第5話 素顔 四.
三年半ぶりの再会だった。
わたしと翔くんは、茫然と見つめあった。
お互いに、かける言葉を探していた。
「慎太郎? どなた?」
台所から、母の声が聞こえた。
それが気つけになった瞬間、逃げたい、と思った。
ドアを閉めようとして、
「お、おい」
翔くんが手をかけて、それを制す。
そのはずみで、彼が提げていたビニール袋から、トマトがふたつ、転がり落ちた。
「あっ」
ごめんなさい、と言おうとしたけれど、声が出ない。
「……じいちゃんちから届いた、野菜。おすそわけに持って行けって、母さんが」
ビニール袋には、きゅうりやナスも入っている。
彼はトマトを拾い上げて、袋に戻し、わたしに差しだした。
「……久しぶり」
「……うん」
わたしは、小さくうなずいて、ビニール袋を受け取った。
「……元気、だったか?」
「うん……」
「そっか……」
「あら、翔くん」
うしろから、母がやって来た。
「まあ、お野菜。おすそわけ?」
「あ、はい」
「いつもありがとうね。あ、そうだ。ちょうどスイカを切ったのよ。よかったら、翔くんも食べていかない?」
母は楽しそうに言う。
「慎太郎と会うのも、久しぶりでしょ? 中に入って、お話したら?」
「いやだ」
思わず声が出ていた。
「え?」
わたしはふたたび、うつむいた。「いやだ」と、今度は蚊の鳴くような声で言った。
それから、きびすを返し、驚く母をその場に残して、ダイニングにもどろうとした。
「慎太郎!」
廊下を行くわたしの背に、彼が大きな声をかける。
「俺……俺、ずっとおまえにあやまりたいと思ってたんだ!」
ふと、足が止まる。
「今じゃなくてもいい。いつか、いつかおまえが、またおれと話したいと思ってくれたなら……そのときは……」
彼の声は、ふるえていた。
「そのときは、今度こそ、上手に……」
わたしは、振り向かなかった。
ふたたび歩きだし、ダイニングに入って、廊下とつながるドアを閉めた。
◇
翌日、わたしは午前中の便に乗って、宮崎へ帰ることにした。
母と共に、空港へ。
手続きをして、おみやげを買った。
ロビーのソファに座っていると、急に母が、うしろからわたしの肩を揉んだ。
「なに?」と訊くと、「なんとなく。がっしりしてるね」と、母は笑った。
「今度は、お母さんがそっちに行くからね」
「うん。ごめんね、お母さん」
「どうして謝るの?」
母は笑った。
「お母さんはね。なにをするにも、信太郎の心のおもむくままでいいと思っているのよ」
出発時刻の十五分前になって、わたしは母と別れた。
母はわたしを見送ったあと、すぐに仕事へ向かうようだった。
母に対して、自分がひどいことをしているのはわかっている。
けれど、わたしは一刻も早く、この「ふるさと」を離れたかった。
飛行機の窓から見下ろす東京の街は、まるで電子回路のように見えた。
到着が待ち遠しかった。
宮崎空港に着くと、わたしはすぐに手荷物を受け取り、電車に乗って片辺菜へ向かった。
昨晩に電話をして、おばあちゃんの迎えは断っている。
駅を出て、すぐに行きたい場所があったからだ。
ひどく、からだが渇いているようだった。
ドアが開いて、片辺菜駅のホームに降りる。
駅員に切符を渡して、改札を抜けた。
快晴が目に染みる。
カラッとした暑さが肌を焼く。
南風の吹く、なにもない町のにおいがした。
気づけば、走り出していた。
防砂林への道が見えてきた。
周囲を見回し、人気がないのを確認する。
バリゲードをまたいで、海へと急ぐ。
青空に濡れた砂浜に着いた。
広大な海が、八月の陽にかがやいている。
やわらかな白波が打ち寄せ、やさしい音を立てている。
わたしは、汽水域へ走った。
砂に足をとられながら、たくさんの汗をかきながら、走った。
いつもの堤防がある。
そこに、ちょこんと腰かけている、麦わら帽子をかぶった彼女がいる。
「ナシャル!」
わたしは大声で、彼女を呼んだ。
彼女は、ふっ、と、こちらを向いた。
ぱっ、と表情を明るくして、立ち上がる。
砂浜に降りて、こちらへ駆けてくる。
「ただいま!」
わたしは荷物を投げ出して、彼女の手を取った。
彼女はにっこりと笑い、おかえり、おかえり、と言った。
「ただいま、ただいま!」。おかえり、おかえり。わたしたちは手を取りあって、その場でぴょんぴょんと飛び上がった。
仮面を脱ぎ捨てる。
干からびそうだったからだが、うるおいを取り戻していく。
やっと息ができた。
ふたりだけの汽水域に、すずやかな潮風が吹いた。
◇
東屋で、ナシャルへのおみやげを開ける。
彼女のすきなチョコレートのお菓子を買ったけれど、失敗だった。
