第35話『珍客と黒カビ』

 昼食の席には、見慣れない顔があった。

「トニ⁉ どうしたの? 」

 2人席に座る指揮官に、リクとアダムは飛び退いた。

「おいおい、トニ。どうした? イチに嫌われたのか? 」

 イチ、というのは、汽車のオーナー、シンイチの愛称だ。

 ふたりから珍獣ちんじゅう 扱いされているのに腹をたてたのか、アントワーヌは不機嫌な顔を見せた。

「俺がいて不味いことでもあるのか」

 低い声で言うと、アントワーヌは ギロリ と ふたりをにらんだ。

「いや、不味いことはねえけどよお。なあ、リク」

「う、うん。普段はイチの部屋で食べてるから、どうしたのかと思って……」

 で、とリクは続ける。

「本当に、何でトニが ここにいるの? 」

 尋ねられて、アントワーヌは ふん と腕組みをした。

「きょうで この国も最後だからな。馬鹿が馬鹿なことを考えていないか、見に来たんだ」

「馬鹿が馬鹿なことって……もしかして俺のこと言ってんのか! 」

 アダムが気付くと、アントワーヌは「そうだ」と堂々と肯定した。

「生まれ故郷を見て哀愁あいしゅうに浸る炭鉱夫が、いつ汽車を降りたいと言い出すか分からんからな。馬鹿なことは考えるなと忠告に来たまでだ」

 アントワーヌは言って、優雅にコーヒーカップに口を付けた。

「なんだ、そんなことかよ」

 リクの横で、アダムが肩の力を抜いたのが分かった。

「安心してくれ。俺は そこまで馬鹿じゃねえよ。この世界に降り立ったところで、俺にできることなんてねえ」

 アダムは言って、ふっと息を吐いた。

 アントワーヌは視線をコーヒーからアダムへ移した。

「そうか」

 呟くように言うと、カップをテーブルへ戻す。

「お前が大馬鹿者でなくて安心した。あすは客が大勢帰る。いつもより早く出勤するんだ。わかったな」

「ああ、分かったよ」

 アダムは言って、肩を上げた。

「特にリクだな。あしたは自分で起きるんだぜ? 」

「えー! 」

 リクはアダムを見上げた。

「アダム起こしに来てくれないの? 」

「おいおい」

 と、アダム。

「いつまで俺に頼るんだよ。自力で起きて見せろ」

「そんなあ! 」

 リクは肩を落とした。

「でも、アディの言う通りよ、リク」

 すると、調理室からレアが出てきた。

「そろそろ自分で起きられるようにならなくちゃ」

 レアはアントワーヌの前にサラダとパスタを置くと、「リクたちの分ね、ちょっと待ってて頂戴」と、忙しそうに調理室へ引き上げた。

 リクとアダムはアントワーヌの横の4人席に腰掛けた。

「そろそろニックも来るかもな」

 リクの前に座ったアダムが言った。


 お昼ご飯を食べ終えたら、シャワー室の清掃とトイレ掃除だ。お客様の泊まる寝台車はスチュワートであるコリンとミハイルも清掃に加わるのだが、シャワー室とトイレの清掃は完全にリクたちの仕事に割り振られている。

「どうせ妖精たちなんて実現不可能なオーダーしかしねえんだ。しばらくスチュワートがいなくても大丈夫だろ。だからコリンたちにもシャワー室とトイレの掃除に加わってもらうってのはできねえのか? 」

 いつかアダムがアントワーヌに直談判したことがあったが、あっけなく、跳ね除けられてしまった。「お客様の満足が最優先だ。お前らは黙って お前らの仕事をすればいい」言われた時のアダムのね具合といったら、子供のようだったと言う。

 リクは目の前で真摯しんしに掃除にはげむアダムを見て、自分の知らない時期のアダムを思い浮かべた。レアたち曰く、汽車に来た時のアダムは、本当に お坊ちゃまだったそうだ。きっとアダム自身も、汽車で炭鉱夫として、こんなに、びしょ濡れになりながら仕事するなんて考えてもみなかっただろう。

「リク! 洗剤とってくれ」

「はい、どうぞ」

 アダムは今、角にできた黒カビと戦っている最中だ。リクもニックも、落ちる汚れじゃなさそうだからこだわるだけ無駄だとアドバイスしたが、アダムは どうしても落とすのだと聞かなかった。

「くそお。落ちろ! 落ちろよ! 」

 洗剤を吹きかけ、ブラシで擦り──かれこれ10分は同じことをしている。

 普段なら とうに切り上げているタイミングだが、きょうのアダムはやはり、やけに丁寧だ。いつもの仕事でさえ細かくて丁寧だが、それ以上のものを感じる。

 きょうのアダムは、やはり変だ。

「ここまで やって駄目なんだ。諦めよう」

 ニックが後ろから声を掛けた。

「くそお」

 壁との角にできてしまった黒カビを睨み付けながら、アダムは立ち上がった。

「しかたないさ。他のところの掃除も はじめよう」

「そうだな」

 渋々、と言った感じで、アダムはニックの言葉に頷いた。

 リクはアダムが残した黒カビを、シン とした気持ちで眺めていた。

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