して湯が湧くのを待った。

 夏場は大抵シャワーで済ましているらしいが、今日は僕のために久々に風呂を用意してくれたようだった。


 「風呂が沸くまで1時間ばかりありますから、そこらを散歩でもなすったら?」

時計を見ると、まだ4時過ぎだった。


 静さんによると、この集落の住所は「段」で数えるのだという。

 一番下が一段…ここに静さんの家がある。一番上が七段で、集落を守る神様が祀られているほこらがあるとのことだった。


 すき間から雑草が生えている不揃いの石段を上る。二段目辺りまでは田んぼと畑が多かった。その後は、赤い家が積み重なるように建っていた。窓の大きさや赤い部分の割合がそれぞれ微妙に違う道沿いの家々を眺めながら、上った。


 夏の割には涼しい気候のようで、多分30度前後だろうか。多少汗ばむが、頂上から吹き下ろす風ですぐにさらりと乾燥する。


 下界は今ごろ猛暑日が続いているのだろう、などと考えながら上っていると、どこからか視線を感じた。立ち止まって見回すと、庭の洗濯物のすき間から誰かがこちらを窺っているようだった。影の大きさから、子どもかもしれない。閉鎖的な地に見慣れない人間が侵入してきたのだから気になるのは仕方がないことだ。僕はさらに上を目指した。


 七段目を上り切ったところにある古いびた鳥居をくぐると、ひときわ大きな杉の木が一本立っていた。大人でも囲いきれないような太い幹には、真新しい注連縄しめなわが張り巡らされている。この集落のご神木なのだろう。

 高木こうぼくは枝を自在に広げ、その複雑な模様の木陰にある祠は、銅版の屋根の下の木造の部分がかなり色褪せていて経年の長さを感じる佇まいであった。祠の後ろには格子戸の小さなお堂が立っていた。


 手を合わせたあと祠越しにお堂を見上げると、扉の上部には額装の蝶の絵あった。ちょうど小さな祠を見下ろすように掲げられている。何かしらの違和感を覚えたのは、その絵がまだ新しく幻想的な画風だったからかもしれない。


 銀色の蝶が羽を広げたバックには黒い宇宙が広がり、星が煌めいていた。


https://kakuyomu.jp/users/rubylince/news/16818093087262049674



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