全てのはじまり②
あれから、数年がたったある夏休み。
「ほら、いい子だね。こんな所で人を怖がらせても仕方ないだろう? 家にお帰り」
智晴は、目の前にいる毛むくじゃらの頭をそっと撫でた。それは明らかにこの世の者とは思えない風貌をしている。
真っ黒の目は窪んでいて、ギラギラと光る歯の生えた口は耳元まで裂けている。その鋭く尖った爪で攻撃されれば、人間など一撃でやられてしまいそうだ。
「もうすぐお前を祓うために祈祷師がやってくる。それまでにここから去るんだ。わかるだろう?」
恐ろしい化け物の頭を撫でながら優しく話しかける。
「お前のお家はあっちだよ」
「グルルルルル……」
切り裂かれた口からは涎が垂れ、今にも襲い掛かってきそうだ。でも、智晴はそんな事は気にしていない。
「ほら、いい子だから」
言い聞かせるようにそっと顔を覗き込むと、シューッと炭酸が抜けていくような音と共に毛むくじゃらの体が見る見る縮んでいく。その光景を、智晴は穏やかな目で見つめた。
「ふふっ。これあげるから、もう悪いことしたら駄目だよ」
「ケタケタ」
まるで毛糸玉のようになった毛むくじゃらに、鞄から取り出したビー玉を渡してやる。
「綺麗だろう? 悪しき心が再び騒ぎだしたら、このビー玉を眺めるんだよ」
「ケタケタケタ」
「よし、お行き」
森のほうを指させば、毛むくじゃらは一目散に走り出す。
「もう人里に下りてくるんじゃないぞ!」
その後ろ姿を、見えなくなるまで見送った。
「ただいま、律さん」
「あらあらお帰り、智君。幼稚園は楽しかった?」
「律さん、俺はもう高校三年生だよ」
「あぁ、そうだったわね。それより智君、私の眼鏡知らない? どっかに行っちゃって見つからないのよ」
「眼鏡なら、律さんのおでこにあるよ」
「まぁ、本当だわ! 見つかって良かった」
見た目は童顔でそこそこ可愛らしいからか、女の子から時々告白されることはあるものの、運動神経も勉強も平々凡々。これといった特技も趣味も持ち合わせてはいない。
しかし智晴は、幼い頃からこの世に存在するはずのない妖怪が見えた。仲良くなれた者から、頻度こそ多くなかったが自分を殺そうとするような者まで……色々な妖怪に出会ってきた。
見えない者が見えてしまうことは智晴にとっては不幸そのもので、常に怯えながらの生活を強いられていた。両親や弟が妖怪を見ることは無かったが、祖母の律だけは智晴と同じような能力を持っていた。
律と過ごすことで、これから妖怪とうまく付き合っていく方法がわかるのではないか……。そう思い、中学を卒業すると同時に智晴は父親の生まれ故郷に身を寄せることになった。高校を卒業するまで、という期間限定ではあるものの、律の傍で暮らすことを許されたのだ。
「今日も暑かったなぁ。ん?」
縁側に座り込み大きく伸びをすれば、遠くから雷の鳴る音がする。夕立がくるかもしれない……。トントンと背中を叩かれたのを感じ、智晴はそっと視線を移した。
「どうした? 座敷童。雷が怖いのか?」
座敷童と呼ばれた少女がコクンと頷く。
「大丈夫だよ、俺の傍にいな?」
微笑みながらそっと頭を撫でてやれば、嬉しそうに目を細める。そんな座敷童に、アイスを半分に折って手渡した。
「智晴、智晴……」
「どうした?」
声がするほうを見ると、二匹の幼い河童が立っていた。怯えているのか顔が強張っている。
「なんだよ、お前達も雷が怖いのか?」
「うん。怖くて仕方ない」
「ふふっ。いいよ、こっちにおいで。みんなで夕立が過ぎるまでここにいよう。みんなでいれば怖くないよ」
「うん!」
嬉しそうに駆け寄ってくる河童達の頭を撫でてやる。だが河童の頭には皿があるせいで、妙な撫で心地だ。
智晴は優しい律と穏やかな妖怪に囲まれながら、のんびりとした生活を送っていた。こんなに安心して毎日過ごせるなんて……。
「ずっとここにいたいな……」
智晴の祖母である律は、妖怪の頭を撫でることでその怒りを鎮め手懐けることができる……という不思議な能力を持っていた。
牙を剥きだし襲い掛かる妖怪も、律には歯が立たないのだ。目を閉じ古くから伝わる
今はすっかり年をとりボケてきてしまっているが、智晴はそんな律を尊敬している。そして、いつからか智晴にもその能力が開花したのだった。結果として、小さな妖怪なら自分でも対応できるようになった。襲われるほどの凶暴な妖怪に出会うことがなくなったのは、律のおかげなのか、そんな妖怪がいなかっただけなのか……。
「みんないい子だね」
「うん。智晴、大好き」
「ありがとう」
こんな田舎での生活が智晴は大好きだった。律が用意してくれた冷やしキュウリにかじりつきながら、少しずつ近付いてくる雷鳴に耳を澄ました。
「ん?」
突然茂みから聞こえた物音に視線を移す。今、その茂みに何かいたような……。
「動物……いや、妖怪か?」
ジッと目を凝らしてみるものの、そこには何もいない。
「智晴、どうしたの?」
不安そうに自分を見つめる座敷童に気付き、そっと頭を撫でてやる。
「ううん、何でもないよ」
その時、智晴は気付かなかった。茂みの陰からジッと自分を見つめる者の存在に……。
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