頑張った日のごほうびビール

 机の上に置いてあった先輩社員のスマホが震えた。席を離れて棚の前にいる彼女に、透子は鳴ってますよと声をかけた。

 席に戻ってきてスマホの画面を見た彼女は軽く顔をしかめてから、表情をまったく反映させないかんじのよい声で電話に出た。

 相手に相槌をうちながら、わかりましたと答える声は暗い。透子には相手が誰なのか、どんな内容か、おおよそ見当がついた。


「ごめん熱あがっちゃったって」


 電話を切った彼女はこそっと透子に声をかけてから、部長のほうへ向かった。会話を交わし、最後に頭を下げてから席に戻ってきた。


「朝からちょっと熱あったんだけどさ。あがんないでよって祈ってたけどだめだったわ」


 保育園は三十七度五分以上になると預かってもらえないのだと言う。体調が悪くなるたびに母親に真っ先に連絡が来て、実際に迎えに行くのもほぼ母親。世の働く母親というものは、会社で働き、家庭でも大きなものを担っていて、もはや透子には無理ゲーにしか思えない。尊敬しかない。


「何か引き継ぐことありますか?」


 透子にはもはや、この会社や上司のために何かをしようという気は露ほどもない。透子が働くのは自分の生活のためだけだ。

 だけどこの先輩社員の力にはなりたいと思っている。いつも、それ以上に助けてもらっている。


「いつもごめんね。たぶんこれ、今日連絡くると思うから、来たら部長に伝えてもらっていい?

 あと、もし私が月曜来週来れなかったら、これやっといてもらってもいい? 私が来れなかったらでいいからね」


 透子は彼女から書類を受けとって、わかりましたと頷いた。先輩には気にしないで帰ってほしいと思う。それでも先輩は眉根を下げたまま、周りに頭を下げながら慌てて帰っていった。幸い今日は金曜日だから、土日を挟めば来週は大丈夫だろうか。


 たとえば子どものことで休むことや早退することを先輩が当たり前のような顔をして、周りのフォローが義務であるような態度だったら、透子はやはりおもしろくないだろう。透子は子育てをしながら働く人を尊敬しているし、未婚で子どももいない透子が少子高齢化の社会でできることといえば子育てする人のフォローくらいなものだとも思う。

 それでも、フォローする側が当たり前だと思うことと、してもらう側が当たり前だと思うことはなんか違うと思ってしまう。ただ、申し訳なさそうにしている先輩を見たいわけでもない。


 透子は自分の中で矛盾があるのは自覚している。先輩以外の誰かが同じ状況でも、同じように思えるかはわからない。そう思ってしまうことを卑屈に思うこともある。それでも、先輩の力になりたいと思う気持ちに嘘はないのだ。

 だから、目の前の仕事をする。透子自身の仕事と、先輩に頼まれた仕事があるから。来週自分でやるから今日はやらなくてよいという念押しに、気遣いが痛いほど伝わってきた。だからこそ、助けになりたいと思う。


 透子が先輩のフォローができることは限られていて、力になれることは多くはない。だけど彼女はいつも何かあれば手を貸してくれるし、フォローしてくれる。その存在に、精神的にも助けられている。

 きっと先輩は来週出てきたら、ものすごく仕事がたまっているだろう。その仕事をすべて代われるほど透子に技量はない。だけど彼女が透子に頼んでくれたことと、ほかに何かやっておけることがあれば、できる限り片づけておきたい。


 自分に振られた仕事と、先輩に頼まれたこと、それから先輩に振られたけど透子にできそうなことを片づけると、定時はずいぶん過ぎてしまっていた。金曜日ということもあっては、残っている人は少なかった。

 いつもは疲労困憊でもはや抜け殻のような心地だが、今日はとても充足感があった。がんばった、と素直に思えた。

 帰る準備をしながら、ビールが飲みたいと透子はふいに思った。


 ビールを飲もう、と思ったら、透子の気持ちは浮き足立った。

 今日は金曜日、明日は休みではないか。

 透子に晩酌の習慣はない。友人とご飯に行ったとき以外は、たまに休みの前の日や、どうしても飲まずにいられないときくらいしか飲まない。

 だけど今日は、がんばったからお酒を飲もう、と思えた。


 さて、何を食べようか。透子は内心うきうきしながら会社を出た。

 どこかで食べて帰る、という選択肢はない。一人で外食をすることに苦手意識はないが、居酒屋などお酒をともなう飲食には抵抗があった。それに、家でゆっくりしたい。

 少し遅くなってしまったので、家で作るよりもおいしいものを買って帰りたい。ビールに合うもの、何がいいだろう。


 心地よい疲労感と晩酌への期待感から、透子はふわふわした気持ちでスーパーに向かった。

 真っ先に向かったお酒のコーナーで、透子はクラフトビールを手にとった。飲んだことはないけれど、かわいいパッケージに惹かれた。これこそ、ごほうびにふさわしいように思えた。


 次にお惣菜コーナーに向かう。おしゃれなものより、何かガツンとしたものが食べたい気がしてきた。

 唐揚げ、餃子、うーん。でもやっぱり、ビールのパッケージに見合う女子感もほしい。

 そもそも世の呑んべいさんと違って、炭水化物も食べたい。つまみだけでは満足できない。そんなことを考えながら惣菜コーナーをうろうろしていた透子は、ピタリと足を止めた。


 ――レバニラ炒め


 途端に透子の気持ちはレバニラ炒めになった。かわいいパッケージに合う、などという考えは一瞬で吹き飛んだ。透子はレバニラ炒めのパックを買い物カゴに入れた。これはもう、炭水化物は白飯一択だ。

 ほかは何がいいかな、と辺りを見回していたら、だし巻きたまごが目にとまった。

 そうだ、卵とトマトを炒めよう、と唐突に閃く。たしか冷蔵庫の中に、トマトが一つ残っていた。昨日見たときに、そろそろ限界だと思ったのを透子は思い出した。


 そうと決まれば早く帰ろう。

 透子は冷蔵庫の中を思い出し、残り少なかった卵と納豆をカゴに入れて会計を済ませ、軽い足取りで家に帰った。


 家に戻った透子は、さっそく晩酌の準備にかかる。トマトはヘタをとり、面倒なので皮は向かずに適当に切った。種をとろうかと一瞬悩んだものの、やはり面倒だという理由でやめた。

 先にトマトを炒め、それから溶いた卵を投入した。とろとろの半熟で火を止めて、少し待ってから皿に移した。


 レンジであたためたレバニラ炒めとご飯とともにテーブルに並べる。それから思いついて、カット野菜を小鉢に盛り、豆腐も入れてごまドレッシングをかける。豆腐の残りは後でみそ汁にでもしよう、と頭の隅に留めた。

 そして満を持して冷蔵庫に入れておいたクラフトビールと、今日はきちんとグラスも出す。丸みを帯びたグラスは透子のお気に入りだ。


 席についた透子はさっそく缶ビールを開けてグラスに注ぐ。注ぐのが上手ではない透子のビールは半分ほどが泡になったが、いつものことなので気にしない。


「いただきます」


 透子は欲望のままに、レバニラ炒めに箸を伸ばした。レバーとニラともやしを一口で口に運ぶと、期待通りの味がした。いや、思っていた以上に思っていた味がして、おいしい。これを欲していた。

 それから、ビールを一口。軽やかな苦みが仕事をやりきった体に染みわたる。

 ビールの最初の一杯というのはどうしてこんなにおいしいのだろう、と透子は思う。特に最初の一口はたまらない。


 幸せだ、と透子は思った。今、この瞬間、おいしいと思えるものを食べて、お酒が飲める。

 感じた幸せを噛みしめるよりも先に、トマトと卵の炒めものを口に運ぶ。トマトの酸味と卵の甘み。いい。続いて再びレバー、そしてご飯。ビール。サラダ。またビール。

 食欲が止まらない。おいしい、と最高だ、が交互に脳内を巡る。


 この先もきっと、こんな夜はいくらでもあるだろう。自分を褒めたい日、自分にごほうびをあげたい日。そんな日はとても幸せで。

 反対に、激しい憤りを蹴散らすような気持ちで、食べずにはいられない、飲まずにはいられない日もあるだろう。いくらだって。


 それでも、ごほうびとともにあるごはんが多ければよいと透子は思う。穏やかな気持ちでごはんが食べられたらいい。

 ビールをまた一口飲んで、透子はふとデザートも買ってくればよかったと思った。冷凍庫にアイスがあったはずだ。食後に食べよう。

 食後のアイスに思いを馳せながら、透子はまたレバニラ炒めと白飯を口に運んだ。 


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藤島透子は今日も会社を辞めたい りお しおり @rio_shiori

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