第6話 はじまりの骨 三.

 にぶい灰色の雲が、隙間なく空をおおっている。

 ちょん、とつつけば底が抜けて、どうっと雨が降りだしそうな天気だ。

 

 学校で一日を過ごしながら、わたしは彼にプレゼントを渡すタイミングを逃し続けていた。


 朝のあいさつを交わしたとき、休み時間にお母さんがお守りをよろこんでくれたという報告をもらったとき、昼休みにお弁当のおかずの交換をしたとき、掃除当番が一緒になったとき……チャンスはいくらでもあった。


 人目につかないよう、ふわっと鞄からプレゼントを出し、「そういえば、今日、誕生日だったよね」と気軽に言って、さっ、と渡せばいい。それだけだ。


 ……わかっている。


 わかっているのに、実践できない。

 いざそうしようとすると、胸が爆発するみたいに高鳴って、とてもじゃないけれど無理だった。


 そうしてうじうじしているうちに、とうとう帰りのホームルームが終わってしまった。


「生駒。今日の二者面談は、おまえからだぞ」


 さいわいなのは、連日の放課後に、進路についての面談が催されていたことだ。

 

 先生に呼ばれた生駒くんは、「はあい」と面倒くさそうに返事をして、教室を出ていった。

 その背中を見やりながら、わたしはため息をついた。

 

 彼が戻ってきたとき……それが、最後のチャンスだ。


「セーター、できた?」


 帰り始めるクラスメイトたちの中、じっと机についていると、筒見さんがやって来た。


「うん。できた」


「本当!」と、彼女は手をあわせた。


「おめでとう!」


「筒見さんのおかげだよ」


「ううん。森下くんががんばったからだよ」


 彼女はにこりと笑って、


「冬が楽しみだね。ミルク色のセーター、きっと森下くんに似合うと思うよ」


「あっ」


 そうだ。

 彼女は、わたしが自分で着ると思っているのだ。


「いや。あのね、これはプレゼント用につくったんだよ」


「プレゼント用?」


 彼女は驚き、それから少しだけ表情をくもらせ、


「……誰にあげるの?」


「えっと……」


 わたしは言葉をにごした。


 生駒くん、と正直に答えれば、気持ち悪がられるかもしれない。

 男子が男子に手作りのセーターを贈るだなんて、妙なことだとわかっている。


「……もしかして。彼女、とか?」


「まさか。そんなひと、いないよ」


「じゃあ……好きなひと?」


 わたしはなにも言えず、うつむいた。

 顔にどんどん血がのぼってくるのがわかる。


「そう……」


 わたしの図星を察したのだろう。


「……よかった。森下くんの恋のお手伝いができて」


 彼女は、か細い声で言った。


「……ありがとう、筒見さん」


 わたしは机を見つめたまま言った。


「ここまで、ずっと付き合ってくれて。感謝しても、しきれない。おかげで、本当にいいのができたんだ。……筒見さんのおかげで、自信を持って、渡せるよ」


 返答を待ったが、来ない。

 そのまま、無言の時間が流れた。


 どうしたんだろうと思って、顔を上げると、


「えっ?」


 彼女は、しずかに涙をこぼしていた。


「あっ」


 自分でも気づいていなかったのか、彼女はあわてて涙をぬぐい、


「ご、ごめんなさい」


 さっ、と、身を返した。


「筒見さん!」


 思わず席を立って呼び止める。

 しかし、彼女は振り向くことなく、逃げるように教室を出ていった。


「あーあ」


 一部始終を見ていたクラスメイトの男子たちが、いじわるな声を上げる。

 そのとき、生駒くんが教室に戻ってきた。

 彼は訝しそうに、近くにいた男子に尋ねる。


「今、筒見とすれ違ったんだけど……。なんか、泣いてなかった?」


「森下が泣かせたつよ」


 彼が、怖い顔をして、わたしを見る。「ほんとか?」と言う。


「あ……」


 なにも言えない。


 わたしを見つめる彼の瞳に、彼の父親の影がうつっているようだった。


「……ちょっと来い、森下」


 わたしの態度から、それが本当だとわかったのだろう。

 彼は真剣な顔をして、わたしを教室の外へと呼んだ。


 混乱しながら、ついていく。

 人気のない踊り場まで来て、彼はわたしと向かいあった。


「俺、親父がきらいなんだ。どうしてか、知ってるな?」


 わたしは、なにも、なにも――。


「いいか。――女子を泣かせる男は、最低中の、最低だ」


              ◇


 雨が降りだした。水煙で、少し先も見えないくらいの大雨だった。


 生徒たちが傘をさし、校舎を出ていく。

 わたしは、持っているのに、傘をさせない。

 

 ずぶ濡れになって、帰路を行く。

 

 つめたい以外に、なにも考えられなかった。

 寝不足のからだに力が入らず、ふらふらする。

 水を吸ったスニーカーが重たい。


 でこぼこの泥道を行くうち、くぼみに足を取られた。

 がくん、とひざが折れ、わたしは、グチャリ、と、前のめりに倒れ込んだ。


 鞄が投げ出され、水たまりに落ちる。

 這いつくばるように鞄の元まで行き、中を開ける。

 教科書も、ノートも、星柄の包みも、ふやけるほどに濡れ、汚れている。

 

 包装紙を開けた。

 

 きれいなミルク色だったセーターが、泥だらけになっていた。

 

