第32話『意地悪と秘密』

 アダムがピアノを弾いている。

 いつもの意地悪な表情からは想像もできない、やわらかく、優しい顔をしていた。夢の中の悲し気なアダムとは違う雰囲気に、リクは ホッ と胸をなでおろした。

 それにしても、聞いたことのないメロディーだ。リクは思った。

 アダムが いつも弾いているショパンではなさそうだ。ショパンなら、なんというか、メロディーにショパンっぽさがある。

 だが、この曲はショパンっぽくない。優しくて繊細で、そこはショパンと似ているのだが、ショパンには無い、純粋な明るさがある。なんという曲だろうか。

「アダム」

 リクは、ピアノを一心に弾くアダムに声を掛けた。

「わっ! 」

 声を掛けられて、アダムは座ったまま飛び跳ねた。どうやらリクが入ってきたことに気がついていなかったらしい。アダムは後ろに転げそうになるのを必死に踏ん張り、やっとリクを認めた。

「おお、リクか! どうした? 」

「眠れなくて。アダムこそ どうしたの? こんな時間にピアノなんて」

 時刻は午前1時を さしていた。

「ああ、ちょっとな」

 アダムは言って、譜面台に置かれた楽譜を そそくさと束ねた。

「いまの曲」

 慌ててアダムに声を掛ける。

「いまの曲、何? ショパンじゃないよね? 」

 リクの質問に、アダムは「ああ」と苦笑いをした。

「まあ、そうだな」

「誰の曲? 」

 明るくて楽しくて、でも綺麗な曲だった! リクが言うと、アダムの耳が赤くなった。

「そ、そうか? 誰の曲だろうなあ」

 アダムは何故か嬉しそうにしている。

「だから、誰の曲なの? 」

 リクが畳みかけるように尋ねると、アダムは ついに観念したという風に、先程 回収した楽譜を譜面台に広げた。

「ちょうど作り終えたところなんだ」

「ちょうど作り終えた? 作り終えたって──えっ! 」

 譜面台に回り込んだリクは、横で後頭部を ゴシゴシ 掻くアダムを見下ろした。

「これ、アダムが作ったの? 」

 リクが聞くと、アダムは鼻高々、といった風に、「そうだけど? 」と答えた。

「弾いて、弾いて! 」

 強請ねだると、アダムは「しょうがねえなあ」と鍵盤に手を乗せた。

 曲の入りは、桜の舞うように キラキラ した高音が鳴っている。高音が だんだん下に降りて来る。ファンファーレのようなたくましいフレーズに入る。テンポが だんだん早くなり、サーカスのパレードのように ワクワク するメロディーへ。と、突然 幕が下りたみたいに静まり返り、そっと包み込むような やさしい音が流れ出す。また盛り上がったところで、曲が終わった。

「凄い! 」

 自然と拍手が出た。こんな素晴らしい曲を作れる人が、同じ汽車に、しかも同じ炭鉱夫として働いていただなんて! 誇らしい気持ちになった。

「な? 凄えだろ、凄えだろ」

 アダムは鼻の下を人差し指で擦りながら言った。

「この曲、何て曲なの? 」

 と、リクが尋ねる。すると、意地悪な笑顔がリクに向いた。

「秘密」

「ええっ! 」

 リクは つい前のめりになった。

「なんで! 」

「その方が面白いから」

「酷いっ! 」

 リクは口をすぼませた。

「どうしても教えてくれない? 」

「教えねえ」

 はっはっは、と笑い声を立て、アダムは楽譜を束ねた。

「じゃ、俺は やりたいこと終わったし、寝かせてもらうぜ」

 リクも せいぜい頑張って眠るんだな、と、アダムはサロン室の扉を開いた。

「ええっ! 」

「電気消しておけよー」

「アダム! 」

 呼びかけも虚しく、アダムは ぴしゃり と扉を閉じてしまった。

「酷いっ」

 リクは、はあ、と肩を落とし、サロン室の窓へ近寄った。

 外は墨のような闇に包まれている。

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