朱の迷宮~遼遠の地へ

紅瑠璃~kururi

地図にない場所

 読経が響き渡っているのは、その地形がすり鉢状であるのが原因であるらしかった。低く淀みないうなり声は、脳を振動させるかのように響き続ける。

 崖っぷちの悪路をガタガタと走っていた乗り合いバスの余韻も相まって、その赤い光景を仰いだときには、少しばかり恐怖を覚えたのだった。


 ネットで秘境を訪ねるのを趣味とする僕が、国土地理院の地図に掲載されていない集落を見つけたのは5月の連休のこと。土日を含めた長めの休日の暇つぶしに、グーグルビューであちこち探索していたときのことだった。

 緑深い山奥の一部が赤いものに埋め尽くされているのを発見したときには、一瞬目を疑った。拡大してみると、それは赤く塗られた屋根の群れだった。


 どこかで見た光景だな…と記憶を巡らせると、東チベットにあるラルンガル・ゴンパの赤い景観が思い浮かんだ。チベット仏教の秘境だ。スケールこそ及ばないが、国内に似たような景色があるとは思いもよらなかった。

 旅行許可証や高山病を心配せずに訪ねることができるのはありがたい。早速ネットで経路を検索し、夏休みに入ってすぐに大学の学生寮から旅立った。7月の中旬だった。



 有名な観光地である中部山岳地帯にこんな集落があったとは…急峻な山の斜面に貼りついた赤い家々を見上げながら、僕は谷底のバス停に降り立った。


 リュックを担ぎ直して振り返ると、同じバスに乗っていた60代くらいの白い短髪の男が声をかけてきた。山伏のような装束に杖を持ち、脚絆をつけて草鞋をはいている。

 「兄ちゃん、こんな山奥に何の用があるんかいな」この辺の方言のようだった。

 「ネットで見つけたんです」

 「ネット?」

 「パソコンで…」と言い直すと、男はしばらく考えてから、理解するのを諦めたのか話題を変えた。


 「最終のバスは行ってしもうたが、宿などないで、ここには」

経路を検索した結果では、集落で3時間ほど過ごした後に乗れるバスの便があったはずだ。

 スマホを出して確認しようとしたが、ここは電波が届かない場所だった。


 部屋を貸してくれそうな人がいると言う男と集落の入口まで一緒に歩くうちに、少しばかりこの集落の情報を得ることができた。


 赤音あかね山の標高は約600m、人口は200人ほどで、響き渡る読経は赤音の村人によるものだった。朝夕の1日2回、この地域特有のはらえを全員で唱和するのだという。

 また、赤い屋根は魔除けのためだという。屋根だけではなく、窓枠や柱も赤く塗られている家もあった。


 「赤いのは家だけではないのさ。ほとんどの苗字に「赤」がつく」と言う男の名前は赤沢だった。

 僕は大げさに目を見開いた。


 「僕は赤尾涼平といいます」


 「何しに来られたのか不思議だが、縁があったのかね」男が言った。

 僕はただ頷いて、男の後ろを用心深くついて歩いた。山の斜面につくられた道の幅はせいぜい50cmほどで、気を抜くわけにはいかなかった。


 20分ばかり歩いたとき、ふと気になって尋ねた。

 「バス停からは近くに見えたけれど、結構遠いんですね」

 「ご先祖さまが敵に攻め込まれないようにと造りなすったら、こうなった」

 「敵?」

 「むかしの言い伝えみたいなもんかの」


 石積みの二柱の高い門が集落の入口らしかった。門の向こうには、小高い緑の山が数十戸の赤い家を抱えるように鎮座していた。

 目的地に着いたという達成感で心はひととき高揚したが、何かしらおりのようなものを感じてもいた。


 …ここは、果たして踏み入ってもいい場所なのだろうか。

読経はいつの間にか止んでいた。

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