 わたしは、鞄を抱いて立ち上がった。

 雨音の中で、かすかにスマホの着信音が鳴った。

 ポケットから出して、見る。うす暗い視界に、四角い光が浮かび上がる。


 筒見さんから、メッセージが入っていた。


『ごめんなさい。突然、泣いてしまって』


 続けざまに受信する。


『泣くつもりは、なかったんです。でも、がまんができなくて』


『私が編んでた、あの手袋。あれ、本当は、森下くんにあげるつもりでした』


『森下くんのセーターにあう色を選んで。一週間後の……森下くんの、誕生日に』


 近くの道路を走るトラックが、雨を踏む音を立てる。

 ヘッドライトが、またたきの間だけ、わたしを照らす。


『こんなことを言われても、困らせてしまうって、わかっています。本当に、ごめんなさい』


『森下くんの恋がうまくいくよう、願っています』


『でも……どうか、これだけ、伝えさせてください』


 ちかっ、ちかっ、と、あたりが稲光で白くなる。

 遠くで、雷鳴がした。


『私、あなたが好きなんです』


              ◇


「まあ、まあ、まあ」


 玄関でぼたぼたとしずくを垂らす、泥だらけのわたしを見て、おばあちゃんは目を丸くした。


「まあ、転んだとね、慎くん。まあ、まあ」


 おばあちゃんはバスタオルを持ってきて、わたしの髪を拭いた。


「こんなに冷えて。さあ、服を脱いで。お風呂に入りなさいな」


 言われるがまま、わたしは制服を脱いで、シャワーを浴びた。


 つめたいからだが、お湯の温度になじんでいく。

 すっかりあたたまって浴室を出ると、まっしろなシャツと、ジャージのズボンが用意されていた。


 バスタオルを首にかけて、脱衣所を出る。

 廊下には、いいにおいがただよっていた。


 誘われるように、台所へ行く。

 コンロの前で、割烹着姿のおばあちゃんが、鍋をかきまぜていた。


「あら」


 わたしに気づいたおばあちゃんが、振り返る。


「あったまったね?」


 わたしはうなずいた。


「今、ぜんざいをつくっちょるとよ。もうできるから、髪を乾かしておいで」


 おばあちゃんはほほ笑み、また、鍋に向かう。


「白玉、何個いるね? いっぱい入れてあげる」


 窓の外には、絶えず雨音がある。

 あたりには、あずきのにおいが、いっぱいに満ちている。


 わたしは立ちつくして、おばあちゃんの背中を見つめていた。


「健一もね」


 ふと、おばあちゃんが言う。


「……あ、慎くんのおじさんもね。慎くんくらいのころ、たまに泥だらけになって帰ってきたとよ。まあ、あの子はやんちゃだったかいね」


 おばあちゃんは、ふふふっ、と笑った。


「だから、さっき、慎くんを見て、すごく懐かしかったわあ。うん。男の子は、泥だらけになるくらいがいいとよ」


「おばあちゃん」


 意識の外から、言葉が出ていた。


「ぼく、女の子なんだ」


 おばあちゃんは、目を見開き、わたしを見た。


 わたしも、おばあちゃんを見ていた。


 雷が鳴り、蛍光灯がわずかに明滅した。

 くつくつと、ぜんざいの煮える音がする。


 一瞬とも、永遠ともつかない時間が流れ、


「そうやとね」


 おばあちゃんは、いつもとなにも変わらず、ほほ笑んで、


「じゃあ、これからは、慎ちゃんって呼ばなきゃねえ」



 はあっ、と、押し出されるように、お腹の底から息がもれた。


 わたしね、おばあちゃん。


 男の子として、上手に生きているつもりだったのに。


 都合が悪くなったら、全部、おばあちゃんのせいにしてたんだよ。


 そう思った拍子に、なにもかもが、ぐちゃぐちゃになった。


 わたしは、おばあちゃんにすがりついた。

 割烹着のすそを握り、顔をうずめ、ひざをついて、声を上げて泣いた。


「あら、あら」


 おばあちゃんは、ひざをおって、わたしを包むように抱きしめた。

 とん、とん、と、背中をやさしいリズムでたたいて、「よし、よし、よし」と言った。


              ◇


 夢を見た。


 わたしはどこか、小高い丘にいた。

 あたりに人影はなく、際限なく広がる野には、わたししかいない。

 

 風が強くて、澄んだ空に浮かぶ雲の流れが早い。

 一面にしげっている背の低い草は、雨のなごりか、露をまとっている。

 その中で、ツタバウンランや、オオイヌノフグリ、シロツメクサやタチカタバミといった野草の小さな花が揺れていた。

 

 ひときわ大きな風が吹き、草原がざあざあと波打った。

 わたしはとっさに、かぶっていた麦わら帽子をおさえた。

 白いワンピースの裾が、ぱたぱたとそよぐ。

 風をやりすごしてから、足踏みをする。

 サンダルについた桃色のリボンの中心にある真珠が、きらりと光った。

 

 空を見上げ、両うでを広げる。

 目を閉じて、深呼吸をする。

 肺の深く深くまで、とうめいな空気が染みていく。

 青い草のにおいがする。

 にがい土のにおいがする。

 ほんのわずかに、潮の味もした。

 それは、あの汽水域の水と、おなじ味だ。


「ゆき」


 誰かに呼ばれた。


 聞いたことのない声だった。


「すごく、似合ってるよ」


 目を開ける。


 少し遠いところに、誰かが立っていた。

 でも、輪郭がぼんやりしていて、それが誰なのか、わからない。

 

わたしはその声の方へ、ゆっくりと歩き出した。

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