第4話 ポカリスエット 二.

 町の上空に、完全体の夏が来た。

 

 例年ならなんとも思わない季節のうつろいが、今年は憂鬱だった。

 夏が来たということは、海開きがあるということ。

 すなわち、これまで邪魔する人のいなかったわたしとナシャルの砂浜に、海水浴客が訪れるようになるのだ。

 

 この砂浜に人が増すと、わたしたちには不都合がある。

 

 まず、落ち着いておしゃべりができない。

 次に、人の間を縫わないといけなくなるので、骨を探すのが困難になる。

 そして、以前にナシャルが言っていた通り、「大切なひと」の骨を、きれいな流木だと勘違いされて、先に誰かに拾われてしまうかもしれない。

 

 ただ、いくら文句を言っても、こればかりは避けようがない。

 わたしは重たい気持ちで、そのときを覚悟した。

 

 しかし、どうにもおかしい。

 

 七月中旬になっても、砂浜に、人の姿がないのだ。


「去年のこの時期は、海水浴客がいたんだよね?」


 夕方の堤防でナシャルにそう訊くと、彼女はうなずいた。


「どういうことだろう。今年は、海開きが遅れてるのかな?」


 彼女は、しずかにほほ笑んだ。そしてそれ以上、なにも言わない。


「……まあ、人がいないならいないで、いいよね」


 もう数日もすれば、砂浜は人でいっぱいになるだろう。

 必ず来る未来に気を揉むより、それまでの猶予をたのしむべきだ。

 

 いつものように、わたしたちは骨を探し、おやつを食べ、おしゃべりをする。

 いつものように日が暮れて、いつものようにほほ笑みを交わし、いつものルートで帰路につく。

 

 家に帰り、洗面所で手を洗っていると、おばあちゃんに声をかけられた。


「おかえり。さっき、慎くんに電話があったよ」


 聞けば、頼んでいた本が入荷したという、図書館からの電話だった。


 そうだ。

「人魚なの」とナシャルに告白された翌日、わたしは図書館へ行って、人魚に関する本を借りようとした。

 改めて、人魚のことを知ろうと思ったのだ。

 

 図書館には、子ども向け絵本の『人魚姫』はあったけれど、その話はよく知っている。

 もっと、人魚の詳細に迫るような本がほしかった。

 だから、入荷のリクエストをした。


 書店で注文しなかったのは、おこづかいを節約したかったから。

 お金は、ナシャルと一緒に食べるおやつや、彼女の生活品のために使いたい。

 

 翌日の放課後、わたしは砂浜のナシャルと早めに別れ、帰路に図書館へ寄って、依頼していた本を借りた。

 読みやすいようにアレンジされた『人魚姫』ではなく、その原作である、アンデルセン童話集の『人魚姫』だ。

 

 ナシャルは、「海の魔女に頼んで、声と引き換えに人間になった」と言った。

 それは、アニメでも、絵本でも同じだ。

 

 でも、「人魚が骨を探す」というのは、聞いたことがない。

 

 きっと、そういう設定が、原作にはあるのだろう。

 そして、もし原作にその設定があったなら、「人魚の骨探し」の結末もわかるかもしれない。

 

 夕飯とお風呂をすませ、部屋にもどる。

 

 クーラーをつけると、涼しい風がカーテンをゆらした。

 窓を閉めていても、蝉と蛙の声が聞こえる。

 

 わたしは机につき、こころの準備をして、『人魚姫』を読んだ。

 

 すぐに読み終わるだろうと思っていた。

 実際、二時間ほどで読み終わった。

 そのあとは、夜に少しずつ進めていた、野球部のお守りづくりをするはずだった。

 

 でも、わたしは、閉じた本を前に、動けずにいた。

 

 アニメや絵本の人魚姫は、王子と結ばれ、幸せな結末を迎えていた。

 しかし、原作の『人魚姫』は違う。

 

 彼女は、王子と結ばれなかった。

 王子の命と自分の命を天秤にかけたすえ、みずから海に身を投げた。

 王子からの愛を受けられなかった人魚は、そのまま、泡になった。

 

 人魚が人間でいられるのは、大切なひとから愛を注がれている間だけなのだ。

 

