第5話 素顔 三.

 父がいたのは、入院棟四階の個室だった。


 横開きのとびらを開けると、広い空間があって、窓際にベッドが置かれていた。

 父はそのベッドの上で、半身を起こして、テレビを見ていた。


「お父さん。慎太郎が来たよ」


 母が言うと、父は無言でこちらを向いた。

 母とわたしは、ベッドのそばにあるソファに座った。


「大丈夫なの?」


 わたしが尋ねると、父は無表情のままうなずき、


「大丈夫だ」


「倒れた、って。大ごとだと思って……」


「ただの貧血だ。それを周りが大騒ぎして」


 父は眉根を寄せる。


「もう、すっかりいいんだ。なのに、七日も入院しろだと」


「ありがたいことじゃない」


 母は苦笑した。


「お父さん、二月から休みなしで働いていたから。たった一週間の休暇だけれど、どうかからだを休ませて」


「うん」


 わたしがうなずくと、父はつまらなそうな顔をした。


「俺は職場に無用か」


「ちがうわ。働いている病院に入院するんじゃ気が休まらないだろう、って、ここを

紹介してくれたのよ。そんな気遣いをしてくれるくらい、みんな、お父さんを大事に想ってるのよ」


 父は、ため息をついた。


 それから、会話のないときが、二十秒ほどあった。

 父は窓の外を眺めていたが、ふと、わたしを見て、


「学校はどうだ」


「えっ、あっ、うん」


 わたしは、口の中で言葉をお手玉した。


「きちんと行ってるよ」


「成績は」


「……悪くはないよ」


「模試、上位だったのよね。通知表も、あと少しで、オール5で」と、母。


「こないだ、成績の写真を送ってもらったの。音楽だけ3だったのよね」


「音楽か。ならいい」


 父は言った。


「そんなものは、できなくても問題ない」


 ふたたび、会話が途切れる。

 ……今度は、三十秒くらい、空いた。


「どこの大学に行くんだ」


「えっ?」


 突然の父の問いに、わたしは思わず声を上げた。


「どこの大学に行くんだ。東大か、慶応か」


「あっ、えっ……?」


「そろそろ、本格的に受験勉強を始める頃合いだろう。どの医学部に行くか、早く決めなさい」


 有無を言わせぬ父の言い方に、わたしはうつむくしかない。

 父がわたしの未来をどんなふうに思い描いているのか、悟ってしまった。


 高校を卒業したら、わたしが東京に帰ってくるのだと、父は思っている。


 そして、かつての自分と同じような大学に行かせて、同じように医師の道に進ませようとしている。


「お父さん。せっかくなんだから、もっと楽しい話をしましょうよ」


 困り果てるわたしを見て、母が助け舟を出す。 

 しかし父は毅然として、


「未来の話が楽しくないだと? まさか」


「もう……」


「慎太郎。ここまで間違えていたとしても、おまえはここから、いくらでもやり直せる。未来は明るいと信じて生きろよ」


 悪気なく、父は言う。


              ◇


 病院からの帰り道、お腹の底に落とされた鉛が重くて、うずくまってしまいそうだった。


 やっぱり、来なければよかった。


「ここまで間違えていたとしても」という、父の言葉がのしかかる。


 父からすれば、わたしは、引きこもりのまま中学を卒業し、田舎の高校へ進学した、駄目な息子なのだろう。

 

 でも、わたしは、それが間違っていたとは思わない。

 いや、それが正しかったのか、正しくなかったのか……その判別をするだなんてこと自体、頭になかった。

 

 わたしは……間違っていたのだろうか。

 一生懸命、仮面をかぶってきたわたしの道は、正しくなかったのだろうか。

 

 矛盾している。

 わたしは家族のために……父のために、仮面をかぶってきた。

 その結果として、今のわたしがここにある。

 きちんと「慎太郎」をしているわたしが、ここにいる。

 それが、間違っていただなんて。

 

 じゃあ、わたしが仮面を外したら、父はどう言うだろうか。

 それこそ、間違いだと言うはずだ。

 

 つまり、わたしは、どう生きようとも、間違えるのか――。

 

 交差点に差しかかる。

 たくさんの人と共に、信号が変わるのを待つ。

 

 目を閉じる。

 

 脳裏に、あの海が浮かぶ。


 青空の下、もくもくと入道雲がふくれていて、波打ち際には、笑顔のナシャルが立っている。

 

 彼女が、わたしに手を振った。

 

 ゆき。

 こっちだよ。

 

 彼女の声が聞こえたような気がして、目を開ける。

 

