来世はあなたと結ばれませんように

倉世朔

第1話 来世は


 夢を見た。永遠に覚めなければいいと思える夢。

 私の病気が完治して、最愛の夫と一緒に湖畔で楽しくピクニックをしている夢だ。


 春の霞んだ空を眺めながら、優しくて温かな風に誘われる。私が作ったサンドイッチを夫が食べ、彼はその美味しさに笑顔になる。その笑顔が嬉しくて私もつられて微笑んでいるのだ。


 もう少し。

 もう少しこのままこの幸せな瞬間を感じていたい。

 ズキッと喉が痛みだす。

 あぁ、もう時間がきたみたいだ。


 私は自分の咳で目が覚めた。

 

【来世は、あなたと結ばれませんように】

 

 夢か幻か。もうそんなのどちらでもいい。

 いつもの天井。いつものベッド。いつもの匂い。

 現実に引き戻されてしまったのだ。


 右手を見ると、夫のエドガーがベッドの傍らで眠っていた。夜中まで看病してくれたのだろう。彼の片方の手には濡れたハンカチを握りしめていた。

 結婚して約十年。二人ともそろそろ三十になる年だが、エドガーの老いは酷くなるばかりだ。額近くの髪は白髪が混じり、目元の皺が深く刻まれて増えていっている。食べる時間もないのか、彼の腕を見ると以前よりも痩せ細っていた。


 彼がこんな姿になったのは全て私のせい。

 私が不治の病にかからなければ、夫が多忙を極めることはなかっただろう。


 エドガー・セオドルス公爵。セオドルス家は代々サイミーア国の宮廷貴族として仕えており、エドガーはこの国の王であるアンドリュー一世陛下と政治を動かしている。サイミーア国は現在、隣国のアルジミアン国と緊張状態にあり毎日会議に参加しなければならなかった。


 そんな中でも夫は、夜通し王宮で仕事をしたことは一度もない。私の看病のため早くに屋敷に帰り、私が眠りにつくと自室で策を夜な夜な考えている。

 眠るのが苦手な夫だが、あまりにも寝なさすぎる。こうしていつ眠っているのかもわからない忙しい日々を毎日送っているのだ。


 彼は自分の体のことなど後回しで、屋敷に戻れば私の看病ばかり。もっと自分の体を労って欲しいと毎回言っているがいつも笑って誤魔化されてしまう。


 ここで少しでも長く寝ていて欲しかったが、どうしても咳が出てしまう。

 案の定、私の咳でエドガーが目を覚ました。


「マリー。すまない。寝てしまったようだ。ほら、水を飲んで。その後で食事と薬を持ってこさせよう」

「起こしてしまってごめんなさい」

「いやいや。そろそろ起きないといけない時間だったから、気にしないで。さぁ、水を」


 夫から手渡されたグラスを受け取って少しずつ飲む。


「いつもごめんなさい。エドガー。あなたちゃんと食べているの? あなたが食べないのなら私も一口だって食事をとりませんからね」


 エドガーは柔らかい笑みを私に向けて、私の手をとる。


「心配してないで。ちゃんと食べているよ。すまないね。ずっと側にいてやりたいが今日も陛下に呼ばれている。何かあればすぐに駆けつけるから、我慢しないで侍女のアメルダに言うんだよ。私はもう少し部屋で休むとするよ」

「ホットミルクでも作りましょうか? すぐ寝付けるわよ」

「久しぶりのホットミルクか! 君の作ったホットミルクを飲むと魔法がかかったみたいによく眠れるんだよなぁ。でもねマリー。今日はなんだか瞼がやけに重いんだ。瞼がくっついて離れなくなったらどうしようって不安なくらいにね!」