 これまで、明るく、たのしい物語だと思っていた『人魚姫』は、誰かがメッキを塗装したものだった。

 このお話の本当の顔は、かなしい愛と、くるしいやさしさに満ちていた。

 

 ナシャルの姿を思い描く。

 

 絵本と、童話集……彼女は、の人魚なのだろうか。


『人魚姫』の原作に、「骨拾い」の描写はなかった。

 つまり、あれはナシャルが、話をなぞらず、自分の意思でやっていることなのだろう。

 

 丸窓を開けて、夜空を見上げる。

 とりまきの星のまんなかで、半月がかがやいている。

 

 わたしは月を見つめて、どうか彼女が絵本の人魚であってほしい、と願った。

 それからずっとぼんやりしてしまって、なにもしないまま、ねむった。


              ◇

 

 朝になって、一日に色がつく。

 

 遅れを取り戻すため、わたしは学校でもお守りづくりをすることにした。

 休み時間と放課後を使って、筒見さんの助言をうけながら進めようと思った。

 

 しかしその日、筒見さんは欠席だった。

 先生の話によると、風邪をひいてしまったらしい。

 ホームルームのあとに「大丈夫?」とメッセージを送ると、すぐに彼女から『大丈夫だよ』と返事がきた。


『ちょっと、夜更かししすぎちゃった』


「お守りづくり?」


『うん。凝りだしたら、止まらなくなっちゃって』


「今日は、針をさわっちゃだめだよ。安静にね」


『わかった。心配してくれてありがとう』


 おばあちゃんと筒見さんにノウハウを習ったことにして、わたしは、ひとりで作業にはげんだ。

 デザイン図をもとに、パーツごとにフェルトを切り、縫いあわせていく。

 黙々とやっていると、クラスメイトたちがねぎらいの声をかけてくれる。

 みんなの前で堂々と手芸をできるのが、なんだかくすぐったかった。

 

 放課後も教室に残り、夢中になってやっていると、背後から肩をたたかれた。


「おつかれ、森下」


 生駒くんだ。


「それ、今日、ずっとやってんな」


「あ、うん」


「汗、すご」


「え?」と言って、ハッとする。


 放課後になると、教室のクーラーが切れる。

 徐々に温度を増していた室内で、わたしは全身に、じわりと汗をかいていた。

 没頭していたので、気づかなかった。

 あわてて、ハンカチで汗をぬぐう。

 

 彼はそんなわたしを見て、苦笑いを浮かべる。


「なあ。ちょっと息抜きに、外、行かん?」


 とつぜんの誘いに、わたしはドキッとした。


「あ、でも。生駒くん、部活は?」


「あとで行くよ」


「あとで、でいいの?」


「監督が、今日のおまえは休息日だ、って。でも、見学くらいはできるよな。だから、あとででいいとよ」


 教室の出入り口に立って、彼が急かすように手招きする。

 わたしは急いで席を離れ、彼のあとに続いた。


              ◇


 購買部でパンと飲み物を買ってから、わたしたちは中庭のベンチに座った。

 

