第一章 我よ目覚めよ

我よ目覚めよ①

 授業の終わりを知らせるチャイムが響き渡る。

 空を見ると、今日も夕立がきそうな空模様だ。智晴は慌てて帰り支度をして教室を飛び出す。

「智晴、また明日な!」

「うん、また明日!」

 友達に手を振ってから、律の家に向かって一目散に走り出した。

「律さん洗濯物出しっぱなしだろうし、雨戸も閉めてないだろうなぁ……急がなきゃ!」

 近ごろ律はどんどん物忘れが激しくなる一方で、気が気でないのだ。

 それでも、古い護符を手に持ちながら、律は家にやってくる妖怪を手懐けて森へ帰していることがある。その護符が何かはわからなかったけど、きっと妖怪を手懐けるために大切な物なのだろう。

「悪しき者よ、我が友となれ。急急如律令……」

 護符を人差し指と中指の間に挟みまじないを唱える律は、物忘れの酷い老女などではない。

 なんなんだろう……あの姿は。ずっと疑問に思ってきたこと。

「いつかこの護符を、全部智君に譲るからね」

「護符を?」

「ええ。今は小物の妖怪しか手懐けられないかもしれないけど、この護符があればもっと恐ろしい妖怪も相手にすることができる。あなたには、その才能があるわ」

 そうニッコリと微笑む律は、不思議な魅力に包まれている。

 それが何かはわからなかったけど、いつも言い知れない胸騒ぎを感じていた。


「あ、降ってきた! ヤバい!」

 智晴は走り出した。少しするとどんどん雨が強くなってきて、全身びしょ濡れになりながら律の家へと向かった。

 神社の境内を突っ切ったほうが近道だから、「神様、お邪魔します」と心の中で謝罪しながら境内へと踏み入れる。


「……え?」

 その瞬間、境内の軒下に倒れている獣を見つけた。

「妖怪? いや、違う。犬、かな……」

 その獣は茶色の毛で覆われおり、ぐったりと横たわっている。遠目からも弱っていることがわかる程だった。

「あーもう! 見捨てられるわけないだろう!」

 一度は見て見ぬふりをしようとしたが、智晴の性格上そんなことができるはずがなかった。頭を掻き毟りながら軒下を覗き込む。

「ほら、おいで。動けないの?」

 そっと体に触れると、びっくりするくらい冷たい。硬い毛はびしょ濡れで、小さな体が震えている。

「え? 血だ……」

 抱きかかえてみると、お腹の辺りから出血していた。その量はかなりのもので、「このまま死んでしまうのでないか……」と頭の中を不安が駆け抜けた。

 智晴は咄嗟にその獣を制服のブレザーで包み、抱き締める。弱ってはいるが、小さな鼓動が聞こえてきた。

「絶対死なせないから。一緒に帰ろう」

 獣を抱き締めたまま、智晴はまた走り出した。


「あら、まぁまぁ。智君ったらびしょ濡れじゃない」

「律さん、ただいま」

「今お風呂沸かすからね」

「うん、ありがとう」

 洗濯物はしまわれて雨戸もきちんと閉まっていたことに、智晴は胸を撫で下ろす。

 ブレザーから獣を出して、そっと座布団の上に寝かせた。体は相変わらず冷たくてピクリとも動かない。

「大丈夫か?」

 声をかけてみると、薄く目を開けたような気がした。

「智君、今お風呂溜めてるからね。あら、その子どうしたの?」

「あぁ、神社で倒れてるとこを見つけたんだ。怪我しててさ……。でもこいつ、何者なんだろう。犬かな? 律さんわかる?」

 律から受け取ったタオルで頭を拭きながら首を傾げる。

 犬にも見えるし猫にも見える……狐にも見えた。

「ふふっ。面白い子を拾ってきたじゃない」

「え?」

「傷の手当てをしておくから、智君はお風呂に入ってらっしゃい。風邪をひいちゃうわ」

 智晴を急かすように律はそっと背中を押した。


 風呂から出ると、獣は律の膝の上で丸くなって寝ていた。

 手当が終わったのだろうか、お腹には包帯が巻かれている。呼吸に合わせてゆっくりと上下する体に、ほっと安堵した。

「とってもいい子ね」

「うん。でも、やっぱりこいつ何者なのかな。なんでこんな怪我して、あんなところにいたんだろう」

「そうね、この子は……」

 外で雨がザーザーと降りしきる中、律が優しく微笑んだ。

「この子は狐よ」

「狐……?」

「そう。妖狐」

「妖狐……」

 智晴はそっと呟く。先程まで茶色かった毛は、銀色の糸のように輝いている。その美しさに思わず息を呑んだ。

「本来は人間の姿にも化けられるはずよ。ただ、今は妖力が弱っているせいでその力がないみたいね。もともと弱っていたところを低級の妖怪かなにかに虐められたんじゃないかしら」

「律さん、こいつ死んじゃうの?」

「大丈夫よ、もう少し元気になって封印を解いてあげれば、ね……」

「封印されてるの? どうやって封印を解くの?」

「そうね、あなたなら解けるかもね」

「え、本当?」

 律を見ると、まるで少女のようにクスクスと笑っている。

「さて、その子に餌をあげなきゃね。ドッグフードでいいかしら?」

「さっき律さん、こいつは狐だって」

「あぁ、そうそう狐ちゃんだったわね。なら油揚げかしら?」

 そう言いながら台所へ向かう律を、不安そうに見送る。本当に狐は油揚げなど食べるのだろうか……。

「とりあえず、早く元気になれよ」

 律が用意してくれた蜜柑の段ボールの中で寝息をたてる妖狐の頭を撫でてやる。仲良くなれたらいいな……と淡い期待を抱きながら。




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