悪名高い黒崎法律事務所
「ここが黒崎法律事務所だ」と冴島は、目の前に立つ建物を指さしながら言った。外観は古びていて、周囲のビル群の中では目立たない存在だったが、何かひっそりとした威圧感が漂っていた。
山城は外見を見るなり、「怪しげですね」と感想を言う。
「どこが怪しげなんだ?」
「直感ですよ、直感」と山城は答え、少し肩をすくめた。まるで自分の感覚が正しいと主張するかのように。
冴島は心の中で「先入観が邪魔しているな」と思った。山城には余計な情報を伝えてしまったかもしれない。
インターフォンを鳴らすと、「今行きます」と女性の声が答える。被害者の妻かもしれない。数秒後、ドアが静かに開かれ、薄暗い廊下の奥から一人の女性が姿を現した。
彼女の姿は中背で細身、落ち着いた黒のスーツに身を包んだその女性は、鋭い眼差しを持ち、洗練された雰囲気を醸し出していた。髪は肩までの長さで、落ち着いた色合いのストレートに整えられている。だが、彼女の表情には、少しばかりの緊張が見て取れた。
「お待たせしました。どういったご用でしょうか?」彼女は冷静に言ったが、その声にはわずかに震えが感じられた。冴島は一瞬、その様子に違和感を覚えたが、すぐに切り替え、捜査の一環として冷静に話を進めることにした。
「私たちは相澤隆さんの件についてお話を伺いたいのですが、少しお時間をいただけますか?」冴島が尋ねると、彼女は一瞬戸惑ったように見えたが、すぐに頷いた。
通された部屋は、ビルの外観からは想像もつかないほどの派手さを誇っていた。高価な絵画が壁に掛けられ、重厚なデスクには金属の装飾が施されている。家具はどれも上質なものばかりで、事務所の儲けがかなり良いことを物語っていた。
「あなたは
相澤絵里は軽くうなずく。
「それで、相澤の――主人のことで、聞きたいことがあるとか」彼女の反応は冷静そのものだが、冴島には何かを察したように見受けられた。
「率直に申し上げます。昨日の午前、
相澤絵里の反応は、冴島の予想通りだった。最初は驚きで目を見開き、反射的に手で口元を覆う。ほんの一瞬、彼女の表情は崩れ、感情が顔に出てしまったが、その揺らぎはすぐに収まった。彼女の目には冷静さが戻り、弁護士としての自制が働いたのだろう。
「つまり、私は容疑者の一人、ということですね」
「容疑者というよりは、彼のことを聞きたくて来ました。もちろん、状況次第では容疑者になりえますが」
「それはあり得ないな」
低く響いた男の声に反応して、冴島と山城は振り返った。いつの間にか事務所の扉が開いており、一人の男が静かに立っていた。黒崎健司――悪名高い弁護士の登場に、場の空気がさらに張り詰める。
「彼女は昨日、法廷で弁護をしている」と黒崎は自信満々に言い放つ。彼の言葉には疑いの余地がないようだった。
相澤絵里は無言で首を縦に振り、黒崎の言葉を肯定している。
「なるほど。情報提供ありがとうございます」
冴島は一旦礼を言いながらも、視線を自然に二人の右手に移した。彼の目に留まったのは、相澤絵里の指に光る指輪だった。そのデザインは、被害者のものとはまったく異なる。
「ところで――お二人はどういう関係ですか? ただの仕事仲間ではないと思いますが」
「別に隠すつもりはなかったんだがね。そう、君の言う通り、ビジネスパートナーではない。将来を誓い合った仲だ」
将来を誓い合った仲。なるほど、それが原因で被害者の相澤隆と別居したに違いない。
「一ついいですか? 彼女にアリバイがあっても、あなたにはあるんですか? 代わりに被害者を殺したって可能性もあるのでは?」
山城の一言は部屋の空気を一変させるのに十分だった。彼女の言葉で黒崎のポーカーフェイスがかすかに崩れた。しかし、それも一瞬だった。
「アリバイですか? 私にはありませんね。残念ながら」
「冴島先輩、黒崎のことどう思いますか?」山城は運転しながら、冴島に印象を聞く。
「どうって言われてもなぁ。まだ、なんともいえん。あくまでも容疑者の一人だな」
そう言いつつも、冴島は黒崎が犯人ではないと感じていた。被害者は数回殴打されている。怨恨の可能性が高い。黒崎にはそこまでする動機がない。そして、なによりも、タロットカードを置く必要がない。
「はあ、結局収穫無しですね。まあ、先輩が独断専行しなかっただけマシでしょうか」
「ひどいな、やっちゃん」と冴島は苦笑しながら答えた。
「先輩、愛称なのは分かりますが、いい加減にしてくださいよ」と山城が言い返す。これが冴島たちの日常だ。
「さて、戻って飯田警部に報告だな。進展無しって聞いたら、怒るだろうな」
「明日には何か掴めるんじゃないですか」
「そうだといいんだがな」
冴島にはある予感がしていた。今回の殺人事件が一筋縄ではいかないという予感が。
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