 すぐうしろにあるさくらの木が、まだらな木漏れ日をベンチに落としている。

 夕方になっても、蝉しぐれはやまない。

 南風が吹き、青い葉がサアッと音を立てた。


「暑いなあ」


 牛乳パックにストローを突きたてながら、生駒くんが言う。


「なんか、お礼言うタイミングがなかったけどよ。こないだ、試合見に来てくれて、ありがとな」


 わたしはうなずき、ポカリスエットのプルトップを開けた。


 なにを言うべきかわからなくて、ペットボトルに口をつける。

 甘くてしょっぱい飲み物が、どきどきする胸に沁みる。


「応援だけじゃなくて、お守りもよ。あんな熱心にやってくれて。ありがたいわ」


「お礼を言われることなんて。ぼくがやりたいだけだから」


「そうか。森下って、ほんとやさしいな」


 彼はニカッと笑って、たまごサンドをかじる。

 わたしは胸がぎゅっとして、両ひざのうえにのせたこぶしから視線を動かせない。

 返事をしなければと思い、しぼり出すように、


「生駒くんのほうが、やさしいと思うよ」


「俺? どこが?」


「……ぜんぶ」


「ぜんぶ?」


 彼は、ハハハと笑う。


「ずいぶん俺を買ってくれちょっちゃね」


「ちがうよ。ほんとのことだよ」


 わたしは、うつむいたままでいる。


「ぼくはいつも、どうしたら生駒くんみたいになれるんだろうって考えてる。やさしくて、ありのままの自分でいて、気取ってなくて、かっこよくて……」


 彼が、無言で足を組む。


 そのとき、午後五時を知らせるチャイムが鳴った。


「……俺さあ」


 チャイムの余韻が消えかけて、彼が小さく口を開いた。


「俺さあ。親父がきらいなんだよね」


 わたしは、ふっ、と彼の顔を見た。


 彼は苦々しくほほ笑んで、ベンチの先にあるサルビアの花壇を見つめていた。


「俺の親父、保険の営業マンで。仕事が染みついちょっとかな、いつも、すごくヘコヘコしてるんだ」


 わたしは黙って、彼の言葉に耳をかたむける。


「でも、酒を飲んだら、豹変する。ものすごく暴力的になって、母さんを殴るとよ。すごく汚い言葉も使う。……それなのに、酒が抜けたら、自分のやったことを後悔して、必死にあやまってくる」


「……」


「タガが外れたら、いつも隠している自分が顔を出すんやろね。いや、酒の力を借りて、わざとやってるのかもしれない。ほんとは醒めてるのに、酒のせいにして、ここぞとばかりに自分を解放してるのかも」


 しゃべるにつれて、彼の声が、小さく、つぶやくようになっていく。


「……いずれにせよ、あいつは許せない。ひどいことをして、誰かを……女性を泣かせるような男は、最低中の最低だ」


 それは、わたしに話しているのではなく、まるで自分に言い聞かせているようだった。


「……俺は、あんな卑怯な人間になりたくない。いつも、自分を押し込めずに生きていたい。がまんが爆発したからって、誰かに暴力をふるいたくない。……俺だけは、母さんに、やさしくしたい」


 ここまで言って、恥ずかしくなったのか、彼は声色を明るくした。


「つまり、なにが言いたいのかというとだな。親父みたいになりたくない、って思いながら過ごしてたら、こういう感じになったってわけよ」


「わた、」


 無意識に、声が漏れる。

 はずれかけていた仮面をあわててつけて、


「ぼくも、おと、親父がきらい」


「え?」


「きらい。きらいなんだ」


 彼は、じいっとわたしの顔を見つめる。

 わたしはそれ以上、なにも言えない。

 彼は、ははっ、と笑った。


「じゃ、俺たち、一緒だな」


 すっ、と、彼は手のひらをあげた。


 ハイタッチ。


 わたしも、手のひらをあげる。

 彼はうれしそうに、ぱち、と、軽めに自分の手をあわせた。


「よし。今ここに、親父ぎらい同盟の成立だ」


「なにそれ」思わずふきだす。「へんなの」


「この成立を記念して、アカウントを交換しよう」


 彼は、残りのたまごサンドを口に詰め込んで、ポケットからスマホを取り出した。


「ほら」と言って、わたしをうながす。


「つか、なんで今まで交換いてなかったっちゃろ。こーんなに仲良しなのに!」


 どこか芝居がかったように、彼は笑う。

 わたしはうれしさで飛び上がりそうになるのをなんとかこらえ、冷静をよそおって、彼とアカウントを交換した。


「うん、ばっちり」


 彼は満足そうにうなずき、ベンチを立った。


「じゃ、そろそろ行くわ。付き合ってくれてありがとな」


「こちらこそ」


 彼が、すたすたと歩んでいく。ふと振り返って、


「さっきの話、内緒な」


「うん。秘密にするよ」


「たのむ。森下にしか言ってないんだから、漏らしたらすぐわかっちゃうぞー」


 強い風が吹き、ザアッ、と、葉の擦れる音がした。

 彼の背中が見えなくなるまで、わたしはベンチに座っていた。

 

 ポカリを飲んで、深い息をはく。


 わたししか知らない、彼の秘密。

 そして、アカウント。


 わたしは今、ふいに、ふたつも宝物を得てしまった。

 今日は、なんていい日なんだろう。

 うれしさが、吐息のような笑い声になってこぼれる。

 

 早く、彼にお守りを渡したい。

 あと少し、作業をしようと決めた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る