 彼は私を笑わせるためにわざと面白く言ってくれる。

 しかし、彼の目の下のクマが痛々しく感じた。


「無理しないでくださいね」

「わかってるよ」


 夫が私の頬に軽くキスをすると、丁寧な口調で囁く。


「愛してるよ。マリー」

「いきなりどうしたのよ」

「別に。言いたかっただけさ。さっ、食事をとって薬を飲んで、早く元気になるんだよ」


 彼はそう言って私の寝室から出ていく。


 咳を我慢し過ぎたせいか、激しくむせてしまった。息ができなくて顔が真っ青になり、口元を押さえていたハンカチには血が混じる。


 もう自分は長くはもたない。

 私はもう少しで終わる。

 これで夫の荷が降りるだろう。

 それでいい。

 それでいいのだ。


 持ってきた食事はスープだけ飲み、薬は飲まずにマットとベッド台の隙間に入れる。

 不治の病を治す薬などない。ただの気休めだ。


 そしてベッドに横になって目を閉じ、昔のことを思い出した。


 エドガーとの出会いは、お見合いから始まった。

 当時は好きでもない相手と結婚なんてしたくないと嘆き、エドガーに実際会っても冷たくあしらっていた。

 二人でしたくもない散歩をして無言が続く中、私のお気に入りの帽子が風に飛ばされて湖に落ちてしまった。その時彼は躊躇わずに湖に入り、帽子をとってきてくれたのだ。その時の彼の笑顔は今でも忘れられない。


 それから私は彼のことが次第に好きになった。とても面白くて明るくて、そして何より優しい。笑った時の目元が特に好きで、もっと笑って欲しいと心からそう思い、それから私は婚約を受けた。その時の彼は子供のように喜んでいた。


『初めて会った時から素敵だと思っていたんだ。一目惚れしてしまったんだよマリー! 良かった! 本当に今日は最高の日だ!』


 だが不幸なことに結婚してすぐに私が病にかかってしまった。病気のせいで子供が授かれないと医者に言われた時でも、彼は私に気を遣ってくれた。


『それなら、私たちはいつまでも恋人同士だ。二人で気楽に旅にも行けるじゃないか。君となら私はどこでも一緒に行きたいな。それが天国でも、地獄でもね。来世でも君と結ばれたいんだ、マリー。来世でもきっと、君を見つけてみせるよ』



 深い眠りにつきそうになっていた時、侍女のアメルダが勢いよく部屋へやってきた。


「奥様! 大変です! 旦那様が、旦那様が!」



 エドガー?



 私はまさかと思い、裸足のまま急いで部屋を出る。侍女にもたれながらエドガーの部屋を開けると、彼はベッドに横たわっていた。


「エドガー?」


 私はエドガーに近づいて手を握る。


 彼の手はとても冷たく、そして固くなっていた。

 唇は白く、顔も真っ青だ。

 私は世界がぐるっと回ったように眩暈を起こし、床から崩れ落ちる。


「奥様! 今お医者がこちらに向かってますので。お気を確かに……」

「そんなエドガー……あなた……!」


 いつも私を診てくれている先生がやってきて、彼を診る。

 エドガーは過労死だと診断された。


「栄養失調と寝不足が原因でしょう。仕事と奥様の看病の両立に体が限界にきていたかと……エドガー様自身も自分の体の異変に気づいていたはずでしょうに……こんなことになって、非常に残念です」

「エドガー……どうしてそこまで……!」


 先生が下がった後、私はアメルダにお願いする。


「誰も部屋に入れないで。しばらく二人にしてちょうだい」


 アメルダは泣きながら部屋を出た。

 私はゆっくりと夫の頬を撫で、キスをする。そして彼の胸にそっと耳を近づけた。

 鼓動しない心臓。あんなに力強く打っていた心臓の音が今は全く聞こえない。

 私は涙を流しながら、ずっと彼の胸に耳を当てた。


「さっきあなたが愛してるって言ってくれた時、私も愛してるって言ってあげればよかった。まさかこんな終わりになるんて……ごめんなさい。ごめんなさいエドガー」


 私のせいで死んでしまった。

 私と結婚しなければ、出会わなければ、エドガーは長生きできた。

 そして、私なんかよりももっと素敵な人に出会って、幸せな日々を送れたはず。


「愛しています。この世界の誰よりもあなたを愛しています。エドガー。あなたは言った。来世も君と結ばれたいって。私は違うわ。来世があったら、あなたとは結ばれません。来世は私なんかよりもっと素敵な人に出会えますように。幸せになりますように。そう願っています」


 咳が激しくなり、口から血が滴る。

 瞼が重くなり私はゆっくりと目を閉じた。


 眠い。とても眠たい。

 またあの幸せな夢が見られるのかしら。


「愛してる。愛してるから次は私を見つけない……で」

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来世はあなたと結ばれませんように 倉世朔 @yatarou39

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