陸上部男子の日常 (3)
「それで、安藤君、陸上部男子の問題とは?」
俺が波川さんからムフフ本を取り上げたことで、少し冷静さを取り戻した安藤君が、陸上部男子の問題を語り始めた。
「はい。陸上部、男子の、問題です。そのロッカーの中の『お宝』は歴代の先輩たちが残していったものなんだけど、これを巡って学年ごとに派閥が出来ていまして。えっと、三好先輩、説明お願いできますか?」
安藤君の横に控えていた三年の三好先輩が一歩前に出た。坊主頭が青春臭くて、好青年っぽい印象だ。しかし、このロッカーの中の秘密を知ってしまった今では、ザ・エロ坊主先輩という風に見えてしまうから人の印象とは不思議なものだ。
その三好先輩が、俺と波川さん、それに未だに赤面している結城さんに向かって問題を聞かせてくれる。ん? これは結城さんに対するセクハラになるのでは?
「えっとね。このロッカーの中の『お宝』の状態をキープすべきだって保守派の二年と、新しい『お宝』をもっと増やすべきだって革新派の一年、それに中立の三年が揉めててね」
なるほど。各学年がお宝についてどう対応すべきかで対立しているってことか。しかし、まあ、ムフフ本の行方を巡って対立するなんて、実に俗っぽいなあ。
俺が状況を把握していると、ロッカー前に立ち続けている波川さんが突拍子もなく解決策を提示した。
「じゃあ、こうすればいーんすよ」
波川さんはごそごそとポケットから三センチメートルくらいの小さな紙箱を取り出すと、その中から小さな棒を抜き取り、それを紙箱の側面でシュッと擦って……って、ええっ!
「ちょ、ま、波川さん! それ、マッチじゃ!」
「そーっすよ。ほれ、ぽーいっと」
波川さんは火の点いたマッチをロッカーに放り込んだ。マジかよ! この女、クレイジーじゃねえか! サイコパスじゃん!
ムフフ本、正確には先ほど波川さんの手から取り上げた『巨乳・ザ・ベスト』の上に着地したマッチはじんわりとその火の領域を広げていく。オレンジ色の火が、じわじわと強く、大きく燃え上がる。ヤバい。乾燥しているから火の回りが早い。
「燃えろー。燃えろーっす」
波川さんは広がる炎をじっと見つめながら、はやし立てている。
俺も、陸上部の三人も、結城さんも、波川さん以外の全ての人の時間が制止していた。
しかし、パチンと火柱が一筋あがると、俺は急に正気に戻った。
そして、正気に戻った瞬間、血の気がサッと引いた。俺は気が急きながらも、消火活動に移るべく、俺と同じく立ちすくんでいる周りに指示を出した。
「結城さん、部室棟の廊下、階段の傍に消火器があるから取ってきて! 波川さんは下がって! 安藤君、カーテン借りるよ!」
結城さんは俺の指示にハッと我に返り、部室を飛び出した。
俺は部室の窓にかかっているカーテンを強引に引きはがし、バタバタと火を覆いながら消火活動に努めた。
しかし、火の勢いは衰えることがない。そのまま目の高さくらいまで火の粉が立ち上る。
やばいやばいやばい。ボヤ騒ぎなんてあった日には自宅謹慎? 退学? マジヤバい!
焦燥感でいっぱいになって思考がまとまらない。そこに、結城さんが廊下から消火器を重そうに運んできてくれた。
「しょ、消火器ありましたー」
結城さんは重そうに古臭い業務用加圧式ABC粉末消火器を両手に抱えて持ってきた。加圧式は炭酸ガスを発生させ急激に圧力を加えることで放射する消火器のことで、最新の蓄圧式と比べると事故も多い代物らしい。ABCとは普通火災、油火災、電気火災など広く消化能力を発揮する消火器を指す。どちらも、つい先月開催された避難訓練で消防士の人から教えてもらったばっかりだった。
そんな豆知識は今はいいから、早く、消火してくれ!
「急いで! 消火器、使える?」
「は、はいー。えっと、一、安全ピンを抜く……。二、ホースの先端を持って火に向ける……」
結城さんは丁寧に消火器側面の取り扱い説明を読みながら、もたもたと消火活動に移った。
早くしてくれ! 一刻を争うんだ!
「三、レバーを強く握って噴射……キャッ!」
ブシューと音を立てながら、白い消火粉末が炎を覆い隠す。
結城さんはアタフタと落ち着きがないが、ホースだけはしっかりと火元を狙っていた。意外と神経が太いのかもしれない。
やがて、火は完全に消えた。
しかし、消火器は消火液の噴射を続けていた。
「ご、五味君? 止まらないんだけどー?」
結城さんは慌てていたが、ホースだけはしっかり手にしていた。
「大丈夫。加圧式の消火器だから中身が空になるまで止まらないだけだから」
「それって、どれくらい?」
結城さんは叫ぶように尋ねたが、結城さんがそうしてバタバタしているうちに、消火液は尽きたようで、消火器は大人しくなった。
まあ、精々長く見積もっても二十秒と言ったところだったな。
ロッカーの中は無残に焼けた本やら映像ディスクやらで焦げ臭い。それに、消火液がロッカーの中を満たしてそれはもう無残な有様だった。
消火活動がひと段落したところで、俺は波川さんを怒鳴りつけた。
「波川さん! 何やってるの!」
「えー、問題の火種が無くなればいいと思ったんすよ。そんなに悪かったっすか?」
波川さんは頬を膨らませながら、俺の叱責に対して抗議してきた。この子、事態を把握していないな! てか、問題の火種がなくなったとして、リアルな火種を与えてどうするよ!
「当たり前だよ! 火が部室棟に燃え移ったら、大事だったんだからね!」
口角泡を飛ばす俺だが、波川さんはスッキリとした表情だ。
「大丈夫っすよ。部室棟はコンクリート打ちっ放しなんすから。木造じゃないっすよ。それに、ロッカーは金属製じゃないっすか」
それは確かに言う通りだが、部室に無造作に放置されているタオルやジャージに引火する恐れだってあったのだ。ここは厳しく叱っておくべきだろう。
「それでも、ダメなの! 火は危ないんだから! そもそも、何でマッチなんて持ってたの?」
「家のストーブに火を点けるのに使うんすよ。だから秋冬は大抵常備してるっすね」
「そ、そう……でも、無作為に火を点けちゃダメなんだからね。人の生死に関係するかもしれなかったんだよ?」
ボヤ騒ぎで人の命を持ち出すのは少し言い過ぎかもしれないが、ここはちょっとくらい誇張して、意識を改めてもらわないとな。死傷者こそ出ていないけど、火が広がっていれば大事故に発展した恐れだってあるんだから。それに、放火罪は殺人罪と同じくらい重い罪だと聞いたことがある。それくらい、ヤバいことをしたってことを、波川さんは知るべきだ。
できるだけ控えめに諭すように波川さんを叱ったが、波川さんはまだ事態を甘く見ているようで。
「でもでもでもっす」
「言い訳しないの。言い訳する子にはこうだ!」
俺は波川さんの左右のほっぺたを人差し指と親指でギュッと抓った。
「い、いふぁいっすよー。ほ、ほうりょくはんたいっすー」
「反省しなさい! これは教育です!」
かれこれ一分くらい波川さんのほっぺたをイジメた。思ったより柔らかいほっぺただった。
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