 津波のように、人々が動き出す。 

 わたしは動けず、そこにいた。

 後ろから、どん、と、誰かがぶつかって、わたしに舌打ちをした。


「どうしたの?」


 先に歩き出していた母が気づいて、戻ってくる。

 わたしの手を取って、「ほら」と、横断歩道を渡ろうとする。


「お母さん」


 わたしは言った。


「帰りたい」


「えっ?」


「おばあちゃんちに、帰りたい」


 信号が、ふたたび赤になる。母は、悲しそうな顔をした。


「どうして?」


「帰りたいんだ」


「……慎太郎」


 わたしはそれ以上、母の顔を見られなかった。

 うつむいて、スニーカーのつまさきを、ひたすら見つめた。


「……今日くらいは、お家に帰りましょう。お母さん、久しぶりのお休みなの」


 母が言う。つとめて、明るい声で。


「私ね。慎太郎と、ごはんを食べれるの、楽しみにしてたの」


 はっ、と顔を上げる。母は、ほほ笑んでいた。

 その目尻に増えた皺が、これまで会えずにいた時間を、わたしに突きつけた。


「……」


 わたしは、うなずいた。

 母は、救われたような顔をした。


              ◇


 進路なんて、考えられない。

 将来なんて、考えたこともない。

 男性なのか、女性なのか……自分自身の在り方さえ万華鏡の模様のように不確かなのに、ひとつの未来のことなんて、決められるはずがない。


 でも、ここが人生の分岐点だというのなら、ただひとつだけ、確信がある。

 

 それは、このまま仮面をかぶり続ければ、もう一生、脱げなくなるということ。

 

 男性の仮面が顔面と一体化して、わたしはいつしか、丸ごと「慎太郎」になる。

 そして、二度と「ゆき」にもどることはできない。

 森下慎太郎という人間が、毎日を平気なふうに生きていく。

 かつて「ゆき」だったことを永遠の底にしまいこみ、何食わぬ顔をして生きていく。

 こころを殺したことも、そのうちに忘れる。

 そして、切り株に芽吹く新芽のように、こころが死んだあとにはまた、新しいこころが生まれる。

 それはきっと、なにもかもをあきらめた、外側だけが立派な、空洞のこころだ。


「味はどう?」


 午後七時過ぎ。

 久しぶりに戻った実家で、わたしと母は夕食を取った。


「しょっぱくない? お塩、入れすぎちゃったかも」


 母は、わたしの好きなハンバーグを用意してくれた。

 わたしが来ると聞いて、前日の深夜から仕込んでいたらしい。

 今日のために、仕事が終わってから、準備をしてくれていたのだ。


「おいしい、とっても」


 わたしが本心から言うと、母はうれしそうにほほ笑んだ。


「おかわり、あるからね」


「うん」


「やっぱり、慎太郎と一緒にご飯を食べると、おいしいわ。……そうだ、スイカも買ってあったんだ。ちょっと待ってて」


 母が、席を立つ。

 冷蔵庫から半玉のスイカを出して、切り分け始める。


「うん。よく冷えてるわ」

 

 母は、やさしい。

 この母のために、なにができるだろうかと考える。

 

 ……ちくり、と、胸が痛む。

 わたしはこのやさしい母を、だまし続けている。

 

 わたしは、母の前でも仮面をかぶり続けている。

 母は「慎太郎」に接しているのだ。


「お母さん」


「なあに?」


 いつしか小さく感じられるようになった母の背に、声をかける。

 仮面を外して、本当の自分を出してしまおうかと、気持ちが揺らぐ。


 やさしい母なら受け入れてくれる、と思ったわけではない。

 それより、母をだましているという罪悪感から、少しでも逃れたかった。


「どうしたの?」


 わたしがだまっているので、母は苦笑する。


「あ、おかわり?」


「……ちがう」


 わたしは、つばを飲み込んだ。

 

 半端な覚悟のまま、息を吸って、


「ぼく、ぼくさ――」


 そのとき、インターホンが鳴った。


「あ、はあい」


 母が包丁を置き、手を洗おうとする。


「いいよ。ぼくが出る」


「あら。ごめんね」


 わたしは食卓を離れ、玄関へ向かった。


 ドアのすりガラスに、なにかを持った、ひとりの人影がうつっている。


「はい」


 ドアを開ける。

 そして、はっとする。


 相手もまた、わたしを見て、息を飲んだ。


「……慎」


 そこにいたのは、記憶の姿よりもずいぶん背が伸びた、翔くんだった。

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