第5話 素顔 二.
その日は珍しく、朝から曇っていた。
筒見さんと手芸をしてから砂浜に行くと、汽水域に足をひたしたナシャルが、骨に頬ずりをしていた。
わたしは彼女が頬ずりをしているときは、話しかけないようにしている。
大切な人との思い出をみている時間に、水を差したくなかった。
そのうち、彼女が目を開けたので、わたしは彼女に近づいた。
「どんな思い出を見ていたの?」
わたしは、彼女と、彼女の大切な人との思い出の話を聞くのが好きだ。
そこには、ともだち同士では決して蓄積できない、恋人たちのうつくしい時間がある。
その話を聞くと、体がふわふわする。
隠れて読んでいた少女漫画の世界が、彼女の思い出によって骨格を持つ。
そしてわたしは、彼女をわたしに、彼女の大切な人を、生駒くんに置き換える。
彼女の思い出の中にいるふたりを、わたしと生駒くんの思い出として想像する。
すると、経験したことのない彼との時間が、わたしのものになる。
まぼろしの中で、彼と花火を見たり、菜の花を見たりできる。
彼女の思い出が、わたしの思い出になるのだ。
だからこそ、大切な人をなくしてしまった彼女のかなしみに、どこまでも寄り添いたいと思う。
彼女がどんな気持ちで骨を集めているのか、ひとごとではなく、当事者として、痛いほどにわかる……幼稚な自己投影だとわかっていても、それはどうしようもない本心だった。
『キキョウに、みずやりするおもいで』
わたしの質問に、彼女はペンを走らせる。
『はちうえの。ふたりで、そだててた』
『みずを、たくさんあげた。すごく、きれいにさいたよ』
彼女は、ふふっ、と、そのときを思い出すように笑った。
「すてきだね」
『すきな、おもいで。なんかいも、みちゃう』
背後の橋梁を、電車が走り抜けていく。
枕木を踏む音と、鉄のきしむ音が混ざりあう。
海の向こうの積乱雲に、稲妻が光った。光っただけで、雷鳴はない。
『ゆきは、はな、そだてたこと、ある?』
「うん。あるよ」
小学生のとき、理科の授業で観察日記をつけていた朝顔の鉢植えを、家に持って帰った。日当たりのいいベランダに置いて、育てていた。
「結局、枯れちゃったけどね」
水やりを忘れたことはない。
しかし、一緒に食事をとれるタイミングがあると、いつも父が「朝顔に水はやったか?」と訊いてきた。
わたしがうなずくと、父は「そうか」と言って、それで話は終わる。
当時のわたしは、どうして父がそんなに朝顔を気にするのか、わからなかった。
でも、今にして思えば、わかる気がする。
父は、わたしとの会話の糸口を探していたのだろう。
滅多に家に帰ってこれず、親子なのにほとんど会えず、近況を知らせあういとまもない。
それでもなんとかわたしに近づきたいという、父なりのコミュニケーションだったのだ。
「……ねえ、ナシャル」
わたしは、汽水域にただよう木片の群れを見つめた。
「きらいだけど、会わなくちゃいけない、って人がいたら……。ナシャルは、会いに行く?」
彼女の視線を、頬に感じる。
わたしは、汽水域から目を離せない。
しばらくして、彼女はペンを走らせ、ボードをわたしに見せた。
『どうしても、あわなくちゃいけないって、おもってる?』
「うん……」
『じゃあ、ゆきは、そのひとのこと、ほんとは、きらいじゃないんだよ』
「え?」
『あわなくちゃいけない、っておもえるんだから』
「……」
『ほんとにあいたくないなら、あわなくていい』
『でも、ゆきは、あわなくちゃ、って、おもってる』
『そうおもえるひとって、あんまりいない』
彼女はほほ笑んだ。
『あわなくちゃいけないひとは、あいたいひとだよ』
雲の切れ間から、日が差してきた。
『わたしにとって、あのひとも、そうだから』
彼女は、深く息をした。
◇
行きたくない。
行きたくないけれど、わたしは東京へ行くことを決めた。
行かなければ、ナシャルに不義理だと思ったから。
彼女は永遠に、大事な人と再会することはできない。
会いたい人に、会うことができない。
会おうと思っても、会えない。
でも、わたしは違う。
会おうと思えば、会える。
逃げようと思えば逃げられるのに、それでも「会わなくちゃいけない人がいる」という想いを抱けるのは、幸せなことなのかもしれない。
わたしはそれを、確かめたかった。
わたしが連絡をすると、母はとてもよろこんだ。
ネットで航空券を予約して、電子チケットを送信してくれた。
八月中旬の土曜日。
わたしは朝から、おばあちゃんとふたりで、電車に乗って空港へ赴いた。
搭乗手続きをして、ロビーへ向かう。
「ありがとう、おばあちゃん。すぐに戻ってくるからね」
「ゆっくりしてきてもいいとよ。ひさしぶりに帰るんだから」
「帰る」という言葉が、またしっくりこない。
「行く」のほうが、ぴたっとはまる。
十五年も暮らしていたのに郷土愛がないのは、わたしがつめたい人間だからだろうか。
「お父さんの様子を見に行くだけだから」
「そうね。慎くんのいいごつでいいとよ」
おばあちゃんが、やさしく笑う。
わたしは見送りを受け、東京行の飛行機に乗り込んだ。
宮崎を出発して、二時間弱。
羽田空港に到着し、飛行機を降りて到着ロビーへ行くと、母の姿があった。
わたしに気づいた母は、小さく手を振った。
「お疲れ様」
母が、にこりと笑う。
前に会ったときにくらべて、少し、やつれているようだった。
「揺れなかった?」
「うん」
空港に直結している駅から、電車に乗る。
座席に腰を下ろして、目的地の品川に着くまで、他愛もない話をする。
「慎太郎、ちょっと背が伸びた?」
「そうかな……」
「うん。なんか、青年、って感じになったわ」
「お母さんは、ちょっとやつれた?」
「えっ、そう見える?」
「うん。ずいぶんつかれてるみたい」
きちんと休めているのだろうか。
父よりも、母が心配になった。
「最近、立て続けに同僚がやめちゃってねえ。新しい人が入るまで、やめた人の分の仕事も回って来ちゃって」
「無理しないで」
「大丈夫よ。ありがとうね」
電車が品川に着き、わたしたちはホームへ降りた。
雑音を背景に、ドウドウと、濁流のように人波がうねっていた。
早送りをしているみたいな人たちが、みんなどこか一点を見つめて歩いている。
絶えず、乗車案内とベルの音が響いていた。
立ち止まっているだけなのに、誰かにぶつかりそうになった。
ああそうだ、と、わたしはここで初めて懐かしさを感じた。
これが東京だった。
「病院の最寄りの、代々木まで行きましょう」
山手線に乗り換えて、代々木駅まで行く。
当然、座席には座れない。
ぎゅうぎゅう詰めの車内で、命綱のようにつり革を握り、電車に揺られる。
車窓から、せまい青空が見える。
懐かしいという気持ちはとうに過ぎて、不快感が湧いていた。
新宿に着き、人ごみをかきわけて駅を出る。
排気ガスのにおいが香る。
クラクションと、行き交う人々の足音が響く。
なにもかも、片辺菜にはないものだった。
「少し歩くよ」
母に先導され、病院へ向かう。
道中、見上げれば、途方もなく大きなビル群が、正午の陽を乱反射している。
反射した光がまた別のビルに反射して、かがやきを押しつけあっていた。
やがて、病院に着いた。
とても大きい建物で、多くの人が出入りしている。
玄関の自動ドアをくぐると、病院特有の、薬っぽいにおいがした。
「入院棟は、あっち。行きましょう」
母が歩き出し、それに続く。
一歩、一歩と行くたびに、どんどん、どきどきしてくる。
くちびるがふるえる。
父に会う――。
たったそれだけのことが、こうもわたしを緊張させる。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます