第3話 もうひとりの人魚 五.
最初に生駒くんを「すてきだな」と思ったのは、去年の春。
入学式を終えたあとのホームルームで、自己紹介をしなければいけなかった。
順番が回ってきて、わたしはしっかりと仮面をつけ、無難なあいさつをした。
それで終わりのはずだったのに、先生が余計なひとことを足してしまった。
「森下くんは、東京から引っ越してきたそうです」
クラスメイトの数人が、えっ、と声を上げる。
驚きの声だ。
ホームルームが終わり、先生が教室を出ていくと、わたしはたちまち、みんなに囲まれた。
「森下くん、なんでこんな田舎に引っ越してきたと?」
「原宿行ったことある? クレープ食べた?」
「歩いてるだけで芸能人に会えるって、ほんと?」
「東京って、民放のチャンネルがふたつ以上あるっちゃろ?」
あとから聞いた話によると、宮崎の学生というのは、「東京」というものに強いあこがれを持っているらしい。
九州の中でも「陸の孤島」と呼ばれるくらい閉鎖的な場所に住む彼らにとって、東京という都会は、ほとんど外国なのである。
「ねえねえ、東京のどこに住んでたと?」
「ち、千代田区……。御茶ノ水駅の、ちかくだよ」
「わっ、すごい、なまってない! 標準語や!」
そのあとも、興味津々なみんなから、ひっきりなしに質問がとんでくる。
右から左から話しかけられて、わたしは目を回してしまった。
「おい、そこらへんにしとけって」
ひとりの男子のよく通る声が、わたしとみんなの間に割って入った。
声量のわりに、語気はやわらかく、とげとげしさはない。
「森下くん、困ってるやろ」
苦笑いを浮かべて、その男子……生駒くんが、わたしの前にきた。
「馴れ馴れしいやろ? みんな、中学もだいたい同じだったから、入学初日なのに顔なじみだらけで、距離感がおかしいとよ」
そうして彼は、「ほうれ、散れ散れー」と言って、みんなを解散させた。
不思議なのは、そのとき、誰も気分を害した様子がなかったことだ。
ぶうぶういう人はいても、それは本気ではなくて、猫同士がじゃれているような、冗談めいたところがある。
彼の人柄のおかげだろうと、わたしはぼんやり思った。
それからわたしは、なんとなく、彼を気にするようになった。
野球だけでなく、彼はスポーツ全般が万能で、体育の授業ではおおいに活躍する。
彼が飛んだり跳ねたり走ったりしている姿は、見ているだけですがすがしい。
しかし彼は、自分がどんなに優秀な成績を残しても、得意な顔ひとつしない。
それでいて、サッカーの対抗戦でわたしがボールをこぼしたときなどには、「どんまい、どんまい!」と、笑顔を浮かべ、大声で言ってくれる。
情に厚い人だと思っていると、まさにそれを裏付けるようなことがあった。
道徳の授業でのことだ。視聴覚室で『盲導犬の一生』というビデオを見ていると、後方の席から、すすり泣きが聞こえてきた。
見ると、人目もはばからず、彼が号泣している。
口を開け、洟をたらし、机上にぼとんぼとんと重たい涙をこぼしている。
それに気づいた彼の周囲の男子たちが、「ぶっ」とふき出す。
とうとう我慢できなくなったというように、彼は腕を目にあてて、「ううううう」と嗚咽を漏らした。
「だってよ。盲導犬は、あんなにつらい訓練をうけて、ずっといい子でよ。目の見えない人にとって、かけがえのない家族になってくれるのに、でも最後は、人間よりはやく死んじゃうっちゃろ」
男泣きをする彼に、さすがの先生も笑った。
「気持ちはわかるけど、そんなに泣くかね、生駒」
わたしは胸を掴まれたように、みんなから笑われる彼を見つめた。
誰にどう思われるかなんて、関係ない。
自分の気持ちをかざることなく言えて、涙を流したいときに流せる彼のことを、うつくしい、と思った。
自分を偽らない。
彼は、そういうこころを持っている。
そうだ。
彼は歌が下手なのに、音楽の授業では誰よりも楽しそうに、大きな声で歌う。
わたしがお弁当を忘れたら、「はらぺこの近くで食うメシはまずい」と、いの一番に自分の分をわけてくれる。
クラスメイトのために、納得のいかない指示について、先生に反抗することもあった。
あこがれられずにいられない。
そして……そのあこがれが恋に変わった瞬間を、今でもはっきり覚えている。
高一の、秋の日。
わたしと彼は日直で、放課後に教室の掃除をしていた。
そのとき、わたしは不注意で、棚にあった花瓶を割ってしまった。
誰もいない教室に彼とふたりきり、という現実にどきどきして、注意が散漫になり、ほうきの柄があたってしまったのだ。
「あっ」
割れた花瓶を前に、わたしはうろたえた。
「おっと」
彼はすぐに、砕けた花瓶の破片を拾い集める。
「ケガは?」
「あ、だ、大丈夫」
「よし」
彼は小さく笑い、「あるある」と言う。
それだけで、救われた。水を張ったバケツに、花瓶に生けてあったスイセンを差してから、ふたりで後始末をした。
それからわたしたちは、日誌を提出するために、職員室へ行った。
花瓶のことを先生に話そうとしたとき、わたしより先に、彼が口を開いた。
「先生、すみません。俺たち、花瓶を割っちゃいました」
「えっ」
驚きの声とともに、思わず、彼の顔を見る。
「俺たち」ではない。
わたしが割ったのだ。
「おいおい、なにやってんだよ。気をつけろよな」
先生は呆れた表情でため息をつき、にぎっていたペンで頭をかいた。
それからぽつぽつと、小言をくれる。
彼が頭を下げる。
わたしもあわてて続く。
職員室を出て教室にもどり、彼は鞄を手に取った。
「さあ、部活、部活」という彼に、わたしは声をかけた。
「ねえ」
「ん?」
「なんで、一緒にしかられてくれたの?」
彼はきょとんとして、
「なにが?」
「花瓶のこと。ぼくが割ったのに」
「それが?」
「いや……。生駒くんは、なにもしてないじゃん。ぼくひとりのせいなのに、俺たちが割った、って」
彼は、考えるような顔をする。
すぐに、
「ふたりでしかられた方が、半分こできるだろ」
「なにを?」
「いやーな時間を」
彼は笑って、鞄を肩にかけた。
「じゃ、また明日な」
後ろの扉を開けて、彼が出て行く。
その背中を見送ったあとでも、わたしは動けずにいた。
まぶしい斜陽が窓から差しこんで、教室を濃い橙色に染めている。
左胸の中で、心臓が暴れていた。
苦しくて押さえると、手のひらを打つ、強い鼓動が感じられた。
全身に沸騰した血をめぐらせる、恋の鼓動だった。
◇
夢中でおしゃべりしているうちに、あたりは薄暗くなった。
時刻は、七時半を回っている。
おばあちゃんが心配しているだろう。
わたしはナシャルに別れのあいさつをした。
「また明日ね、ナシャル」
立ち上がろうとすると、彼女がわたしのシャツの裾を引っぱった。
「どうしたの?」
彼女はほほ笑み、空を指さした。
夜空の暗幕にかざられた、ビーズのような夏の星がかがやいている。
光害のないこの町には、生まれたままの姿の空があった。
中でも、ひときわ光っている星がある。
彼女は、その橙色の星を指しているようだった。
見て。
きれいだね。
なんて星かな?
彼女の横顔は、そう言っているようだった。
「あれは、たぶん、アンタレス」
わたしはふたたび、切り株に腰かけて、彼女と同じように星空を見上げた。
「さそり座の星だよ」
彼女は、ふうっと息をつく。
「ナシャル、星、好きなの?」
尋ねると、彼女はわたしに身を寄せて、右手でわたしの左手をにぎった。
「なに?」
彼女は空いている手で、ジーンズのポケットから、細長いものを出した。
薄い桃色で、枝分かれしている。小さなサンゴのようだった。
「なあに、それ」
彼女はにこりと笑い、夜空をつつくように、数回、サンゴを振った。
線香花火のように、サンゴの先端から光の粒子がこぼれる。
次の瞬間、ぽろん、と、夜空の暗幕から、星がこぼれて、砂浜に落ちてきた。
「えっ」
それを皮切りに、ぽろん、ぽろんと、どんどん星が落ちてくる。
星はとても小さくて、まるで、かがやく金平糖が降っているようだった。
「わあっ……!」
赤、白、青、緑、黄……。
砂浜は、色とりどりの星の輝きでいっぱいになった。
カラフルな光に照らされて、暗い波が虹色に染まる。
汽水域にも、色彩があふれだす。
ナシャルの手の中で、夜空の底をつつついたサンゴのステッキが、淡く発光している。
そのうち、夜空に、たくさんの切れ込みが入った。
流れ星だ。
「すごい、すごい!」
わたしは、拍手をした。
「ナシャル、魔法使いなの?」
彼女は、得意げに胸を張る。
「人魚って、そんなこともできるんだね!」
わたしは、近くに落ちてきた星をひろった。
いびつな形の星の中に、ホタルが閉じ込められているようだ。
彼女がサンゴを振るたび、夜空が表情を変える。
金平糖の星は、絶えず砂浜に降っている。
わたしはたまらず立ち上がり、両手を広げて、星の注ぐ砂浜を歩いた。
踊るように回って、心の底から笑って、飛びはねる。
目の前に大きな星が落ちてきて、思わず、きゃあっ、と声を上げる。
波打ち際まで行って、虹色の波を蹴った。
ザアッ、と、しぶきがはじけた。
夢を見ているようだった。夢を見ていた。
やがて、ふっ、と、砂浜が闇を取り戻す。
目を閉じて、深呼吸をして、目をあける。
これまでと同じ、アンタレスの光る、なにも変わらない夜空が広がっていた。
わたしとナシャルは、顔を見あわせる。
お互いの両手をとって、あはは、と笑った。
叶いようのない恋の話をして、拾えるはずのない星を拾う。
この汽水域で、わたしは自由だった。
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