溶けてしまっていた。
「ちょっと考えればわかるのに、ほんと、わたしって……」
わたしが暗い顔をすると、彼女はほほ笑み、首を左右に振って、指を汚しながら、チョコレートを食べた。
頬に手をあて、目じりを下げる。顔にべったりとチョコがついた。私は笑った。
東京のことを話そうとは思わなかった。
ただ、彼女と一緒にいて、いつもみたいに、他愛のないおしゃべりをしたかった。
でも、彼女の目には、やはり、わたしのお腹の底にある鉛が見えたのだろう。
彼女はふと立ち上がり、わたしの手を取った。
「なに?」とたずねても、答えない。
そのままわたしの手を引いて、汽水域まで来た。
「なあに、ナシャル」
彼女はすたすたと歩み、麦わらぼうしをシャコ貝の宝箱にかぶせて、しずかに揺れる水面を見つめた。
そして突然、どぼん! と、汽水域の中に飛び込んだ。
「あっ!」
驚きに声が出る。
彼女は、ざばっ、と水から顔を出し、にこりと笑った。
「な、なにしてるの?」
濡れたシャツが、彼女の肌にはりついている。
彼女は髪をかき上げ、わたしに向かって手を伸ばし、
ゆきも。
「えっ。む、むりだよ!」
わたしはうろたえた。
「そんな。むり、むり!」
しかし、彼女は手を引っ込めない。
わたしが握るまで、ほほ笑みを浮かべたまま、じっとしている。
どきどきする。
その白い手を取ったら、汽水域の奥深くに引き込まれてしまいそうだった。
でも、それは決して、恐怖からくるどきどきではない。
どうなってしまってもいい、という、わくわくをはらんだどきどきだ。
「!」
そのとき、ふいをついた彼女が水の中から飛び出して、わたしの腕を取る。
そのまま、水の中へ、引っぱりこんだ。
大きな音とともに、しぶきが上がる。
なにがなんだかわからないまま、全身をつめたい水がおおう。
泡のカーテンで、視界がゆがむ。
なんとか水面に顔を出して、息をする。
目の前で、彼女が笑っていた。
「……もう、ナシャル!」
わたしが怒ると、彼女はウインクをした。
熱をもっていたからだが、汽水域に冷まされていく。
くちびるから口の中へ忍び込む水は、ほんのわずかに潮の味がする。
彼女は水の中で、わたしの両手を取った。
そして、すーっ、と、大きく息を吸う動作をした。
その瞳が、息を吸って、と言っていた。
わたしは彼女のするように、息を吸い込んだ。
すると彼女は、とてつもない力で、わたしを水中へと引き込んだ。
わたしは、目を開けていた。
大量の気泡の幕が上がる中、深く、深くへもぐっていく彼女に手を引かれる。
不思議と、息ができた。
しだいに、水底の様子がわかってくる。
三百六十度、水底は先が見えないほどに広い。
差し込む陽のおかげで、とても明るい。
岩肌の中に、ゆらゆら揺れる海藻群とサンゴ礁があって、それを住処にする、色とりどりの熱帯魚が泳いでいる。
ちょうどその上を、羽をひろげた鴨の群鳥が通り過ぎた。
その鴨たちは、水中にあって、飛んでいるようだった。
ぷくぷくと泡を吐いている、カラフルな貝がある。
わたしたちが近づくと、ぱかっ、と口を開けた。
中に、数えきれないほどの真珠があった。
きれいな錦鯉たちがやって来て、その真珠をつんつんと口でつついた。
「わあっ」
感嘆の声とともに、わたしの口から、こぽり、と泡がのぼる。
頭上から、影が落ちて来る。海亀の親子が、真上にいた。
鼻先を、エビとヤゴの入り混じる群れが通り過ぎる。
つんつん、と、背中をつつかれた。
数頭のバンドウイルカが、代わるがわる、鼻先でわたしにタッチしていた。
イルカの向こうには沈没船らしき巨大な塊があって、船体の亀裂から、タコやウツボが顔をのぞかせていた。
その周囲には、色とりどりの花が咲き乱れている。
ハルジオン、ニワゼキショウ、アブラナ、朝顔……地上の植物が、一面にしげっていた。
「きれい……」
わたしは、光の差すその花畑の中で、あおむけになった。
遠く向こうの水面で、不確かな太陽が揺らいでいる。
「わたしも、人魚になれたらな……」
ぽこぽこと、わたしの声が泡になる。
「自由に海を泳ぐ、人魚に……」
目を閉じる。じんわりと、からだが水に解けて、自分がなくなっていくような気持ちがした。
ねむたい。
声が聞こえた気がして、わたしはうっすらと目を開け、となりを見た。
わたしと同じように、ナシャルがあおむけになって、目を閉じていた。
「ねむたいね」
わたしも、つぶやいた。
彼女は目を閉じたまま、ほほ笑んだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます