第4話 ポカリスエット 三.
六時を回り、わたしは作業を切り上げて、商店街近くのスーパーへ向かった。
ちょっと高いプリンと、小さいペットボトルのポカリを買って、筒見さんの家に行く。
インターホンを鳴らすと、彼女のおかあさんが出てきた。
「あがっていって」とさそわれたのをていねいに断り、玄関先でお見舞いの品を渡して、いつものルートで砂浜へと急ぐ。
今日もまた、浜には人の姿がなかった。
夕陽を浴びる堤防に、ナシャルが座っている。
声をかけて隣に座ると、彼女はにこりとほほ笑んだ。
手のひらに、チェスの駒くらいの大きさの骨をのせていた。
「もしかして、新しい骨、見つけたの?」
わたしが訊くと、彼女は首を左右に振った。
なら、すでに持っていたものだ。
「それは、どんな思い出を見せてくれる骨?」
彼女は、じっと骨を見つめた。
それから、わたしに視線を転じて、ふっと笑う。
その笑顔は、まるで拾われた子犬が母親を想うときのように、とてもさびしそうにみえた。
それから、彼女はペンを取ることもなく、黙っていた。
夕空に、ミャアミャアと、海鳥が飛んでいる。
「……なにか、あった?」
彼女はほほ笑んだまま、首を左右に振る。
温かい光を灰色の瞳にともして、わたしの顔を見る。
「どうしたの?」
わたしは視線がくすぐったくて、苦く笑う。
彼女はようやくペンを握り、ボードに文字を書いた。
『ゆきは、やさしい』
「なに? 急に」
『ゆきは、わたしの、ともだち』
「え? うん。ナシャルと、わたしは、ともだち」
『だいじな、だいじな、ともだち』
「うん。大事な、大事な、ともだちだよ」
わたしが言うと、ナシャルは、にっこりと笑って、口をぱくぱくさせた。
ありがとう、と言っていた。
◇
季節は夏の円をなぞる。
七月下旬の日差しは、痛いほどに熱い。
熱気のうずまく空には蝉の大合唱が響きわたり、雲はいよいよ、針でつつけばぱちんとはじけてしまいそうなくらいに膨れあがった。
野球部は、見事に決勝戦まで勝ち進んでいた。
しかも、ここまで危なげのない大勝を続けている。
この勢いをうけ、校内だけでなく町中に、すでに甲子園出場が決まったかのような、お祭り前のような雰囲気がただよっていた。
「できた!」
昼休みの教室、最後のひとつの縫合を終えて、わたしと筒見さんは小さく拍手をした。
机上にずらりと、レギュラー九人分のお守りが並ぶ。
短い製作期間だったけれど、なんとか決勝戦に間にあった。
ひとりひとり顔と体格の違う、渾身のお守りだ。
「ありがとう、筒見さん。おかげで、すごくいいのができたよ」
「ううん。私の方こそ、ありがとう。とても楽しかった」
「筒見さんがいろいろ教えてくれなかったら、きっと完成させられなかった」
「いえいえ。こちらこそ、森下くんがお見舞いに来てくれなかったら、今ごろへばっていましたよ」
わたしと彼女は、ふふふ、と笑いあった。
お守りを野球部に届けた翌々日、とうとう決勝戦のときがきた。
平日だけれど、野球部は授業免除で、朝から球場におもむいている。
先生もふくめ、学校に残ったわたしたちは、ことあるごとに時計をながめ、気もそぞろに試合の結果を待った。
「今日の試合、テレビで中継があるっちゃろ?」
「すごいよねえ。ローカルとはいえ、知ってる人たちがテレビに映るなんて」
クラスメイトの声が聞こえてくる。
もちろん、わたしはしっかりと、録画の予約をしてきた。
やがて、試合の終了時刻予定である、昼休みになった。
みんながお弁当を広げだしたとき、ひとりのクラスメイトが教室に飛び込んできた。
「スマホの反映より早く知れるから、職員室に結果を聞きに行ってくる」と言っていた男子だ。
食事どきの喧騒が、またたく間に消えた。
教室中が、彼に注目する。
彼は、息を整えた。
「野球部……」とつぶやく。
こぶしを握りしめ、眉根を寄せ、肩を落として、言った。
「……負けた……」
◇
校内の空気とは無関係に、よく晴れた夕方。
事情を説明し、わたしはナシャルと早めに別れた。
家に帰り、いつもはすぐに着替える制服のままで、居間のテレビをつける。
そうして、録画していた野球部の試合を見た。
マウンドに立つ生駒くんが、大汗をかき、必死な顔をして投げている。
〇対〇のまま、拮抗した試合が続く。
しかし、七回。
堰を切ったように相手の打線が爆発し、彼は大量に点を取られた。
どこに投げても、打たれてしまう。まるでサンドバッグのようだった。
それでも彼は、交代を告げられるまで、マウンドの上で毅然としていた。
結局、そのまま一点も返すことができず、最後のアウトを取られた。
相手の投手が飛び上がってガッツポーズをし、駆けてきたキャッチャーがそれを抱きしめる。
ドッ、とベンチから相手校の選手たちがやって来て、みんなで人さし指を立て、空へ突きあげた。
テレビ越しにも、観客たちの歓声が、地響きのように聞こえた。
泥だらけになった選手たちが整列する。
みんな、泣いていた。
――彼を、のぞいて。
彼は、泣いていなかった。
白い歯を見せて笑い、泣いているチームメイトたちの背を叩き、頭をぐりぐりと撫でていた。
なにか、声をかけている。
明るくふるまっていた。
表彰式が終わり、首から銀メダルをさげた選手たちがベンチに引き上げる。
最後に、一瞬だけ、荷物をまとめている彼の姿が映った。
大きなスポーツバッグの鐶で、わたしのつくったお守りが揺れていた。
◇
夢や期待がついえたあとの日常はつらい。
翌日の校内は、すっかり火が消えたようになって、天気と裏腹に、どんよりしていた。
健闘した野球部員たちに、みんなは「立派だった」と声をかけた。
「あそこまでいけたなんて、たいしたものだよ」と。
しかし逆に言うと、それ以外にかける言葉がないようでもあった。
「いやあ、あとちょっとだったんだけどなあ」
それでも生駒くんは、明るかった。
「俺が打たれなければ!」と、冗談めいて言い、なんとかみんなの気分を盛り上げようとする。
そのやさしさに甘えて、男子たちは調子づく。
「そうだよ、生駒のせいだ!」と、笑いながら言った。
放課後、砂浜に行く前に、なんとなく、中庭でポカリを飲みたくなった。
ベンチに座り、風に吹かれる。
夕陽の染みた入道雲をぼんやり見つめていると、どん、と、となりに腰かける人がいた。
生駒くんだ。
彼はなにも言わず、持ってきたペットボトルのポカリスエットをあおった。
ごくりごくりと喉を鳴らし、一息で半分くらいまで飲んで、豪快にげっぷをした。
「あーあ」
彼はうでを広げて背もたれに寄りかかり、天をあおいだ。
「負けちまったよ」
「そうだね」
わたしがうなずくと、彼はポケットをまさぐり、お守りを出した。
「こんなにいいものまでつくってもらったのに」
「バッグにつけてくれてたね。うれしかったよ」
「なんで知ってんの?」
「テレビで見たよ」
「あ、映ってたのか」
彼は苦く笑った。
それから、少し間をおいて、
「決勝な。母さんも、見にきてたつよ」
「うん」
「親父に内緒で、パート休んで。わざわざ遠いところまで」
「うん」
「負けちまったよ」
「うん」
「俺のせいだなあ。俺のせいだ」
「生駒くんを責める人なんて、いないよ」
ふ、と、肺の浅いところから、彼が息をはいた。
わたしは、雲を見ていた。
彼が、洟をすする。
「こんなに、いいものまでつくってもらったのに」と言う。
「母さんが、見にきてたつよ」と震える声を漏らして、彼は泣いた。
嗚咽を漏らす彼に、わたしは、なにもしない。
しないんじゃない。
できない。
本当は、抱きしめたかった。
できっこない。
だからといって、背をなでる、肩を組む――なんの他意もなく、ただ友人を励ますために、「男子」ならあたり前にできそうなことも、わたしには不可能だった。
彼の前では、わたしは永遠に、慎太郎なのだから。
もし、ここで彼を抱きしめたら、それこそ彼に対する裏切りになるだろう。
わたしを男ともだちとしてみているからこそ、彼はわたしの前で泣いてくれている。
彼はわたしを、「慎太郎」として信頼してくれている。
その信頼につけ込で、彼に触れるだなんて、できなかった。
ひとしきり泣いたあと、彼はティッシュで豪快に洟を噛んだ。
真っ赤な目をして「あー、くそ」とつぶやき、袖でごしごしと目をぬぐう。
「がまんしてたのによ。結局、泣いちまったよ」
「うん」
「内緒な、これも」
「うん」
彼は、うーんと伸びをする。お守りをぎゅっと握りしめた。
「森下。来年は絶対、これ持って甲子園に行くから。で、全国制覇するから」
「うん」
「でよ。そのあとは、プロになる。そんで、金稼いで、母さんを親父と離婚させて、母さんに楽させる」
「うん。できるよ、生駒くんなら」
ハハハ、と彼は笑う。
「簡単に言うな」
「ほんとにそう思ってるんだ」
「俺の人生設計を笑わずに聞いてくれるんだな」
「笑うわけないよ」
「やっぱりおまえはやさしいよ」
彼は笑いながらうなずいて、
「森下は、なにになんの?」
「え?」
ペットボトルの水滴が、ぽた、と、わたしの手の甲に落ちる。
「進路。卒業したら、なにしたいとか、なにになりたいとか、あんの?」
急な質問に、わたしは返答できなかった。
無言を答えと受け取ったのだろう、彼もまた無言だった。
申し訳なく思う。
しかし、彼がそういうことを訊いてくるのが、嬉しくもあった。
彼は、こころを許した相手にしか、踏み込んだことを尋ねない。
わたしは彼にとって、もう、そういう存在になっているのだ。
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