もやもやした日の精神安定モンブラン①

 藤島透子はもやもやしていた。


「藤島さん、これ藤島さんがやったんだよね。どうしてこんな資料になっちゃうの。できないならちゃんと言わないと」


 自席に透子を呼びつけた部長はため息まじりに言った。たしかに資料をつくったのは透子だった。営業社員に頼まれてつくったものだ。けれども専門知識のない透子には難しく、到底一人でつくれるものではなかった。だから仕事を頼まれたときにその旨は伝えていた。その上で、作成したものを確認して自分で直すか、どう直すか指示をしてほしいと伝えていた。そもそも、営業社員が自分でやるべきことであった。

 おそらく営業社員はろくに確認もせずに、そのまま部長に渡したのだろう。部長からの指摘に、透子がやったのだと責任転嫁する姿が容易に想像できた。


 透子はそういう意味で、彼らを信頼している。透子の想像を裏切らない、という意味で。

 であるので、資料をメールで送った際に、引き受けた際にも伝えたが必ず確認してほしいこと、特に確認してほしい箇所についてもメールの本文に残していた。無論、メールを送ったと本人に報告した際にも口頭で伝えておいたが。

 証拠を残すというのは常々、この部長が言っていることでもある。言った言わないになると先方と揉めるから、と。透子もそのことは重々承知している。先方に対してではなく、この上司たちに対して。自分の身は自分で守らないといけない。

 透子がサーバーに入れずにメールで送ったのは証拠を残すためでもあるが、サーバーに入れてもその営業社員が見つけられないからでもある。入れた場所を伝えても、わかりやすい名前をつけても見つけられず、ファイルの名前がわかりにくいなどと難癖をつけられるのが二度手間なのである。


 必ず確認してほしいこと、それを口頭でもメールでも伝えたことを透子は部長に伝えた。送ったメールも残っていますが確認されますか、と。

 部長は透子の反撃に大変不機嫌な顔をあらわにした。証拠を残すのは自分の教えである。反撃されたこともおもしろくないが、自分の言葉が跳ね返ってくるのもおもしろくないのだろう。


「いくら確認するよう伝えてもつくった藤島さんにも責任があるからちゃんとやらないと…」


 部長は語尾をごにょごにょさせながら席を立った。都合が悪くなるといつもこうだ。きっと営業社員にはろくに注意もしないだろう。


「お疲れさまー。結局何でも事務方うちらのせいかよ」


 席に戻ると隣の先輩社員からチョコレートが差し出された。ありがとうございます、と透子は受け取った。こうして透子のがわにいてくれる人がいることに救われている。

 と同時にもやもやしたものが膨れ上がり、イライラへと変わっていくのを感じた。

 そうだ、そうなのである。先輩社員彼女の言葉を反芻する。結局何でも事務方のせい。


 以前、部長は透子に言った。


「確認する人が重要だよね。藤島さんがちゃんとやってくれてたら問題にならなかったのに」


 あのとき、透子は確認する側だった。ミスに気づけなかった落ち度はあったとも思う。責任もある。けれども、最終確認をしたのは部長だった。

 そして、そのときの「確認する人が重要」という部長の言葉通りならば、今回注意されるべきは透子ではない。毎回何かと理由をつけて事務方に責任を押しつけてくるやり方に、透子はうんざりしていた。


 記憶が呼び起こされて、沸々と怒りがこみあげてきた。ああ嫌いだ、と透子は思う。部長も、会社も、何もかも。

 一度沸いたイライラを鎮めようにもどこかに逃がそうにも、もう無理だった。深く呼吸をして気持ちを落ちつけようにも、まったく効果がない。それでも、イライラを表に出さないようにだけ、どうにか注意する。


 ――モンブラン食べたい。


 透子は唐突に思った。絹糸のように細く絞り出したマロンクリームがいっぱいのモンブラン。できればタルト生地だと良い。てっぺんの栗は別になくたってかまわない。モンブランが食べたい。

 透子には時々、こういうことがある。どうしようもない感情の中、突如生まれる欲求。この欲求に、透子は従うことにしていた。今、自身が欲しているものが、心身に必要なものなのだと感じていたからだ。実際、欲求を満たすことで幾らかの気持ちを鎮めることができる。


 帰りにモンブランを買って帰る。それが今、仕事をする透子の唯一のモチベーションとなった。

 その後はなるべく心を無にして、黙々と仕事をした。定時になったら、先輩社員にならってさっと席を立った。あまり集中できない状態で仕事をしたところで、くだらないミスをするだけだ。こんな状況の中、呼び止められて仕事をふられるのも御免だ。


 透子は会社の前の通りにあるコンビニに行った。無論、モンブランを調達するためである。

 そのコンビニにあったのは、カップに入ったモンブランだった。透明のカップのおかげで断面がはっきりと見えて、透子は伸ばしかけた手を引っ込めた。カップの側面から見えるのはほとんどが白いクリームで、欲しているものとは違ったからだ。栗色のクリームはぼてっと上部を覆ってはいたが控えめで、あのうねうねしたものとは非なるものだった。

 透子はこれを買わずに店を出た。


 次に向かったのは、帰り道の途中にある小さなケーキ屋だ。ガラスケースの中にはあまり多くはないが、ケーキが何種類も並んでいて、その中には透子が思い描くモンブラン然としたモンブランがあったはずだ。

 時間が時間なだけにもうないのではないかと思っていたが、一応立ち寄る。案の定ガラスケースの中には数個のケーキしか残っておらず、モンブランは見当たらなかった。

 念のため店員に確認したものの、やはり売り切れてしまっていた。透子は何も買わずに店を後にした。


 本来透子は、こうしたこじんまりとした店で何も買わずに出ることができない人間である。妥協して別のケーキを買ったり、焼き菓子を買ってしまったりする。

 しかしながらイライラに突き動かされるように何かを欲しているとき、透子は妥協ができない。欲望に忠実なのである。

 一方で、目的のものが手に入らないときの妥協範囲についても頭の片隅にはある。妥協できずにますます感情を増幅させるよりも、少しでも効果の高い代替案で気持ちをおさめたい。


 以前にチョコレートドリンクが飲みたいと思って、道すがらコンビニに寄りながら帰ったことがある。けれども置いてあるのはせいぜいココアで、透子の欲求を満たすものではなかった。

 透子の中では帰り道の逆方向に向かう選択肢はなく、帰り道にあるコンビニを何軒も寄ったが満足できるものはなかった。

 そのとき透子は妥協して家にあったチョコレート菓子を食べた。いつもだったら絶対食べないが、一箱まるごと食べてしまった。カロリーを見てぎょっとしたけれど、いくぶんか心がすっとした。

 気持ちがどうしようもないとき自分の欲望に素直になるようになったのは、この経験があったからだ。


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